『日曜日のメロディ 〜一級建築士・宮崎光芳の事件簿〜』【1】消えた棟梁の設計図
日曜日の朝。上田の街はまだ静かに眠っている。
上田市天神町の自宅を出た宮崎光芳(みやざきみつよし)は、愛車のミラジーノのエンジンをかけた。レトロなフォルムが気に入って乗り続けているこの小さな車は、宮崎の人柄をそのまま映したような、飾らない誠実さがある。エンジン音に合わせるように、カーラジオのチューニングを合わせた。午後二時の放送にはまだ早いが、先週録音しておいた番組を流す。スピーカーから、あの穏やかで芯のある声が車内に広がった。
──山下達郎の「サンデーソングブック」。
宮崎にとって、日曜日はこの番組から始まる。いや、この番組があるから日曜日が特別なのだ。達郎の選ぶ一曲一曲が、まるで建築の設計図のように精緻(せいち)で、それでいて温かい。構造がしっかりしているから、何度聴いても崩れない。音楽も建築も、本質は同じだと宮崎は思っている。
学生時代、軽音楽同好会でギターを弾いていた宮崎にとって、音楽は建築と並ぶもう一つの「構造を読む」行為だった。コード進行の論理、メロディの起承転結。達郎の楽曲は、その構造美において、日本の伝統建築に通じるものがある。宮崎が敬愛するクイーンのブライアン・メイも、緻密なギターオーケストレーションで知られる。構造を極めた者だけが到達できる美しさ。それが、宮崎の美学だった。
「さて、今日の現場は……」
助手席に置いた書類に目をやる。上田市郊外、桐谷邸。築八十年の日本家屋。大規模リフォームの相談だ。宮崎は短く刈り込んだ髪を撫でつけ、眼鏡の位置を直した。紺色の作業着の胸には、エース・リフォームのロゴが光っている。
宮崎光芳、一九六三年三月一日生まれ。うお座のB型。元日本郵政の職員であり、一級建築士の資格を持つ。郵政時代は全国の郵便局舎の設計・管理に携わり、建築のあらゆる構造を知り尽くした男だ。「まだまだ人の役に立ちたい」という想いからエース・リフォーム上田支店に転じ、リフォームアドバイザーとして第二の人生を歩んでいる。建築士としての誇りと、生来のお人好しが同居する、不思議な魅力の持ち主である。
家では妻が「行ってらっしゃい」と送り出してくれた。二人の子供はもう社会人になり、天神町の自宅は夫婦二人の静かな暮らしだ。妻には感謝している。いつも感謝している。口下手な宮崎は、なかなかそれを言葉にできないのだが。
ミラジーノは上田の市街地を抜け、千曲川沿いの道を走る。川面に朝日が反射してきらきらと光っていた。やがて、古い石垣の上に堂々と構える日本家屋が見えてきた。黒光りする瓦屋根、白壁、立派な式台(しきだい)玄関※1。一目見て、宮崎の建築士としての血が騒いだ。
(見事だ。昭和初期の在来工法……いや、それ以前の伝統構法(でんとうこうほう)の要素も混じっている。これを建てた棟梁は、相当の腕前だったに違いない)
インターホンを押すと、すぐに引き戸が開いた。出てきたのは、背筋の伸びた白髪の老紳士だった。
「エース・リフォームの宮崎と申します。本日はよろしくお願いいたします」
宮崎が深々と頭を下げると、老紳士──桐谷義一(きりたにぎいち)、七十五歳──は、鋭い目でじっと宮崎を見つめた。
「あんた、建築のことが分かる人かね」
開口一番、試すような問いかけだった。宮崎は穏やかに微笑んだ。
「一級建築士の資格を持っております。以前は日本郵政で建築部門におりました」
義一の表情がわずかに和らいだ。
「そうか。なら、話が早い。上がってくれ」
案内された座敷は、八畳二間続きの堂々たる空間だった。欄間(らんま)※2には見事な透かし彫りが施され、床柱(とこばしら)※3は磨き上げられた黒檀(こくたん)※4。宮崎は思わず天井を見上げた。
〔竿縁天井(さおぶちてんじょう)※5 か。しかも、竿の間隔が均一で美しい。天井板は秋田杉だろうか。この仕事は……ただ者ではない〕
「分かるかね、この家の凄さが」
義一が、宮崎の視線を追うように言った。
「ええ。素晴らしい仕事です。特にこの欄間と天井の仕上げは、現代ではなかなかお目にかかれません」
「この家を建てたのは、藤森源蔵(ふじもりげんぞう)という棟梁だ。この辺りでは伝説の大工でな。源蔵棟梁は、この家に特別な耐震の工夫を施したと言い伝えられている。実際、何度かの大きな地震にもびくともしなかった」
義一は誇らしげに語った。しかし、その表情がふいに曇る。
「その源蔵棟梁が残した設計図が、つい先日、消えたんだ」
宮崎は眉をひそめた。
「設計図が……消えた?」
「ああ。この家の構造の秘密がすべて記された、一枚の大きな図面だ。和紙に墨で描かれた、それは見事なものだった。仏間の桐箪笥(きりだんす)の一番上の引き出しに、ずっと大切にしまってあったんだが……」
