『応永記』考(2)

「当代においても山名陸奥守氏清の謀反が鎮圧され、今、義弘も同じ轍を踏もうとしている。」
将軍義満が宣言し、戦端が開かれる。
細川右京大夫頼元、京極治部少輔入道、赤松上総入道、総勢六千騎が、十一月八日、先陣として山崎から和泉へ発つ。

同じ八日、義満は東寺にも総勢三万騎を集めていた。管領畠山基国の子・山尾張守満家、前管領斯波義将、その子・斯波左衛門佐義重、その他、吉良、石堂、吉見、渋川、一色、今川、土岐、佐々木、武田、小笠原、富樫、河野等、合わせて三万騎余り。
十四日に八幡に本陣が立てられ、その日のうちに管領畠山基国及び前管領斯波義将を先頭に和泉へ向けて出発した。

幕府軍が堺へ向かったという知らせは、大内義弘の耳にも届いていた。
将軍義満が東寺に出向いたと聞き、義弘はその日石津の浜に足を運び、北の方角を向き、深く礼をしたという。『応永記』は、ここに至っても君臣の礼をとったことを「哀れ」と述べている。

その後、義弘は城砦に取って返し、軍議を開く。
いくつかの策が出される。
幕府勢が到達する前に出陣し、和泉・河内一帯を制圧下に置くという策。
堺からの退却をよそおって海へ出たうえで播磨に再上陸し、幕府の本陣を横腹から攻めるという奇襲策。
そして、籠城策。平井備前守は堺に入ることにも反対してきた。この時点でも「これ以上軍を進めてしまえば、どのような言い訳もできなくなる。今ここで自重するなら、後で許しを乞う余地も残る」と考えた。
「海に出る策はいかがでしょうか。予測外の風波に遭うこともあります。打って出るという策もいかがかと思います。和泉・紀伊両国の国人たちを敵に回すことになると思われます。そうなれば、われわれは少数、敵方は多勢。
天の利は地の利にしかず、地の利は人の和にしかずと申します。人のつながりこそが大切。これまで殿は当地の者たちから信頼されてきました。今のままだと裏切りが出るようなこともないでしょう。ありがたいことに、この地は兵糧も材木も豊富です。城砦を強化するにも十分です。もし、他国へ打って出るなら手向かう者もあるはず。大事の前の小事でむだな力を使ってしまうのは無益なことと思います。」

義弘は平井の考えを採る。
材木を集め、大工数百人に命じてさまざまな工夫を施した楼を四十八、矢櫓を千七百設けた。東西南北合わせて十六町、魚鱗鶴翼を組み合わせた陣を張った。
「蜀の諸葛亮が呉を討つために長江に天地風雲飛龍翔鳥虎翼蛇蟠の八陣を造ったと伝えられているが、これ以上のものだったとは思えない」と、『応永記』は、大内軍を諸葛亮の蜀軍になぞらえている。

できあがった城砦を、義弘は一人で見て周る。
「この城に我が兵五千が籠れば、相手が百万騎であろうと破られることはない。」城砦をうまく使えば、勝機はあると考える。
だが、と義弘は考える。
事ここに至ったのは本意ではない。一時の私の感情で義満殿の長年の恩に背くかたちになったのかもしれない。天はすべてを見ている。もしここで幕府方を打ち破ったとして、その先はどうなるのか。これまでの義満殿への忠義は偽りとなる。そこから先に何があるのか。どのような活路を開くことができるのか。

闇の海へ向かって点々と延びる小さな灯りの列を見下ろしながら、義弘は山名氏清のことを思う。
あの光景が浮かんでくる。
将軍義満におびき出されるように京へ迫った氏清。迎え撃ったのが自分だった。
あの時、氏清は何を考えていたのか。義満を討ち取り、ほんとうに都を自分のものにしようと考えていたのか。氏清の前に立ち塞がる自分は彼の目にどのように映っていたのか。もし自分に何かを語りかけたかったとすれば、それはどのような言葉だったのか。
そして今。引き出され押し寄せられているのは自分だ。あの時の氏清の言葉が聞こえなかったように、自分には今の自分の言葉が聞こえて来ない、と義弘は感じていた。

