見出し画像

ゆっくりと【シロクマ文芸部】

 ゆっくりと彼の手につかまって土手をあがると、満開の桜が見わたせた。あの夜、空気の中に春の暖かさがブレンドされてきたことが感じられた三月の夜のことを、わたしは一生忘れないだろう。

 その頃わたしは、大手町の証券会社に勤めていて、同じ職場の上司Kに恋をしていた。Kには、わたしにはない、すべてのものがそなわっていた。一流大学卒という経歴、仕事の腕、経験、端正な風貌、妻のいる家庭……。わたしには、若さがあったが、それは未熟の裏返しだった。苦しいことを苦しいとストレートに感じてしまう弱さだった。悲しみのなかにも、ほんの少しの明るさを見つけだして、波立つ気持ちをなだめ、心の底にそっとおさめる、などということは、その頃のわたしにはまだ出来なかった。Kの妻は長期入院中とのことだったが、そんな悩みをおくびにも出さず、精力的に仕事をこなすKこそが、すばらしい大人に思えた。

 年度終わりの飲み会の帰り、たまたま帰る方向が同じということで、そのKとタクシーで二人になった。千鳥ヶ淵を通りぬけようとしたとき、緊張しているわたしの気持ちをほぐすようにKが言った。

 「そうだ、ちょっと花見をしよう!」

 タクシーを降りると、不思議な空間が拡がっていた。都会の真ん中なのに、ふと街並みがとだえ、その先は闇に溶け込んでいる……。ビルの間を伸びている道が、壕にいきつくと突然左右に別れる。だから、ふっと街がとぎれたように錯覚するのかもしれない。その壕の方から、花見帰りらしいグループがにぎやかに話しながら歩いて来た。酒に酔っているせいか、声が必要以上に大きい。

 その人波をやりすごすと、右に向かった。街灯がほんのりと闇をてらし、横断歩道の白い線がその光を反射して光る。わたしは舗道のはじを、Kの背中に隠れるように歩いた。土手の手前でKは振り返り、つとわたしの手をとるとゆっくり上がり始めた。

 「満開だ!見てごらん!」

 土手の上からは対岸の桜が見渡せた。光に照らしだされた花々は白く、闇にとけこもうとしている花々はほんの少し紅色をおび、ぼんやりと輪郭をにじませながら夢のように拡がっていた。それは、思いだすたびに胸がいっぱいになって、ふと涙ぐんでしまうような風景だった。夜空をバックに白く霞んだ桜は、自分が花であることも忘れ、夜の中で夢を見ている……。そして、わたしもその桜たちと同じ…。
涙がこぼれそうになって彼を見上げた。

 「泣いているの?」

 彼の手が背に回された。初めてのキス……。時間が止まってくれればいい、そう願った。心の底から絞り出すようにせつなく。

 職場での恋、まして相手が妻帯者であれば稔るはずもなく、桜のように散ってしまったが、テレビに千鳥ヶ淵の桜が映し出されるたび、あの日を思い出す。Kの笑顔とともに。
              
                  おわり


小牧さんの企画に参加させてください。
小牧さんお世話をおかけしますがよろしくお願いいたします。

残念ながらバリバリのフィクションです😅

いいなと思ったら応援しよう!

チズ 記事を読んでいただきありがとうございます(*^^*)コメント一言でも頂けたら、そしてほんの少しでも心が通じあえたら、こんなうれしいことはありません(´▽`ʃ♡ƪ)