義一は仏間に宮崎を案内した。立派な仏壇の隣に、年季の入った桐箪笥がある。一番上の引き出しを開けると、そこには何も入っていなかった。
「先週の水曜日に確認した時には、確かにあった。それが、金曜日に開けたら、もうなかった」
「その間に、どなたかがこの部屋に?」
「家族は出入りしている。それと……」
義一が言い淀んだ時、廊下から声がした。
「お父さん、お客様にお茶をお持ちしました」
穏やかな声とともに現れたのは、義一の妻・桐谷美智子(きりたにみちこ)、七十二歳。盆に載せた湯呑みを差し出しながら、宮崎に丁寧に頭を下げた。
「遠いところをありがとうございます。主人がご迷惑をおかけして」
「いえ、とんでもございません」
宮崎は恐縮して両手で湯呑みを受け取った。お人好しの彼は、こういう場面で必要以上に恐縮してしまう。美智子の淹れたお茶は、上品な香りがした。
「それで、設計図の件なんですが……」
宮崎が切り出すと、美智子の手がわずかに震えた。しかし、すぐに穏やかな笑顔に戻る。
「私も心当たりがなくて。お掃除の時に動かしたこともありませんし」
その時、玄関の方から賑やかな声が聞こえてきた。
「ただいまー。父さん、リフォーム屋さん来てるんだって?」
現れたのは、桐谷健太(きりたにけんた)、四十八歳。義一の長男で、東京でIT企業に勤めている。週末だけ帰省しているらしい。カジュアルなジャケットにジーンズ姿で、都会的な雰囲気を纏(まと)っていた。
「あ、どうも。エース・リフォームの宮崎です」
「桐谷健太です。父がお世話になります」
健太は如才なく挨拶したが、その目はどこか冷めていた。
「正直に言うと、僕はこの家をリフォームするより、売却した方がいいと思ってるんですよね。維持費もかかるし、父も母も歳だし」
「健太!」
義一が声を荒げた。
「お客様の前で何を言う。この家は、藤森棟梁が魂を込めて建てた家だ。売るなどと──」
「だから、その棟梁の設計図だって出てこないじゃないか。設計図がなければ、構造が分からない。構造が分からなければ、リフォームだってできない。それなら──」
「やめてください、二人とも」
静かだが芯のある声が、二人の言い争いを止めた。玄関から入ってきたのは、桐谷真由美(きりたにまゆみ)、四十五歳。義一の長女で、地元の小学校で教師をしている。
「宮崎さん、申し訳ありません。うちはいつもこうなんです」
真由美は疲れたように微笑んだ。宮崎は、その笑顔の奥に深い悲しみのようなものを感じ取った。
「いえ、お気になさらず。ご家族で意見が分かれるのは、よくあることです」
宮崎はそう言いながら、四人の表情をそっと観察していた。一級建築士として、構造を見抜く目。それは建物だけでなく、人間関係の「構造」にも向けられる。
(義一さんは家を守りたい。健太さんは売りたい。真由美さんは……守りたいが、板挟みになっている。そして美智子さんは、何かを知っているが、言えないでいる)
宮崎は湯呑みを置き、静かに言った。
「まずは、家の構造調査をさせてください。一級建築士として、設計図がなくても、この家の構造はある程度読み解けます。その上で、リフォームの可否と方法をご提案いたします」
義一が目を見開いた。
「設計図なしで、分かるのかね?」
「建物は、それ自体が設計図のようなものです。柱の位置、梁(はり)の架け方、壁の中の筋交い(すじかい)。すべてが、建てた人の意図を語っています。構造は嘘をつきません」
宮崎の静かな確信に満ちた言葉に、義一は深く頷いた。
調査が始まった。宮崎は床下に潜り、小屋裏に上がり、壁を叩き、柱の傾きを測った。一級建築士の目は、八十年の歳月を経た建物の「声」を、一つひとつ丁寧に拾い上げていく。
(基礎は玉石基礎(たまいしきそ)※6 だが、要所に切石(きりいし)※7を使っている。土台は栗材か。腐朽(ふきゅう)もほとんどない。これは……土台の下に炭を敷いているな。湿気対策だ。昭和初期にこれをやるとは、やはり藤森棟梁は只者ではない)
小屋裏では、さらに驚くべきものを発見した。
(この梁の組み方……通常の在来工法とは違う。梁と梁を「追っ掛け大栓継ぎ(おっかけだいせんつぎ)※8」で繋いでいる。これは伝統構法の技だ。しかも、要所に「込み栓(こみせん)※9」を打って、地震の揺れを木のしなりで吸収する仕組みになっている)
宮崎は感嘆のため息をついた。この家は、現代の耐震基準とは異なるアプローチで、しかし極めて合理的な耐震性能を実現していた。藤森棟梁の設計図には、おそらくこの工夫のすべてが記されていたのだろう。
