築50年芦屋の家 耐震リフォーム物語④〈地獄のセルフ解体〉得たのは感謝!
真夏の暑さの中、息子に手伝ってもらいながら家の周りの雑木を伐採し、外壁にこびり付いた枯れたツタを除去、外周をすっきりと整えることができました。

父の突然な死
ちょうど作業を始めた頃、父が熱中症で入院。何度か見舞いに足を運びましたが、9月に入り永眠しました。享年94。大往生だったと思います。認知症や大病もなく、最後まで矍鑠(カクシャク)とした大正生まれの人でした。どうも、自分でトイレが出来なくなり、介護されるようになってから食事をすることを拒んだようです。
「探偵ナイトスクープ」で掛布雅之さんが父を取材へ
父の凄さを改めて思うのは、50の手習いで始めた俳画で大阪市長賞・大阪府知事賞を受賞し、その後も俳句会の会長として亡くなるまで創作を続けたこと。
若い頃から字が達筆で、阪神タイガースの表彰状を依頼されるほどでした。ご縁がつながり「探偵ナイトスクープ」の取材を受け、掛布雅之さんが自宅を訪れたこともあります。その時は父を囲んで子や孫、玄孫まで60人が集まり、賑やかに掛布さんを迎えました。

父に反発した思春期
16歳の頃、進学をめぐって父から嫌味を言われたことをきっかけに反発し、オートバイで暴走するなど無鉄砲な行動に走りました。その結果、交通事故でほぼ1年近く入院することに。当時は父のことが大嫌いでした。しかし、松葉杖をついた私を毎日高校まで送迎してくれたのです。
ニューヨーク渡米
振り返れば、ニューヨークへ渡るときも、父の言葉に支えられました。遊学のつもりで渡米したのが現地のデザイン会社に採用され、「3年は日本に戻れない」と国際電話で伝えたとき、父は「男なら頑張れ。家のことは心配するな」と言ってくれました。その言葉に受話器越しに涙が溢れたことを今も覚えています。当時、永住権取得には3年かかりましたが、その間も父はずっと私の背中を押してくれました。
その後は、父との間で俳句の手紙をやり取りするのが習慣となり、返句を交わす時間が何より懐かしく楽しい思い出になっています。

木漏れ日の 朝日を浴びて 父偲ぶ
一昨年、朝日ヶ丘町の家の庭に一本だけ残した木の下で休んでいると、父を思い出し、キラキラとまぶしい木漏れ日に包まれながら、この俳句が思い浮かびました。父から返句をもらえたら、嬉しい。
きっと、下手くそ!と言われる(笑)。
屋内をスケルトンにするのはまさに地獄
風雨をしのぐため、外壁と窓だけは残し、室内の壁紙・石膏ボード・壁板・天井板・床板・配線・配管・トイレ・浴室・台所・キャビネットなどをすべて撤去する作業に取りかかりました。作業スタッフは私と高校生の息子、たった2人です(笑)。
こうして、暑く苦しい“解体の日々”が幕を開けました。解体費用を抑えるためとはいえ、長く辛い作業が待ち受けていました。幸い世の中はコロナ禍で自粛ムード。時間だけは十分にありました。

初めて手にしたバールで壁を叩き割り、石膏ボードを粉々に砕いては土嚢袋に詰め、庭へ運び出す。庭に山積みした廃材が2トントラック分ぐらい一杯になったら、産廃業者さんに回収してもらいます。ただし荷下ろしは予算外。庭から道路まで3〜4mの高低差があるため、ウインチを購入して重たい土嚢を毎回荷台に積み上げました。記憶では10回ほど回収に来ていただいたと思います。


天井板や床板、壁板などの木材の廃材は細かく切って軽トラックに積み、芦屋市の焼却場へ。これも7回ほど往復しました。毎日毎日、土ぼこりと粉塵にまみれ、暑さに苦しみ、釘で怪我を負いながらの作業。
浴室の解体が最も難所だった
特に浴室はコンクリート床がタイルで固められていたので、初めて、電動ハンマーを使い、ガタガタ楽しみながら破壊しました。まさに「地獄の解体」でした。



ただ、そこで強く感じたのは「感謝」です。重い廃材を回収してくださった産廃業者さん、焼却場で受け入れてくださった芦屋市の職員さん、そして騒音や埃でご迷惑をおかけしたご近所の皆さん。本当に多くの方々の支えがあって、この大変な作業を乗り越えることができました。
そして何よりも、息子と一緒に汗を流し、力を合わせたこの経験は、振り返ればかけがえのない親子の思い出になりました。この後、息子は芸大へ進みました。
現在の天井。神社・仏閣に用いられる伝統的な塗装を選びました


一般的な塗装では満足できず、天井の柱や梁には神社・仏閣の木部仕上げに用いられる伝統技法を選びました。亜麻仁油に炭を組み合わせて塗布することで、木材の防水性・防腐性を高め、長く強度と美しさを保つことができます。この塗装作業には娘も手伝ってくれました!
先人の知恵を受け継ぎ、木を守り活かす技を現代の住まいづくりに生かしました。
次回は、基礎補修工事です。
