「まあ、そうだよね」と思った理由― FTMの私が、女子スポーツ参加について考えること ―
アメリカで、トランスジェンダー選手の女子スポーツへの参加を制限する州法が認められたというニュースを見た。
私が最初に口にした言葉は、とても短かった。
「まあ、そうだよね。」
この一言だけを見れば、「トランスジェンダーなのにそんなことを言うの?」と思う人もいるだろう。
でも私は、トランスジェンダーだからこそ、この言葉が自然に出てきた。
私はFTMだ。
生まれたときは女性として戸籍に記載され、今は男性として生活している。
戸籍も男性だ。
社会から見れば男性として生活している時間の方が、もうずっと長くなった。
だからといって、生まれた瞬間から男性だったわけではない。
その事実だけは、どんなに年月が経っても変わらない。
そして、その現実を誰よりも知っているのは、他でもない私自身だ。
私はこれまで、自分の身体と何度も向き合ってきた。
男性ホルモン療法を受け、手術も経験し、自分らしく生きるために一つひとつ積み重ねてきた。
医学は本当に進歩したと思う。
昔なら考えられなかったことが、今ではできるようになった。
外見も変えられる。
声も変わる。
筋肉のつき方も変わる。
社会生活も送りやすくなる。
それでも、医療ですべてを変えられるわけではない。
変えられるものもある。
変えられないものもある。
私は、その両方を知っている。
だから、この問題を「差別か、差別ではないか」という二択だけで語ることに、少し違和感を覚える。
私は、トランスジェンダーの人が社会で尊重されることには大賛成だ。
学校でも。
会社でも。
地域でも。
誰もが自分らしく生きられる社会であってほしい。
これは何一つ迷いがない。
しかし、スポーツは少し話が違う。
スポーツは勝敗を競う世界だ。
ルールがある。
記録がある。
順位がある。
そのルールの土台にあるのが「公平性」だ。
では、なぜスポーツには男子の部と女子の部があるのだろう。
差別をするためだろうか。
私はそうは思わない。
身体的な違いによって、一方だけが圧倒的に有利にならないようにするためだ。
思春期以降、男性ホルモンの影響で筋肉量や骨格、心肺機能などに違いが生まれることは、多くの競技で前提とされている。
もちろん個人差はある。
女性より力の弱い男性もいる。
男性より速い女性もいる。
だからといってカテゴリーが必要なくなるわけではない。
競技は、一人ひとりではなく、全体として公平になるようにルールを作っているからだ。
私は元女、今は戸籍上男性として生活している。
だからこそ、自分自身を例に考えてみる。
もし私が市民マラソンに男性として出場したらどうだろう。
もちろん走る。
楽しむ。
完走も目指す。
でも、「男性の部で優勝できますか」と聞かれたら、私は笑ってしまう。
無理だと思う。
努力が足りないからではない。
練習不足だからでもない。
私自身、自分の身体がどういう特徴を持っているのかを知っているからだ。
一方で、もし逆の立場だったらどうだろう。
生まれつき男性だった人が、女性ホルモン療法を受け、女性として生活し、女子カテゴリーで競技をする。
ホルモン療法によって身体は変わる。
筋力も落ちるだろう。
変化はある。
しかし、それだけですべてが生まれつき女性と同じになるかと言われれば、そこは簡単には答えられない。
身長。
骨格。
手足の長さ。
思春期までに形成された身体の特徴。
こうしたものは、現在の医療でも完全に同じにはならない部分がある。
これは価値の話ではない。
優劣の話でもない。
ただ、身体には変えられるものと、変えられないものがあるという現実の話だ。
わかりやすい例を挙げるなら、生殖器だ。
胸であれば、ホルモン療法や豊胸手術によって女性らしい外見に近づけることはできる。
しかし、生殖器は現在の医療でも、生まれ持ったものと同じ機能や構造を完全に再現することは難しい。
私は当事者だから、その現実を否定することはできない。
男性と同じチンコを手に入れることはできない。
だからこそ思う。
身体的な特徴が競技結果に大きく影響するスポーツでは、その身体的特徴を議論すること自体が差別だとは思わない。
最近は「多様性」という言葉を耳にする機会が増えた。
もちろん、多様性は大切だ。
私自身、その恩恵を受けながら生きている一人でもある。
しかし、多様性とは「すべてを同じにすること」ではないと思っている。
違いを認めながら、それぞれに合ったルールを考えること。
それもまた、多様性ではないだろうか。
私は「何でも認めること」が優しさだとは思わない。
逆に、「何でも認めないこと」が正しいとも思わない。
その間にある、一番バランスの取れた場所を探し続けることが大切なのだと思う。
市民大会と国際大会も、私は分けて考えたい。
市民マラソンには、健康のために走る人もいる。
親子で楽しむ人もいる。
仮装をして沿道を盛り上げる人もいる。
そこでは「参加すること」に大きな意味がある。
多様な参加の形があっていい。
一方で、世界大会やオリンピックは違う。
人生を懸けて努力してきた選手たちが立つ舞台だ。
コンマ一秒。
一センチ。
その差のために、何年もの努力が積み重ねられている。
だからこそ、その舞台では誰もが納得できる公平性が必要になる。
競技によっても違うだろう。
身体能力の影響が大きい競技もあれば、小さい競技もある。
だから一律に考えるのではなく、競技ごとに科学的な知見を踏まえて議論していくことが現実的なのではないかと思う。
私が今回のニュースを見て「まあ、そうだよね」と思ったのは、誰かを否定したいからではない。
むしろ、その逆だ。
私はトランスジェンダー当事者だからこそ、自分の身体と何十年も向き合ってきた。
変えられるものがあることも知っている。
変えられないものがあることも知っている。
だから、身体的な違いを前提にルールを考えることは、差別ではなく、公平性について考えることだと思っている。
人として尊重されること。
そして、競技として公平であること。
この二つは、本来どちらかを選ぶものではない。
どちらも守ろうと知恵を出し合うこと。
それこそが、本当の意味で成熟した社会なのではないだろうか。
私はFTMとして生きている。
だからこそ、誰かを否定する社会にはなってほしくない。
同時に、現実から目を背ける社会にもなってほしくない。
尊重と公平性。
その二つは、きっと両立できる。
私は、そう信じている。
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