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セレナと優しい探偵 山本優希〜ほのぼのミステリー〜第1話「消えたパーフェクトトロフィーと、ケチャップの手がかり」

雨が降っていた。

 六月の恵那市。梅雨入りしたばかりの空から、細かい雨粒が絶え間なく落ちてくる。山本優希は、愛車の日産セレナのワイパーを一段速くした。

 三十歳。黒いくせ毛がやや長めにかかった、穏やかな顔立ちの青年だ。薄緑色のエースリフォームの作業着を着て、ハンドルを握っている。

 セレナ。山本にとって、この車は単なる移動手段ではない。以前のセレナは中央分離帯にぶつけて大破させてしまった。それでも迷わず、また同じセレナを買った。広い室内空間、スライドドアの使い勝手、運転席からの視界の良さ。何より、この車に乗っていると落ち着く。理屈ではない。好きなものは好きなのだ。

「山本、今どこ?」

 カーナビのスピーカーから、池田貢司の声が響いた。

「あ、池田さん。今、恵那インターの手前です」

「了解。現場着いたら連絡くれ。俺、先に資材搬入しとくから」

「はい、お願いします」

 池田貢司。エースリフォーム中津川支店の営業マン。六人の子を持つビッグダディ。そして、山本がこの会社に入るきっかけを作ってくれた人だ。

 あの日のことを、山本は今でも鮮明に覚えている。前職の飲食店を辞めて、何をしたいのか分からなくなっていた頃。たまたま知人の紹介で池田と会った。意気投合した。池田の「人の家を良くする仕事って、めちゃくちゃやりがいあるぞ」という言葉が、胸に刺さった。

 それから三年。山本はリフォームアドバイザーとして、少しずつ自分の居場所を見つけていた。


 現場は、恵那市長島町の一軒家だった。築三十五年、木造二階建て。外壁の塗り替えと、一階のキッチンリフォームの案件だ。

 施主は、六十代の夫婦。田中正雄さんと妻の和子さん。子どもたちは独立し、夫婦二人の暮らしだ。

「山本さん、いつもありがとうね」

 和子さんが、玄関先で傘を差し出してくれた。

「いえ、こちらこそ。今日は外壁の色の最終確認をさせていただきたくて」

 山本は、カラーサンプルの束を鞄から取り出した。優しい声で、丁寧に説明する。おとなしい性格だが、お客様の前では不思議と言葉が出てくる。相手の話をじっくり聞いて、相手が本当に望んでいることを汲み取る。それが山本の営業スタイルだった。

「ねえ山本さん、ちょっと相談があるんだけど」

 色の打ち合わせが終わった後、和子さんが少し声を落とした。

「はい、何でしょう」

「実はね……主人のトロフィーが、なくなったの」

「トロフィー?」

「ボウリングのトロフィー。四十年前に、パーフェクトゲームを出したときのもの。ずっとリビングの棚に飾ってあったんだけど、三日前から見当たらないの」

 山本の目が、わずかに光った。パーフェクトゲーム。三百点。山本自身も、学生時代にパーフェクトを達成したことがある。ボウリングをやる人間にとって、それがどれほどの偉業か、よく分かる。

「ご主人は何とおっしゃってますか」

「それがね……主人、最近ちょっと物忘れが多くて。自分でどこかにしまったのかもしれないって言うんだけど、私はそうは思えないの。だって四十年間、ずっと同じ場所に置いてあったのよ」

「他に、なくなったものは?」

「ないの。トロフィーだけ」

 山本は考えた。金目のものではない。ボウリングのトロフィーに換金価値はほとんどない。つまり、金銭目的の盗みではない。

「最近、お家に来た人はいますか? 業者さんとか、ご親戚とか」

「えーと……先週、息子の家族が来たわ。孫たちを連れて。あとは、ご近所の鈴木さんが回覧板を持ってきたくらいかな」

「お孫さんは何歳ですか?」

「上が小学三年生で、下が年長さん」

 山本は頷いた。まだ結論を出すのは早い。

「和子さん、少しお家の中を見せていただいてもいいですか。リフォームの下見も兼ねて」

「ええ、もちろん」


 山本はリビングに通された。問題の棚は、テレビの横にある飾り棚だ。ガラス戸付きの、立派な木製キャビネット。中には、写真立てや記念品が並んでいる。

 トロフィーがあったという場所には、うっすらと埃の輪郭が残っていた。丸い台座の跡だ。確かに、長年ここに置かれていたことが分かる。

 山本は棚の周囲を見回した。床にはカーペット。窓は施錠されている。特に荒らされた形跡はない。

 ふと、棚の下段に目が行った。子ども向けの絵本が数冊、無造作に置かれている。

「これは、お孫さんの?」

「ああ、そう。来たときに読むように、いくつか置いてあるの」

 山本は絵本を手に取った。その一冊の表紙に、赤い汚れが付いていた。

「和子さん、これ……」

「あら、ケチャップかしら。孫たちったら、食べながら本を読むから」

 ケチャップ。山本はオムライスが大好きだ。ケチャップの種類にもこだわる。この赤い汚れは、確かにケチャップの色だ。そして、その汚れは絵本の表紙だけでなく、棚の取っ手にもわずかに付着していた。

「和子さん、お孫さんが来た日、オムライスかハンバーグを作りましたか?」

「え? ……ああ、そういえばお昼にオムライスを作ったわ。孫たちが好きだから」

「そのとき、お孫さんたちはこの棚を触りましたか?」

「うーん……覚えてないけど、触ったかもしれないわね。いつも『じいじのキラキラ見せて』って言うから」

 山本は微笑んだ。

「和子さん、たぶんですけど……お孫さんが、トロフィーを持ち出したんじゃないかと思います」

「え? 孫が?」

「小学三年生のお孫さん。『じいじのキラキラ』が気に入って、自分の家に持って帰っちゃったんじゃないかな。棚の取っ手にケチャップが付いてるってことは、オムライスを食べた後に棚を開けてる。そして、トロフィーがなくなったのはお孫さんが来た後ですよね」

 和子さんは目を丸くした。

「まさか……でも、言われてみれば、時期は合うわ」

「一度、息子さんに確認してみてください。お孫さんの部屋に、キラキラしたトロフィーがないか」


 翌日、和子さんから電話があった。

「山本さん、あったわ! 孫の部屋の本棚に、ちゃんと飾ってあったって!」

「よかったです」

「孫に聞いたら、『じいじみたいにボウリング上手くなりたいから、お守りにした』って。もう、可愛いやら困るやら……」

 山本は電話口で、静かに笑った。

「素敵なお孫さんですね。じいじのパーフェクトに憧れてるんだ」

「主人も怒るどころか、『今度一緒にボウリング行こう』って張り切っちゃって。ありがとうね、山本さん。あなたが気づいてくれなかったら、ずっとモヤモヤしてたわ」

「いえ、僕はケチャップの汚れが気になっただけですから」

 電話を切った後、山本はセレナの運転席で、少しだけ感傷的になった。

 じいじに憧れる孫。

 山本にも、姉がいた。二人の姉。そのうちの一人を、早くに亡くしている。姉が生きていたら、今頃どんな話をしていただろう。姉の子どもたちと、どんな時間を過ごしていただろう。

 考えても仕方のないことだ。でも、時々考えてしまう。

 山本は首元の磁気ネックレスに触れた。肩こりに効くと言われて買ったものだが、今ではお守りのようなものだ。

 セレナのエンジンをかける。次の現場へ向かう。

 雨は、いつの間にか上がっていた。

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