「普通に育てなきゃ」と思っていた、診断前の3年間
娘がASDと診断されたのは、
幼稚園に入園した年のことでした。
その時は、不安や戸惑いよりも、
「やっぱりそうだったんだ」
と安堵したことを覚えています。
どうしてそんな感情になったのかというと…
娘の発達に違和感を感じ始めたのは、
生後6ヶ月を過ぎた頃。
寝返りやハイハイ、指差しや発語など、
娘はあらゆることが周りの子に比べて遅く、
1歳半健診では「要観察」となりました。
そこから診断がつくまでの約3年間は、
私にとってとても長く苦しい時間でした。
「様子を見ましょう」
「あまり気にせず過ごしましょう」
医師や保健師の方からそう言われても、
私の心の中は、
「この子をどう育てていけばいいんだろう」
そんな気持ちでいっぱいでした。
たとえば、周りの子と同じようにできないことがあったとき。
もう少し頑張らせたほうがいいのか。
それとも、助けてあげたほうがいいのか。
手を貸すことが、この子のためになるのか。
それとも、成長の機会を奪ってしまうのか。
「普通の子」として育てたほうがいいのか。
「何か特性がある子」として育てたほうがいいのか。
まだ何もわからなかった私は、
その間でずっと揺れていたからです。
今の私なら、当時の自分にこう言ってあげます。
「診断があってもなくても、
その子のペースに合わせていいんだよ」と。
診断がつく前のある時、
地域の子ども向けに、
芝生や土の上を裸足で、泥んこになって
自由に遊ぶというイベントがありました。
でも娘は、裸足にしても、
ただその場に立ち尽くすだけ。
泥遊びはおろか、土には指一本触れません。
芝生のチクチクも気に食わないのか、
ずっと抱っこをせがむばかり。
それでも私は、
泥だんごを作って娘に持たせてみたり、
芝生の上を歩いて
「おいでおいで!」と呼んでみたり…
けれど、娘はその日、
笑顔になることはほとんどありませんでした。
今思えば、娘には感覚過敏があって、
土や芝生の感触が苦手で、
ただただ不快な時間だったのだと思います。
でも、当時の私は、
「様子見と言われているうちは、
普通の子として扱わなきゃいけないんだ」
「苦手そうなことでも、
みんなができていることなら
やらせないといけないんだ」
そう思い込んでいました。
今振り返ると、
あの頃の私が欲しかったのは、
診断があるかないかではなくて、
「この子が嫌がっているなら、
無理にみんなと同じことをさせなくてもいい」
「この子には難しいことなら、
手を貸してもいい」
「みんなと違う方法を選んでもいい」
そんなふうに、
誰かに言ってほしかったのだと思います。
もちろん、診断がついたことで、
娘のことを理解するための
手がかりは増えました。
娘には、娘なりの発達の仕方があること。
苦手なものには、娘なりの理由があること。
「だからだったのか」と、
それまで点だった出来事が
つながったこともたくさんあります。
でも、診断がついたからといって、
娘のことが全部わかるようになったわけではありませんでした。
同じASDという診断でも、
苦手なことも、得意なことも、
安心できる環境も、
必要な支援も、
一人ひとり違います。
結局必要なのは、
診断名を見ることではなく、
目の前にいる“その子”を見ることでした。
だから私は今、
個性に合わせた配慮を、
診断がついている子だけの話だとは思っていません。
もしかしたら、
「まだ診断もついていないのに、
特別な配慮をしていいのかな」
と心配になる方もいるかもしれません。
でも、困っていることに配慮することと、
その子に診断名を当てはめることは別のことです。
「この子はここが苦手なんだな」
「こうすると過ごしやすそうだな」
そうやって目の前の様子に合わせることは、
その子に診断名をつけることではありません。
その後、診断がつくこともあれば、
つかないこともある。
どちらだったとしても、その時その時で
子どもが過ごしやすくなる工夫をしたことが、
間違いになるわけではないと思います。
「服のタグを嫌がる」
「大きな音を怖がる」
「初めての場所に入りづらい」
もし、こういった困りごとを、
診断がつくまでは我慢させて、
診断がついてから初めて配慮するのだとしたら、
その間、親も子どもも
つらい時間を過ごすことになります。
ただ、
「この子はここで困っているんだな」と見る。
我慢ではなく、工夫で過ごしやすくする。
それは甘やかしではなく、
その子が安心の中で成長していくための
大切な支えなのだと思います。
