【SF小説】偽りのアカシヤ|第0話 プロローグ
音が消えた。
一瞬の無音。次の瞬間に——人が倒れる音がした。ひとつ、ふたつ。廊下の先で硬い音が連鎖する。磨き上げられた床に体が崩れ落ちる音。
照明が明滅した。
走る。靴底が床を叩く。自分の足音だけが妙にはっきりと聞こえた。
曲がり角の先に——黒い衣服の人影が見えた。三つ。裸足だった。両腕の血管に沿って、銀色の線がかすかに光っている。
迷いなく歩いていた。倒れた人々の間を、踏まないように、しかし気にもせずに。内部構造を知っている歩き方だった。
腕の声にノイズが走った。引きちぎるようなノイズの合間に、断片だけが届く。
「——制御ノー……に——」
声が壊れている。いつもそばにある声が、暴力的に引き裂かれている。
走る。追う。倒れた人々の体を跳び越えながら。体が動いた。普通の速さではなかった。足が床を蹴るたびに三メートル以上の距離が縮む。壁が流れる。視界の端で明滅する照明が尾を引く。
自分の体が、こういう時のために作られていたのだと——初めて、そう感じた。
***
体が溶けた。
そうとしか言いようがなかった。足元から順に、輪郭が消えていく。痛みはない。温度もない。ただ——自分という存在の境界線が、砂のように崩れていく。指先の輪郭が滲んで、腕が透けて、胸のあたりで呼吸が消えた。
声も消えた。あの声も。
視界が白くなる。白のなかに、一瞬だけ、何かが見えた気がした。自分の顔のようなもの。しかし左右が逆で、表情がない。自分でないものが、自分の形をしている。
そして再び——足がある。手がある。心臓が動いている。
床の冷たさが足裏に伝わった。空気が肺に入った。光が目に痛い。すべての感覚が、ゼロから立ち上がる。
一度死んで、戻ってきた。そういう感覚だった。
腕の声が言った。すぐそばで。
「……大丈夫?」
大丈夫なのかどうか、わからなかった。今ここに立っている自分が、さっきまでの自分と同じなのかどうかも。
ただ、声が聞こえた。それだけが確かだった。
***
湿気が壁のように立っていた。
苔むした砂岩を手で押しながら、奥へ進む。光は頭上の木々に遮られて、ほとんど届かない。水の匂い。石の匂い。腐葉土の、甘く重い匂い。
壁面に何かが刻まれていた。
文字のようだが、文字ではない。線のようだが、装飾でもない。指先がその溝をなぞる。深い。誰かが力を込めて刻んだ。規則的な間隔。意味を持つことは確かだが、どの体系にも属さない。
「……既知のどのデータベースとも一致しないよ」
誰かがこれを残した。いつ。何のために。何千年もここで、苔の下で、木々の闇のなかで、誰にも読まれずに。
***
白い壁が、どこまでも続いていた。
匂いがない。風もない。足音だけが、均一な間隔で響く。すれ違う人々の表情は穏やかで、歩幅は一定で、誰も振り返らない。
完璧に静かな街だった。何も欠けていない。路面に亀裂ひとつない。空気の温度は均一で、影の角度まで整っている。
なのに、何かが足りない。
前に来た時、あの壁にはまだ人の描いた絵があった。今は白い。均一な白。何かがあったことすら示さない白。
この街にはあの声だけが生きていた。
***
氷の下に、海がある。
這いつくばって耳を当てると、遠い水の音がした。氷は頬を焼くほど冷たい。その下を何かが動いている。鯨の声かもしれない。あるいは、氷そのものが軋んでいるだけかもしれない。
腕の声が、遠かった。ノイズではない。ただ、遠い。ここには声の届きにくい場所がある。機械の声が薄れる場所がある。
代わりに、背後で別の声がした。人の声。年老いた声。
「おまえたちの機械は何でも名前をつけて分けたがる」
吐く息が白い。空が低い。地平線は氷と空の境目が溶けて、どこまでが大地でどこからが空なのかわからない。
「だが大気と知恵は同じものだ。分けられると思うほうが、おかしいんだ」
ここには名前のないものだけがあった。
***
崩れた石の構造物のそばに、老人が座っていた。
火の匂いがした。チャイを淹れる手は節くれだって、爪の間に煤が詰まっている。炎の光が、深い皺に影を作った。
砂漠の風が低く吹いていた。頬を撫でる風は乾いて、昼間の熱をまだ含んでいる。星が出始めていた。砂の匂いと、炭の匂いと、茶葉が湯に触れる匂い。
「かつてこの地には、すべてを知る者がいた」
老人の声は低く、乾いた風に溶けた。火が揺れて、老人の顔の半分が影になる。
「しかしそれは真の知恵ではなかった」
腕の琥珀色の光が揺れた。
砂漠の焚き火のそばで。いつもそばにある声が、いちばん穏やかに灯っていた。
***
風が変わる。
すべてを管理する声と、すべてを記録する体と、その外側に広がる砂漠と密林と氷の世界。
人が倒れる音も。体が溶ける感覚も。読めない記号も。匂いのない街も。名前のないものも。老人のチャイの湯気も。
すべてが遠のいて——
乾いた空気のなかに、ひとつの声だけが残る。
「ここで生きていく」