堺に妙光寺という寺がある。
元は禅宗であったが、江戸時代慶長年間に日普聖人が日蓮宗に改宗し、現在地に移転したという。
和泉国守護となる以前から、義弘は百済国の王子・琳聖太子伝来の金銅妙見大菩薩像を信仰してきた。堺の地が彼の任国となった時、妙光寺町に一町四方の土地を求めて寺院を建立し、それまで信仰してきた妙見像を安置した。自らも髪を下して有繋入道と号し、寺を義弘山妙光寺と名づけた。

城砦内を見周り終えた義弘は、それまで帰依してきた僧を呼び寄せ、自らの葬儀
と七々箇日までの仏事の手筈を指示した。

周防に残してある老母に手紙を書いた。
「世の理は有為転変と申します。わたしが命を落とすことになったとしても、それは定めなき憂き世の習い。遅れるにしても先だつにしても、残る者は路傍の露の命が一時消えないだけのようなもの。いずれはどちらも消えていってしまうものです。ただ、母上がこの手紙をお読みになり、お嘆きになる、そのことをわたしはどうすることもできません。」 
また、同じく周防に残した弟の六郎にも手紙を書く。
「今回の合戦の行く末がどうなるかはともかく、おまえはそちらの国をしっかりと守るように」と。
そして、一流の文人でもあった義弘は、「今生の思い出に」と千句の連歌と百首の和歌を詠み置いた。

側近の者たちもそれぞれ父母妻子宛の手紙をしたため、討ち死の覚悟を固める。
禅の「殺人刀」「活人剣」の公案を心に唱える者もあれば、「南無阿弥陀仏」を唱えて煩悩を断ち切ろうとする者もいる。
また、「最後の遊びをせよ」との許しが下され、酒宴が一夜中続いた。

10

幕府軍は、東南北の三方から攻撃の態勢を構え、「この程度の平城、一気に攻め落としてやる」と意気込む。
西の海には四国淡路の海賊の船が百艘控えた。

大内方では「各方面に勢力を分散させるのは得策ではない」と、杉九郎たち二百騎が森口から、杉備中守が鴨山から呼び戻され、堺での総力戦の準備が整う。

十一月二十九日、卯の刻。
「敵味方の鬨(とき)の声に、天地も崩れ大海も破るるかと覚たり」と、『応永記』は記している。

三万の全軍が一斉に押し寄せる。その鬨の声に応えるように、城砦内に詰めていた五千騎の大内勢も大鼓をたたいて対抗する。
幕府方から先陣争いをする者たちがそれぞれの方角から攻めかけるが、城砦内の矢櫓からも強力な矢が間断なく射続けられ、石弓も放たれる。

管領畠山基国勢二千騎が北郭の第一・第二の木戸を打ち破り、更に第三の木戸も破ろうとする。なかでも遊佐を頭とする一隊は、負傷をものともせず命も顧みず敵陣に斬り進んでいこうとする。それを見た基国とその子満家の一団は「遊佐を討たすな」と助勢に殺到する。

卯の刻から始まった戦いは、戌の刻になっても続く。
管領畠山勢と入れ替わって、山名時熙右衛門佐、民部少輔の一門五百騎が攻勢を続ける。
対して城砦内からは、杉豊後守、その子備中守、野上豊前守の一団五百騎が繰り出す。
山名兄弟が一歩も退くことなく先頭で斬り込むと、一門の五百騎もそれを孤立させてはなるまいと後に続く。
敵味方が入り乱れ、先陣が討たれれば後陣がそれを乗り越えというように、一進一退の激戦が続く。

