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知ることで見える世界、あえて見ない世界。 アオムシとサルトル

子どもたちが、まだ花も咲いていない花壇のまわりに群がっていた。
何をそんなに喜んでいるのか分からなくて近くへ寄ってみると、2年生の子どもたちが「校長先生、アオムシがいるよ!」と教えてくれた。

すでに裸眼で小さなものを見る能力を失っている私は、眼鏡を外し、葉ボタンの葉に目を凝らす。

いた。

卵から生まれたばかりの、ほんの数ミリの小さなアオムシが、健気に張り付いていた。

3年生の理科になれば、彼らはこれを「モンシロチョウの幼虫」と呼ぶようになるのだろう。けれど、学ぶ前の2年生にとっては、これはどこまでも「アオムシ」なのだ。

その証拠に、彼らはアオムシのすぐそばにある、黄色い小さな卵にはまったく気づいていない。私よりはるかによく見える目を持っている彼らが、見落とすはずはないのだ。

やはり、知ることで、見える世界は変わってくる。
「ここに卵もあるよ」と教えると、途端に何人もの子が「本当だ、タマゴがあった!」と言い始めた。

ふと見ると、葉ボタンの脇に生えたカタバミをじっと眺めている子がいた。
葉ボタンにいるのなら、ここにも何かいるかもしれない、と彼なりの仮説を立てたのだろう。

そこにはシジミチョウの卵も幼虫もいなかったけれど、「カタバミにもね、小さな蝶の赤ちゃんがいるんだよ」とだけ伝えて、その場を離れた。

「見る」ということは、なんとも難しい。

僕は、苦手だ。

相手が子どもであっても教師であっても、こちらが、しっかり見ていることをあえて相手に意識させる眼差しもあれば、逆に、見ていないふりをすることで、相手の素の伸びやかさを引き出す眼差しもある。

視線一つで相手を肯定することもできれば、好ましくない行動を抑止することもできる。

サルトルは、人間の「まなざし」の奥にある暴力性を指摘した。
誰かを「見る」ということは、相手を一方向からの文脈で縛り、自由な主体性を奪って「モノ」として固定化してしまう危険性を孕んでいる、と。

2年生の子どもたちにとって、葉っぱの上のアオムシの未来は無限だ。
この後どう育つのか、何になるのか、彼らはいくらでも自由に想像の羽を広げられる。

しかし、校長という職責にある私は、どうしても大人や子どもを「見る眼鏡」を変えなければならない瞬間がある。「問題のある子」という眼鏡、「評定」や「目標管理シート」という硬い文脈の眼鏡。

その枠の中に、彼らの生々しい存在を固定化しなければならないとき、私の眼差しは暴力になってはいないか。彼らの持つ豊かな可能性の文脈を、見落としてはいないか。

甚だ難しい問いと対峙している。

僕は、未だに僕の眼差しとの付き合い方が、難しいと思っている。

そう考えると、歳を重ねて、小さなものが肉眼で見えなくなっていくことにも、何か優しい意味があるのかもしれないと思えくる。

何でもかんでも精緻にピントを合わせて、枠にはめ込もうとしないこと。

輪郭だけ。

あえて、ぼやかしたままで、見守るということ。

眼鏡を外したときの、頼りない世界の広がり。

それぐらいでちょうどいいのかもしれない。


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