【映画批評】追悼、アデュー、タル・ベーラ
2026年1月6日
ハンガリーの映画監督
タル・ベーラ(1955-2026)
が、70歳で最期を迎えた。

早過ぎる死について、考えたことを述べる。
タル・ベーラ(1955–2026)
— ふじむらたいき:小説を読めない書評家 (@fujifujizombi) January 6, 2026
彼の映画は「何かが起きるのを待て」と言わない。世界はもう起きてしまった後だと、伝える。風は止まず、雨は意味を持たず、人は理由なく立ち、歩く。私たちが思いを馳せるのは不在ゆえではない。この世界が、ますます彼の映画に似てきたからだ。
ご冥福をお祈りします。 pic.twitter.com/VL0Rh1EnmY
⚠️⚠️以下作品のネタバレを含む⚠️⚠️
終わりの始まり
私はこの言葉を避けてきた。
「さようなら」という言葉を、
彼に向けて口にするその瞬間を。
それは、彼がいなくなることを
受け入れられなかったからではない。
むしろ逆だ。
この言葉が、あまりにも
簡単に物事を終わらせてしまうことを、
私は恐れていた。
私たちは別れの場面で、
すぐに意味を探す。
すぐに物語を作り、
すぐに慰めに手を伸ばす。
そのほうが生き延びやすいからだ。
しかし、タル・ベーラの映画は、
その手を何度も振り払ってきた。
彼の映画には、正しい別れ方がない。
音楽は導く。
だが、救いの言葉が、
こちらを迎えに来ることもない。
ただ、風が吹き、雨が降り、
誰かの背中が歩きつづける。
それでも私たちは、
彼に向かって語りかけてしまう。
応答が返らないことを知りながら、
宛ててしまう。
それが、別れという出来事の
本当の姿だからだ。
だから私は、ここで彼を説明しない。
彼の名を、功績の一覧へ回収しない。
彼の不在を、私たちの慰めへ変換しない。
ただ、彼の映画が
私たちに教えた仕方で、宛てる。
終わらせるためではなく、
終わらせないために。
アデュー、タル・ベーラ。
あなたが沈黙したその場所に、
私たちはまだ、語りかけてしまう。
映画で世界を変えるというけれど
映画を撮り始めた当初、私は社会的なことや、
世界を変えたいという思いで作っていました


世界中で多くの語り・振り返りが生まれており、
こらからも語り継がれていくだろう。
それを踏まえて、ここから先に必要なのは「彼の映画は遅い」「絶望的だ」と言い直すことではない。むしろその言い方こそが、いちばん素早く、私たちを安全な場所へ退避させてしまう。
遅さは形式だ、絶望は主題だ──そう名づけた瞬間に、作品は“わかったもの”になり、別れは“終えられるもの”になる。
だが、タルがやっていたのは、その終わり方を奪うことだった。出来事が起こる前でも後でもない、ただ「終わらせる手つき」だけが失敗する時間を、彼は撮った。風は止まらず、雨は意味を持たず、背中は歩きつづける。
そこで私たちが一番つらいのは、暗いからではない。こちらの慰めの技術が、うまく働かないからだ。言い換えれば、タルは世界を描いたのではなく、世界を“意味と慰めへ回収してしまう私たち”を、映画の側から追い詰めた。
この批評が問いたいのは、まさにここだ。
タル・ベーラとは、長回しの達人でも、ポスト共産主義の寓話作家でも、修行僧でもない。彼は、別れや死や他者の沈黙が、共同体の物語へ回収される、その直前でカメラを止め、出口を塞いだ。だから私たちは、理解や救いへ戻れないまま、なお宛てつづけてしまう──それがデリダのいう「アデュー」の形式であり、タルが映画史に残した更新である。つまり、デリダを通したタル・ベーラ批評になる。
世界を描いたのではない。
〈終わらせる癖〉を壊した。
タル・ベーラが撮ったのは、絶望ではない。
絶望という言葉は、あまりに便利で、
あまりに早く、すべてを終わらせてしまう。
彼の映画がしんどいのは、暗いからじゃない。
遅いからでもない。
こちらが終わらせたい瞬間に、
終わらせてくれないからだ。
たとえば『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の冒頭。

酔っぱらいたちを並べて、宇宙の運行を再現するあの酒場の場面。誰もが「寓話だな」と思いかける。秩序と混乱、宇宙と人間。だが、カメラは説明しない。寄らない。切らない。まとめない。
ヤーノシュは彼らに語りかける。
命令じゃない。演説でもない。
「ここで回って」「今は止まって」
声はやさしい。だが、必死だ。
この場面で起きているのは、象徴の提示じゃない。
秩序を“意味として”回収しようとする身体の労働だ。
理解より先に、疲労が来る。
観客は考える前に、付き合わされる。
映画はここで、すでに一つの出口を塞いでいる。
「なるほど」という出口だ。
⸻
その後、街にやって来る巨大な鯨。