その日、義弘は白綾威の腹巻をつけ、脱いだ甲を従者に持たせ、金福輪の鞍を置いた月毛の馬に乗っていた。
わずか二百騎を従え、各所の戦いに指示を与えつつ戦場を駆け回り、ここが激戦だと判断したところへその二百騎で殺到する。

幕府方では、伊勢国司の北畠源大納言顕泰とその子満泰の三百騎が、山名勢に加わって城砦中に斬り込もうとする。命を捨てる覚悟であったが防御も堅く、満泰たち十人余りが討ち死にする。そのことが父の源大納言に伝えられると、「子も家臣も討たれることは覚悟のうえ」と、自らも敵中に突進する。

細川の一門、赤松の一族、合わせて五千は、南の郭を破ろうと塀に取り付く。
義弘の弟・新介こと周防介弘茂が守りを固める東の郭では、六角、京極の両軍が敵陣を突破しようと挑みかかっていた。

卯の刻からはじまった戦いも夜半に至り、敵味方とも死傷者は数知れず、両軍人馬ともに気力が尽き、それぞれの陣に退却した。
世に言う帝釈天と阿修羅の戦いもこのようであったかと、『応永記』は評している。

11

義弘の挙兵を、それぞれの場所で、それぞれの事情で、それぞれの思いで待っていた者たちがいた。

土岐宮内少輔詮直。
大内方に呼応するように尾張国へ攻め入る。七百騎で美濃長森付近まで進んだところに、池田周防守も馳せ加わる。
堺の戦いに幕府方として参戦していた土岐美濃守頼益はその報を聞き、駆け戻り、時を置かず討ちかかる。宮内少輔と池田周防は美濃守に応戦するが、池田勢二百人が討ち死にし、宮内勢も追い詰められる。そのまま長森に立て籠もった宮内を後にして、美濃守は八幡の本陣へ向かった。

山名氏清の嫡子宮田時清も大内の挙兵に呼応した。
丹波国宮田に進出し、父の本願を果たすために京へ進み、都を焼払おうと、三百騎でまずは八幡の本陣に迫った。
待ち構える幕府方に、「山名家の名誉がかかっている」と、時清は討ちかかる。
大将を討ち取ろうと立ち向かってくる敵を相手に、時清は七、八人を倒す。
主人の戦う姿に奮起した今川奈古屋も、馬の腹を射られて下馬しても、敵十人を討ち取る。更に、鎧武者をつかみ上げては投げ、組み伏せては斬りと、三十人余りを倒す。太刀が折れた太刀を振り回し奮戦するが、さすがに深傷を負い、具足も壊れ、最後は群がってくる兵に討たれてしまう。
時清は、ここはひとまず人馬に一息入れようと引き下がる。それを見た幕府方も本陣へと退却していった。

京極五郎左衛門も大内の動きを伝え聞き、近江の森山まで進出した。
が、三井寺の衆徒五百が瀬田橋の手前で待ち構えているという報が入った。
五郎左衛門は森山で待機するが、堺で参戦していた幕府方の一部が千騎で森山に向かって来ると、土岐宮内少輔に合流しようと美濃国へ向かう。ところが、途中の垂井で起こった土一揆に出くわし、態勢を整えることもできず、主従二騎だけで行方も知れずに落ちのびていった。

義弘の挙兵に呼応した動きは、結局、堺との連携がかなわず、散発的なもので終わった。

だが、その頃、堺の城砦内は、一日戦いきった充実感と「守り切れる」という自信で満たされていた。
他方、城砦外の幕府方には、後手に回ってしまった敗北感が漂っていた。

ただ、それでも、「今日は準備不足だったために、損害も多くなった」という冷静に反省する者がおり、「楼や櫓を攻める足場を準備し、大きな左義長(さぎちょう)を作って火攻めだ」と挽回のための戦略を練る者もいた。
また、一色、今川両軍の中には、城砦東側の深い田から城砦まで一気に攻め入るための道を造ろうとする動きがあった。

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