大友克洋の『AKIRA』に描かれた、緻密で圧倒的な建築描写。宮崎はあのマンガを読んだ時、建築の構造が持つ「物語る力」に改めて気づかされた。藤森棟梁の仕事にも、同じ力がある。一本一本の柱、一つひとつの仕口(しぐち)が、棟梁の哲学を語っている。
(つづく)
※1 式台(しきだい):式台とは玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置される板のこと。武家屋敷にて、来客者が地面に降りることなく、 かごに乗れるように設けられた板の間でした。上がり框の高さ(土間と段差)が18センチ以下の高さにするようになっていて、それ以上の段差がある場合は、式台を設置して、段差を解消する事になっています。
※2 欄間(らんま):欄間は、天井と鴨居(ふすまや障子を支える横木)または長押(柱間に渡す横木)との間に設けられる開口部を指します。主な目的は室内の採光や通風、換気であり、襖や障子を閉めた状態でも光や風を通すことができます。また、装飾性を兼ね備え、空間の格を高める役割も果たします。
※3 床柱(とこばしら):床柱とは、床の間と床脇の間にある化粧柱のことを指します。床柱は、人をもてなすために重要な場所である「床の間」の風格を位置づける柱で、選ぶ丸太の見栄えと、一緒に設置する掛け軸や置物と合わさり和室全体の印象をかえることができる特徴をもっています。なお、床柱は建物の構造を構成させる柱ではなく、あくまで意匠的な柱であることから、木目や材質が美しい木材が選ばれます。代表的な床柱には「角柱」と呼ばれる面取りした柱が用いられ、丸太には「絞り丸太」「磨き丸太」「錆丸太」「出節丸太」のような加工が施されたものがあります。
※4 黒檀(こくたん):黒檀は、高級木材としての価値が高く、心材が黒色で重硬なカキノキ科の常緑高木です。南アジアやアフリカ原産で、日本でも沖縄に自生しており、家具や工芸品など幅広い用途で利用されてきました。成長が遅く希少性が高いため、現在では保護や管理が重要な木材とされています。
※5 竿縁天井(さおぶちてんじょう):主に、一戸建て住宅の和室の天井に用いられるものです。吊り木や野縁下に竿縁(30cmから60cmの等間隔に平行に取り付けられる細長い木材で、化粧材としての役目も果たしている)を取り付け、その上に天井板を張って仕上げた天井を竿縁天井と言います。
※6 基礎は玉石基礎(たまいしきそ):玉石基礎とは、建物の基礎工事の一つで、石の上に直接柱を立てる工法です。この工法は「石場建て工法」とも呼ばれ、主に日本の伝統的な建築物に見られます。玉石基礎は、地面と建物の間にわずかな隙間を作ることで、地震の揺れを吸収し、建物の倒壊を防ぐ効果があります。
※7 切石(きりいし):切石は、建築や庭園設計において、形を整えた石材として構造材や舗装材、装飾材として幅広く利用される重要な石材です。自然石とは異なり、加工されているため積みやすく、デザイン性や機能性を両立させることができます。
※8 追っ掛け大栓継ぎ(おっかけだいせんつぎ):木造建築において最も優れた引張り耐力を持つ継手として知られています。この継手の最大の特徴は、相欠きにあごを付けた略鎌系の構造にあり、上木と下木のすべり込み部分に1/10程度のすべり勾配を持たせることで、二つの材を引き寄せ、胴付き部分が密着するよう設計されています。追っ掛け大栓継ぎの強度は材成の3倍程度の長さの継ぎ手が最も効果的とされており、実際の引張り荷重は55KN〜65KN程度の値を示し、これは約5500kg(5.5トン)の質量と同等の力に耐えられることを意味します。これの施工は、高度な技術と精密な加工が要求される作業であり、正確な墨付けで、材料の幅の半分側を加工する必要があります。加工が複雑になる分だけ摩擦力が大きくなるため、大きな力を持つ継手となりますが、その分だけ高い技術力が要求されます。
※9 込み栓(こみせん):込み栓は、柱と土台、または柱と桁などの接合部を固定するために使用される20ミリ角程度の堅木材で、木材の貫通部分に横から打ち込むことで抜けにくくします。伝統的な日本建築や高級家具で用いられ、金属釘を使わずに木材同士を結合する技術として知られています。
エース・リフォームからのお知らせ
築年数の経った日本家屋のリフォームは、構造への深い理解が不可欠です。エース・リフォームでは、一級建築士の資格を持つアドバイザーをはじめ、建築の専門知識を持ったスタッフが、お客様の大切な住まいを丁寧に調査し、最適なリフォームプランをご提案いたします。
「この家、まだ住めるのかな?」そんな疑問をお持ちの方は、ぜひお気軽にご相談ください。
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