普通なら、ここが“解釈の見せ場”になる。
政治だ、宗教だ、黙示録だ。
だがタルは、鯨を語らせない。
人は鯨の前に立つ。
背中で立つ。
皮膚のざらつき、寒さ、重さ。
カメラはただ、そこに置く。
鯨は答えない。
問いにすら、ならない。
それでも、こちらは向いてしまう。
このとき映画がやっているのは、
象徴の提示ではない。
宛て先を作ることだ。
返ってこないと分かっている相手に、
向いてしまう場所を作る。
意味は遅れる。
いや、遅れるんじゃない。
意味に辿り着いた瞬間、
それが役に立たないと分かる。
⸻
決定的なのは、病院の襲撃だ。

群衆が進み、破壊し、怒りが爆発する。
ここで多くの映画は、クライマックスを作る。
音を足し、編集を刻み、感情を回収する。
タルは、しない。
裸の老人の身体が現れた瞬間、暴力は萎む。
説教はない。
音楽もない。
カットも、気が利かない。
暴力が、行き先を失う。
正義にも、怒りにも、革命にも、なれない。
暴力が“終われないまま”立ち尽くす。
このとき観客が感じる居心地の悪さは、
倫理的な説教のせいじゃない。
こちらの「これはこういう話だ」という手癖が、
使えなくなるからだ。
⸻
ここで、はっきり言っておく。
タル・ベーラは、
世界を悲観的に描いた監督ではない。
彼が壊したのは、
世界を「理解したことにして先へ進む」
その私たちの速度だ。
彼の映画は、問いを深めない。
答えを出さない。
ただ、終わらせる動作だけを失敗させる。
だから私たちは、
映画が終わっても、席を立つタイミングを失う。
この世から離れても、消化しきれない。
悲しいからじゃない。
別れが、完了していないからだ。
これが、タル・ベーラの仕事だ。
長回しでも、絶望でもない。
終わらせる癖を、壊すこと。
時間で意味を撤回する男──『サタンタンゴ』

『サタンタンゴ』が長いのは、有名な話だ。
七時間半。(約7時間19分)
だが、タル・ベーラは「忍耐」を求めていない。
修行も、試練も、尊さも、どうでもいい。
彼が本気でやっているのは、いちど生まれた意味を、
あとから平然と引き剥がすことだ。
⸻
まず、村人たちは「救い」を信じる。
イリミアーシュが戻ってくる。
彼は導くだろう。
何かが変わるだろう。
観客も、同じ賭けに乗る。
物語とは、そういうものだからだ。
だがタルは、救いを否定しない。
そのほうが楽だからだ。
彼はもっと残酷なことをする。
救いを“成立させたあとで”、撤回する。
⸻
医者の場面を思い出してほしい。

部屋に閉じこもり、酒を飲み、メモを書く。
外を覗き、また書く。
そして、ふらつきながら村へ出る。
ここで観客は待つ。
事件を。発見を。転換点を。
だが、起きない。
起きないまま、歩行だけが続く。
カメラは離れた位置から、医者の背中を追う。
追うというより、
置き去りにされないために付き合わされる。
この歩行は情報を運ばない。
意味を増やさない。
ただ、時間だけを増やす。
そしてその時間が、
観客の内部で静かに仕事をする。
「何かが起きるはずだ」という期待を、
少しずつ、腐らせる。
⸻
もっと露骨なのは、酒場のダンスだ。
音楽が鳴り、身体が揺れ、酒が回る。
普通なら、ここは一瞬で済む。
共同体の象徴。
束の間の連帯。
タルは、終わらせない。
カメラが回る。
同じ顔、同じ足取り、同じ床。
歓喜は盛り上がらない。
悲しみにもならない。
ただ、続く。
このとき観客は気づく。
共同体は、救いにならない。
結束は、出口にならない。
ダンスは意味を持ちかけるが、
時間がそれを拒否する。
これがタルのやり方だ。
否定しない。
論破しない。
長引かせて、使えなくする。
⸻
そして、少女エシュティケ。

