獺祭の陰に“伝兵衛さん”あり─静岡酒を変えた技術者の話
私の父親はことあるごとに「遠縁にでんべさんってすごい人がいるんだ」と自慢げに語っていた。当時の自分は興味もわかず、「へえ、変な名前」と受け流すだけだった。
それから年月が流れ、こうして日本酒にどっぷり関わるようになり、故郷である静岡の酒を頻繁に飲むようになってから、聞き覚えのある名前に何度もぶつかるようになった。
「河村伝兵衛」
そう、まさに遠縁の「でんべさん」その人だった。彼は静岡の地酒を一変させた技術者であり、実はあの「獺祭」にも多大な影響を与えた人物だったのだ。
獺祭への影響
1980年代、まだ無名だった旭酒造(現・株式会社獺祭)では、大吟醸造りに苦戦していた。
当時無名だった桜井博志会長は、ある日河村がまとめた吟醸造りの技術資料に出会う。桜井氏は杜氏に「おやっつぁん、この通り、何も言わずに造ってくれ」と頼んだという。その結果、獺祭のスタートラインとなる吟醸酒が完成した。
桜井氏はこのことについて「下手でもそれなりに吟醸酒ができちゃう」と語っているが、決して技術を軽んじてのことではないだろう。むしろ河村の革新によって工程が標準化され、誰が造っても一定の品質が出せるようになったことへの驚きだと思われる。
今や獺祭の代名詞ともいえる「杜氏制度を廃止し、社員全員で酒を造る」体制へと進化していく上で、この技術的基盤が大きな支えとなったことは間違いない。桜井氏は、河村の前では先生を目の前にした生徒のように直立不動になってしまうと語っており、彼への尊敬の念を隠さない。
このように、父が何気なく口にしていた名前が、実は獺祭にまで影響を与えた日本酒界の革命児だったと知ったとき、思わず鳥肌が立ったことを覚えている。
技術指導と静岡酵母の開発
1943年、静岡県袋井市浅羽町に生まれた河村伝兵衛は、1970年代後半より静岡県工業技術センターで、日本酒醸造の研究に本格的に取り組み始めた。
当時の静岡県は、温暖な気候のため酒造りには不利とされ、地酒の評価も全国的には高くなかった。河村はこうした状況を打破するため、県内酒蔵の杜氏たちが現場で行っていることをつぶさに観察し、科学的な視点で分析することからキャリアをスタートさせる。
河村は杜氏たちが経験的に行っていた「低温長期発酵」や繊細な温度管理に着目。それらの経験則を科学的に分析し、酒造理論を現場で使える技術へと落とし込んだ。そして、各蔵に足を運んで直接技術指導を行い、一部の蔵だけでなく、県全体の酒造りの底上げにつなげていった。
また、技術指導と並ぶもう一つの柱が、酵母の開発だ。彼が手がけた静岡酵母「HD-1」は酢酸イソアミル主体の、メロンやバナナのような穏やかな香りを持つ。味わいに丸みがあり、料理に寄り添う“静岡型吟醸”という独自スタイルの中核を担った。

画像出典:静岡新聞
1986年、全国一の衝撃
河村の開発した静岡酵母と指導による技術革新は、1980年代に大きな実を結ぶ。
1986年、全国新酒鑑評会で静岡県は金賞10蔵、銀賞7蔵という快挙を成し遂げた。当時県内に30ほどしか蔵がなかった中で、実に半数以上が入賞。しかも金賞数は全国最多。
従来、灘や新潟が上位を独占していたこの舞台で、酒造りに向かないとされた静岡が一躍注目を集め、この年から静岡は「吟醸王国」の異名をとるようになった。
また、独自のコンセプトを提示した静岡酒の躍進は他県にも影響を与え、オリジナル酵母や吟醸造りを志向する動きが全国に広がった。静岡の成功は、日本酒業界全体の品質競争を促すきっかけにもなったのだ。
会えなかった悔いと、いま静岡酒に思うこと
河村は2016年に他界した。まだ73歳という若さだった。
自分は遠縁にあたるにもかかわらず、とうとう一度も会うことができなかった。もし会えていたなら、山ほど聞いてみたいことがある。
もっと早く日本酒に興味を持っていれば……そう思うと口惜しくてならない。
それでも、今も静岡酵母や静岡型吟醸というスタイルの中で彼の仕事を感じることはできる。
かつて河村は静岡型吟醸を支えた蔵元たちに「傳○郎」の名を贈った。「傳一郎」は國香の松尾晃一氏、「傳二郎」は満寿一の増井成美氏、そして「傳三郎」は喜久酔の青島孝氏。いずれも河村の薫陶を受け、静岡酒の全盛期を築いた名杜氏たちだ。
だが、現実は厳しい。2012年、満寿一は増井氏の急逝により蔵を閉じた。國香も2024年度(6BY)は休造、今後の見通しは不明だ。現在も酒を造り続けているのは、喜久酔の青島酒造ただ一つになってしまった。
「でんべさん」の息吹が時代の流れとともに静かに消えていく。それを黙って見ていることしかできない自分に歯がゆさを感じる。
彼の仕事が、これからも静岡酒の中に生き続けてくれることを強く願うばかりだ。
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酒代になりますがいいんですか?本当に?