【ショートショート】横なぐり

 地下鉄で端の席に座っていたら、とことこ歩いてきたスーツ姿の男がいきなりオレの左頬を横なぐりした。
 がくん、と首が曲がるほどの勢いだ。
 うつらうつらしていたオレは一気に目が覚め、持っていたスマートフォンがどこかへ飛んでいった。
「いってー」
 と呟いたが、殴った男は清々とした表情で自分の席に戻っていく。
 オレは自分の右隣を見る。高校生くらいの男子だ。ホッとする。これが女だったり子どもだったりしたら殴りにくいが、高校生ともなればぜんぜん平気だ。
 オレはぐっと腕を引き、男子高校生の頬桁ほおげた を殴り飛ばした。
 高校生は座席からずり落ちそうになっている。すっとした。
 あたりを見回す。スマートフォンを見つけた。拾っている間に、横なぐりの波はさらにふたりぶん進んだ。高校生が殴ったのは、買い物籠を持ったおばちゃんだ。よく殴ったもんだなと思うが、おばちゃんは怒りを隣の女子高校生にぶつけていた。
 基本、殴った者には返さないのが横なぐりのルールである。
 八両編成の地下鉄だから、そう簡単にはげんこつの波は帰ってこない。来たとしても向かい側の座席だろうからとりあえずは、安心だ。
 殴られた頬がまだじんじんする。
 横なぐりがいつから始まったのか、そのルーツは定かではない。
 一説には満員電車にイライラした者が、呑気に座っている者を殴ったのが最初だと言われている。それがじょじょに広がって、いまでは座っている者は殴ってもいいという暗黙の了解になっている。
 すっかり目が覚めてしまったので、スマートフォンでマンガを読んでいると、いきなり、反対側から横なぐりが来た。予想もしていなかったので、オレはびっくりした。
「おい、復讐はなしだろ」
 と思わず言ったら、高校生はニヤニヤと笑っている。
 オレは首を伸ばして、先方を見た。
 女子高校生から数えて五人ほど向こうに、筋者らしきぶっそうな男がいる。
 ははあ。
 やはりあれは殴れなかったか。
 ときどき、こういう逆流現象が起きることがある。
 オレはとことこ歩いて、さっきオレを殴ったスーツ姿の男を殴り飛ばした。
 やつも目を白黒させている。
 そして、いやそうな顔をした。男の隣に座っているのは、いかにも屈強な、極真空手でもやっていそうな若い男だ。こいつも殴りにくい。
 スーツ姿の男とチラッと目があった。
 あ。またオレを殴る気じゃないだろうな。
 こんな短い間隔で横なぐりが来たんじゃたまったものじゃない。
 オレはあわてて、吊り皮につかまった。立っているものを殴るのはルール違反である。
 それを見て、さーっとみんなが座席を立った。
 座っているのは、筋者と極真空手だけ。
 ハブとマングースのような対決が見られるかと思ったが、ふたりは腕を組んだまま微動だにしない。
 こうして横なぐりの波は消滅した。
 ごく珍しい光景である。
 しかし、横なぐりが消滅するのは一時的な例外であって、オレはそのあとに入った映画館でまた殴り飛ばされ、横にいた初老の男を殴り飛ばしたのだった。

(了)

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