彼女の孤独は、あまりに明白だ。
貧困、無理解、残酷。
倫理的な判断はいくらでもできる。
だがタルは、こちらに裁かせない。
距離を保ち、
カットを割らず、
感情の合図を与えない。
猫を抱く。
離す。
また抱く。
ここで観客が一番苦しいのは、
「かわいそう」と言えないことだ。
言った瞬間、それが慰めになるからだ。
少女は説明を拒む。
彼女は象徴にならない。
ただ、宛て先として残る。
応答はない。
救済もない。
だが、目を逸らすことも許されない。
⸻
『サタンタンゴ』の構造は、タンゴだ。
前に進み、戻る。
理解したと思った瞬間、
別の角度から同じ時間がやって来る。
これが重要だ。
タルは、時間を伸ばしているのではない。
時間で意味を撤回している。
一度成立した物語。
一度信じた説明。
それらを、後続の時間が静かに蔑ろにする。
だから観客は、最後に残される。
「これは何の話だったのか」と問う場所に。
だが、その問いには答えがない。
そして、その答えのなさこそが、映画の核心だ。
⸻
『サタンタンゴ』は絶望の物語ではない。
救いの失敗談でもない。
これは、
意味を作る力を持ちすぎた
人間への映画的ブレーキだ。
わかってしまう前に、時間が来る。
納得する前に、歩行が続く。
回収する前に、反復が始まる。
だから私たちは、
最後まで見終えても、
「まとめ」を持ち帰れない。
持ち帰れるのは、
宛ててしまった感覚だけだ。
返ってこないと知りながら、
それでも向いてしまった、あの感じ。
タル・ベーラは、
時間を使ってそれを残した。
世界が返事をしなくなる瞬間⸻『ニーチェの馬』

『ニーチェの馬』には、ドラマがない。
事件もない。
カタルシスもない。
あるのは、繰り返しだけだ。
ただし、同じ繰り返しじゃない。
少しずつ“手が届かなくなる”繰り返しだ。
タルがここで撮っているのは、
終末の物語ではない。終末という言葉はまた、
説明で、慰めで、気持ちのいい悲劇になる。
彼はそんな上品なものをくれない。
彼がやるのは、もっと生活くさい破壊だ。
⸻
まず、毎日がある。
起きる。
服を着る。
水を汲む。
ジャガイモを食べる。
この映画は、台詞で世界を語らない。
手が語る。
娘が父の服を着せる。

布を引っ張る。
腕を通す。
結ぶ。
手順がある。
慣れがある。
生活の礼儀がある。
ここで胸が締まるのは、貧しいからじゃない。
優しいからでもない。
手順が、まだ世界とつながっているからだ。
人間は、こういうことで生きている。
息をするみたいに、つづける。
それが、まともさの最後の形だ。
⸻
次に、風が吹く。
吹くというより、殴る。
外へ出た瞬間、体が持っていかれる。
髪も服も、言葉も持っていかれる。
画面が「荒廃」を説明するんじゃない。
風が、身体の予定を壊す。
この風は象徴じゃない。
神の罰でもない。
政治の寓話でもない。
ただ、世界がこちらに協力しない。
それだけだ。
ここで一つ、ものすごく嫌なことが起きる。
私たちは普段、
「世界は、だいたい応答する」
という前提で生きている。
声を出せば返事が来る。
水を汲めば水がある。
火を起こせば燃える。
扉を開ければ外へ出られる。
この前提を、ひとつずつ剥がす。
⸻
井戸へ行く。
引く。
……水がない。

この瞬間が、この映画の心臓だ。
悲劇として描かれないから、余計に刺さる。
音楽が盛り上げない。
驚きのカットもない。
ただ、手が止まる。
バケツの重さが変わる。
身体が理解する。
呼びかけたのに、返事がない。
世界が「答えなし」になる。
これは、レヴィナスの“応答不可能性”を、
デリダが追悼の言説として引き受けた
思想の話だ。
タルはそれを、井戸でやる。
台所でやる。手の動作でやる。
⸻
ジャガイモの食事。
ここも、忘れられない。
父と娘が向き合う。
火がある。
湯気がある。
ジャガイモを掴む。
剥く。
食べる。
台詞がない。
励ましがない。
「明日は良くなる」もない。
それでも、まだ“食べる”という
作業ができている。
まだ世界と折り合っている。
だが、次第に、それすら鈍る。
食べる手が遅くなる。
手が止まる。
口が動かない。
絶望の演技じゃない。
疲労の演技でもない。
世界が返事をしないと、
手はやがて宛て先を失う。
宛て先を失った手は、動けない。
この映画の恐怖はそこだ。
死が来るからじゃない。
悪が勝つからじゃない。
生活の動作が“届かなくなる”。
それが終末だ。
⸻
途中、隣人が来て長く喋る。
世界がどう壊れたか、みたいな話をする。
ここで観客は、
やっと「説明」を手に入れそうになる。
タルは、そこでまた意地悪をする。
その説明は、役に立たない。
すでに風と井戸と手が、
説明より先に世界を壊してしまっているから。
言葉は遅れてやって来る。
遅れてやって来た言葉は、慰めにもならない。
ただ、空気を重くするだけだ。
⸻
そして灯り。
灯りが消える。

