最後の一輪を見届けたい。遅れて咲いた桜と、わが子と、私のこと(1,338字)
もう誰も、見上げる人はいない。
通勤途中にある、一本の桜の木。
四月も半ばに差しかかると、枝はすっかり若葉に覆われて、あの淡いピンクの面影はほとんど消えています。
満開の頃は、みんな足を止めていました。
スマホを構える人。子どもの手を引いて「きれいだね」と見上げる親子。
私もその一人でした。
今朝、緑に染まるその木の下を通りかかったとき、ふと気づいて、立ち止まりました。
通りと反対側の、ほんの片隅。
小さな蕾が、隠れるように一つだけ開きかけている。
周りはもう、とっくに葉桜。
その一輪だけが、まるで寝坊した子どものように、遅れて目を覚ましたばかりの顔をしています。
やけにその一輪が、心に迫ってきます。
ふと、わが子たちの顔が浮かんできました。
昔から器用なタイプではない。
二人とも、周りと同じタイミングでは咲けない子です。
それを見ていると、親として焦らないと言えば嘘になる。
「もう少し要領よくやれないか」と、口にしそうになったことは数えきれません。
でも、あの遅れて開いた一輪を見て、思い直すのでした。
この子たちは、間に合っていないのではない。
まだ順番が来ていないだけだ。
桜の蕾には、それぞれの時間がある。
日当たり、枝の位置、風の当たり方。
同じ木に生まれても、同じ日に開くとは限らない。
それは欠陥ではなく、ただの個性だ。
満開の中に咲けば、美しい景色の一部になれる。
けれど遅れて咲いた一輪には、別の役割がある。
葉桜の季節に、ふと誰かの足を止めること。
春が終わりかけた街に、もう一度だけ、やわらかな色を灯すこと。
私がこの一輪に気づけたのは、たぶん、自分自身も「遅れる側」の人間だったからだと思います。
学生時代、周囲がさっと要領よくこなすことに、いつも一歩遅れました。
会社に入ってからも、同期が成果を出していく横で、足踏みばかり。
不器用な自分が嫌いだった時期もある。
でも、今はこう思えます。
遅れてきた人間だから、遅れて咲くものの美しさがわかる。
みんなが通り過ぎた後の景色に、目を向けることができる。
あの頃の自分が、今、わが子の一輪に気づかせてくれている。
不器用に生きてきた時間は、無駄ではなかった。
この目を、この感受性を育ててくれていたのだと、今なら思えるのです。
けれど、いつか子どもたちは私の目の届かない場所で咲くことになります。
そのとき、遅れて開いたわが子の一輪に、足を止めてくれる人はいるだろうか。
電車の時間が迫っていました。
葉桜の隙間から覗く、小さなピンク色。
その姿を、目に焼き付けます。
風に揺れるその花びらは、どこか誇らしげに見えました。
たぶん、蕾の一つ一つに意思があるわけではない。
桜の木とて、その一輪に大した思いもないでしょう。
それでも、願わずにはいられません。
この広い世界で、不器用でも、自分の時間を信じて咲こうとしている人がいる。
わが子もいつか、そのひとりになる。
そんなとき、誰かがふと足を止めて、気づいてくれますように。
祈りにも似たその想いを、今、私自身がこの木の下で証明したい。
だから明日も、あの一輪を見上げます。
いつか誰かが、わが子にそうしてくれることを信じて。
(4/12追記)
次の日よく見たら、一輪ではなく7〜8輪咲いていました笑
最後の一輪まで、しっかり見届けようと思います。

