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「相貌失認」とはいえないけれど、人の顔を覚えるのが実はかなり苦手です。

#20250618-548

2025年6月18日(水)
 これは子どもの頃からなのだが、私は「人の顔を覚える」ことが苦手だ

 人の顔がわからず長年悩んでいたという俳優のブラッド・ピッドがインタビューで語ったほどではないし、小説「薬屋のひとりごと」の主人公 猫猫マオマオの父親(羅漢ラカン)のように人の顔がゲームの駒に見えるわけでもない。
 だから、ちょっぴり「人の顔を覚えるのが苦手」なレベルなのだと思う。

 思い返せば、小学校の低学年のときだ。
 先生に「人の話を聞くときは相手の目を見て」といわれ、素直な子どもだった私はそれが習慣になった。
 あまり目を直視すると、相手に圧迫感を与えるから眉や口元、首あたりをぼんやり見て、ときどき目を合わせるのがいいらしいが、子どものときに身についた仕草はなかなか抜けない。

 目を見ていると、顔全体のパーツがつかめない
 だから、意外と1対1で話す機会の多い人こそ、親しいのに顔が覚えられなかったりする

 なんせ過去につきあった人のなかに、雑踏のなかから見つけられない顔もあった。
 漫画のように恋のお相手がパーンと輝いて、集団のなかでもすぐわかるなんていう体験をしてみたい。
 スマートフォンスマホも普及していない学生時代。
 駅の改札での待ち合わせは苦痛だった。見逃さないよう改札から出てくる人、出てくる人の顔を見て、相手を探すのにどんどん混乱していくのだ。遠くから手を振れないもどかしさ。違う人に手を振ってしまったときの気まずさ。
 だから、本を読みながら、相手が私を見つけてくれるのを待った。もし、相手も私と同じくらい顔の認識が苦労する人だったら、永遠に会えなかったかもしれない。

 ある程度の人数で話す機会のある人は、まだ覚えやすい。
 ほかの人と話しているときに、その人の顔をそっと見ることができるからだ。しかも、対面ではなくさまざまな角度から見られるので顔の情報が増える。

 小学高学年の頃から徐々に視力が悪くなった。
 これは――現代医学によれば正しくないのかもしれないが、子ども時分、就寝時刻を過ぎてから暗い部屋のなかで布団をかぶりながら懐中電灯の明かりのもと、本を読んでいたせいだと思っている。また父も祖母も近視が強かったので遺伝的要因もあるかもしれない。
 中学校に入学してから眼鏡をかけるようになったが、今度は見え過ぎる世界に慣れず、遠近がつかめなくて階段から落ちそうになった。そのため、授業中だけ眼鏡をかけるようになった。
 思春期にそういう環境にあったせいか、人の区別をどちらかといえば顔に頼らず、ぼんやりと見える仕草やシルエット、声に頼ることが多くなった。

 50歳も過ぎると、度胸がつくのだろうか。
それとも、このところ一気に老眼が進んで、眼鏡やコンタクトレンズで矯正しても今いち視力が安定しないせいか、どなたかわからない場合は「尋ねる」こともできるようになった。

 先日、自転車でスーパーに向かっていたときのことだ。
 道の先から来たやはり自転車の女性にすれ違いざま名前を呼ばれた。お互い自転車だ。「こんにちは!」とだけ叫んで、通り過ぎてもよかったのだが、まったく誰だかわからなかったので、つい自転車を止めて振り返ってしまった。
 相手も自転車を止めて振り返った。
 自転車同士ゆえ、すでに距離はだいぶある。
 眼鏡をかけた目を細めても見えない。
 「ごめんなさーい、どちらさまー?」
 相手は明るい声で名乗ってくれ、声が名前と一致した。
 「ああ!」
 あちらもこちらも、子どもの下校までに帰宅したい身。すぐに「また!」といって自転車のペダルを踏んだ。
 のちほどLINEラインでわからなったことを謝った。ただでさえ、人の顔がわからないのに、近眼に老眼が加わってから私の視界はあやふやだ。
 相手は「アラフィフですから」と笑いマークをつけてLINEを返してくれた。

 俳優をはじめ、芸能人はもっと苦手で、衣装や役によって印象ががらりと変わるため混乱が大きい。
 直接顔を合わせて会話することもないし、テロップで名前が表示されるので、そこはまだ助かる。それでも見分けがつかない3人が何組かいる。
 むーくん(夫)は、私の顔の「わからなさ」を13年一緒に暮らすなかで、じわじわとわかってきたらしく、最近はただ笑っている。

 里子のノコ(娘小6)の顔も委託直後は怪しかった。
 身近に子どもがいないこともあり、家のなかならともかく、大勢の子どもたちのなかから見分けられるか自信がなかった。
 同じ体育着ばかりの運動会のときには、目立つソックスで区別した。
 それが先日の運動会でのこと。
 素足での競技があった。見つけられないと思ったら、同じ屋根の下で6年暮らした年月は無駄でなかったらしい。
 仕草と体型でノコを見つけることができた。
 じんわりと、じんわりとお腹の底から嬉しさがこみあげた。
 諸手を挙げて、バンザイしたいくらいだった。

 ちなみに、むーくんは識別できる。
 ある意味、特徴があるということなのだろうか。
 むーくんと結婚したいくつかの理由のなかに、その「見つけられる」安心感もある。
 これって、ほかの人にはわからないかもしれないが、私にはとてつもなく重要なのだ。

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