ここが美しいからこそ、怖い。
光が消えるのは象徴になりやすい。
神が去ったとか、文明が終わったとか。
タルは、そのロマンを許さない。
灯りはただ、生活の部品として消える。
戻らない。返事がない。
映画は叫ばない。
泣かない。
ただ、黙る。
黙ることで、観客の慰めを殺してしまう。
⸻
『ニーチェの馬』でタルがやったこと
彼は「世界の終わり」を描かなかった。
世界が人間に返事をしなくなる手順を、
服を着せ、井戸を引かせ、芋を剥かせることで見せた。
それは抽象じゃない。
毎日の細部だ。
だからこそ逃げられない。
そして、ここで私たちは気づく。
タルの映画が残すのは、絶望ではない。
「答えなし」の宛て先だ。
返ってこないのに、向いてしまう場所。
動かないのに、手を伸ばしてしまう場所。
そこから先は、慰めの言葉じゃなく、
別れの形式の問題になる。
終わらないこと
タル・ベーラが映画史に残したものを、長回しだとか、陰鬱だとか、遅さだとか、絵画的、詩的として、言い切ってしまうのは、あまりにも雑だろう。
それらはすべて結果であって、仕事の中心ではない。彼が一貫して壊し続けたのは、私たちが出来事や他者や死を「意味」「物語」「慰め」へ回収してしまう、その手癖そのものだった。
『ヴェルクマイスター・ハーモニー』で彼は、世界を象徴として語らせる前に、世界の前に立ち尽くす身体を置いた。巨大な鯨は解釈されるために現れたのではない。返事をしない宛先として、ただ前に置かれた。暴動は正義にも革命にも回収されず、裸の老いた身体の前で行き場を失った。ここで壊れたのは秩序ではない。出来事を「分かったこと」にして先へ進む速度だ。
『サタンタンゴ』で彼は、時間そのものを武器にした。意味は否定されない。ただ成立したあとで、反復によって撤回される。救いは一度、信じさせられる。その後で、別の時間がやって来て、同じ場面を違う角度から踏み潰す。医者の歩行、酒場のダンス、少女の孤独。どれも説明できる。しかし時間がそれを使えなくする。だから最後に残るのは理解ではなく、返ってこないと知りながら向いてしまった感覚だけだ。
『ニーチェの馬』で彼は、ついに世界そのものを沈黙させた。終末は語られない。世界は怒らない。罰も与えない。ただ返事をしなくなる。井戸は応答せず、風は止まらず、手の動作が宛て先を失っていく。生活の部品が一つずつ機能しなくなるとき、抽象的な「無」ではなく、具体的な「答えなし」が立ち上がる。これは思想ではない。手順の崩壊だ。
ここでデリダの『アデュー』が、ようやく噛み合う。
デリダがレヴィナスに語るのは、誰に宛てて語るのか、誰の名において別れを語るのか、という問題だった。追悼の言葉は、生者の共同体へ回収されやすく、だから倫理的に危うい。
それでも言葉は、死者へ宛ててしまう。死は無ではなく、生き残った者にとっての「答えなし」の試練だ。タルはこの構造を、言葉ではなく映画で実装した。彼の映画は、別れを完了させない。完了しない宛て先を、時間と距離と動作で固定する。
タル・ベーラは、絶望の作家ではない。慰めの作家でもない。彼は、別れの形式を更新した監督かもしれない。出来事を終わらせる編集、死を意味に変換する語り、他者を象徴にする視線。そのすべてを、ショットの配置と持続で失敗させた。結果として残るのは、返ってこないと分かっていながら、なお向いてしまう場所だ。
この更新は小さく見える。革命のスローガンも、倫理の宣言もない。ただ歩行が続き、風が吹き、手が止まる。しかしこの小ささこそが、映画史にとって意味することだった。なぜなら、タルは映画を「理解の装置」から、「回収を拒む装置」へと、静かに作り替えてしまったからだ。
だから追悼の言葉も、ここでは慎重でなければならない。
このように新しい解釈によって説明付けることも、チャンチャラおかしいだろう。つまり、回収するべきではない、と言いながらこの言説自体が回収に向かっている。私の言葉も、そのまま流れていくべきだろう。
それでも、タル・ベーラに向けて追悼しよう。
彼の名を功績へ回収し、映画史の棚に収め、安心して別れることはできない。彼が壊したのは、まさにその別れ方だからだ。私たちに残されたのは、答えのない宛て先だけだ。返事は来ない。それでも向いてしまう。その仕方だけを、彼は映画として残した。
アデュー、タル・ベーラ。
別れは終わらない。
終わらせないことが、あなたの仕事だったので。
参考文献
映画
『ヴェルクマイスター・ハーモニー』
『サタンタンゴ』
『ニーチェの馬』
文章
『アデュー』デリダ
