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ダイナ・ワシントン:「ブルースの女王」の音楽的肖像


ジャンル横断的歌唱技術、波乱の生涯、そして後世への歴史的遺産

ダイナ・ワシントン(出生名:ルース・リー・ジョーンズ)は、
1940年代から1960年代初頭にかけてのアメリカ大衆音楽界において、
最も個性的で多才なアフリカ系アメリカ人女性ボーカリストの一人として君臨した。

自ら

「ブルースの女王(Queen of the Blues)」

を名乗り、同時に圧倒的な商業的成功から

「ジュークボックスの女王(Queen of the Jukeboxes)」

としても知られた彼女は、ゴスペル、ブルース、ジャズ、R&B、そしてポピュラー・ミュージックの境界線を軽々と超越した。

その卓越した歌唱技術と不屈のアティチュードは、同時代のシンガーのみならず、アレサ・フランクリンやエイミー・ワインハウスに至る後世のディーヴァたちに決定的な影響を与え続けている。


1. 幼少期とシカゴへの移住 ゴスペルにおける信仰と音楽的出自

ダイナ・ワシントン1924年8月29日(一説には8月8日)、アラバマ州タスカルーサにて、 Kaul Lumber Company の労働者であった父親オリー・ジョーンズと、
地元のエリザベス・バプテスト教会で歌手・ピアニストとして活動していた母親アサレア(アリス)・ウィリアムズ(旧姓ジョーンズ)との間に生まれた。

しかし、誕生後まもなく父親が家族の元を去ったため、母親のアリスは、南部から北部へと向かうアフリカ系アメリカ人の大移動(グレート・マイグレーション)の流れに乗り、幼児期のアリスを連れてシカゴへと移住した。


世界大恐慌の荒波の中でシカゴでの生活は極めて過酷であり、オリーは不安定な労働や屋根職人としての仕事のために不在がちで、アリスがメイドとして働きながら極貧の中で子供たちを育てる日々であった。

このような過酷な生活環境において、彼女の精神的および音楽的な救いとなったのがキリスト教信仰と教会音楽であった。

母親が音楽教師およびピアニストとして深く関わっていた聖ルカ・バプテスト教会のコミュニティにおいて、幼いルースは音楽の才能を急速に開花させていく。


小学校在学中から聖歌隊のピアノ伴奏を務め、10代に達する頃には同聖歌隊の指導者・指揮者として活動していた。

さらに彼女は、高名なサリ・マーティンが結成した史上初の女性ゴスペル・グループである

「サリ・マーティン・ゴスペル・シンガーズ」

に引き抜かれ、リード・ボーカルとしてゴスペル・サーキットを巡るようになる。

このプロ活動への本格的な傾倒に伴い、彼女はウェンデル・フィリップス高校を中退する決断を下した。


このゴスペルにおける原体験は、単なる歌唱技術の習得に留まらず、彼女の音楽的骨格そのものを形成した。

ゴスペル特有のシンコペーションを多用したオフビートのリズム感覚、音符を滑らせるように変化させる

「ベント・ノート(折れ曲がった音)」

の技法、そして徹底的な肺活量に裏打ちされたブレス・コントロールは、後に彼女が世俗音楽の分野において比類なき存在感を示すための決定的な土台となった。


2. プロフェッショナルへの転身と「ダイナ・ワシントン」の名が持つ意味

15歳の時、シカゴの由緒あるリーガル・シアターで開催されたアマチュア・コンテストにて

「I Can't Face the Music」

を歌い優勝したことをきっかけに、彼女は世俗のクラブシーンでの活動を本格化させた。


シカゴ市内の「デイブズ・カフェ」や、
ストライド・ピアノの巨匠ファッツ・ウォーラーと共演したシャーマン・ホテルの

「ダウンビート・ルーム」、「デイブズ・ランブギ」

といった著名なナイトクラブでの出演を重ねていく。


彼女のキャリアにおける最大の転機は、ジャズクラブ「スリー・デューシズ」に出演していた際、友人に連れられて

ギャリック・ステージ・バー

を訪れ、そこでビリー・ホリデイのステージを鑑賞したことに始まる。


同店の2階に出演していたグループ「ザ・キャッツ・アンド・ザ・フィドル」をバックに、ルースが

I Understand

を即興で歌った際、その類稀なる才能に衝撃を受けた経営者のジョー・シャーマンは、即座に彼女を専属歌手として雇用した。


ギャリック・ステージ・バーで歌い始めたこの時期

(階下でビリー・ホリデイが、上階で彼女が歌うという豪華な興行が行われていた)

に、彼女は本名のルース・リー・ジョーンズから、終生のステージ名となる

ダイナ・ワシントン

へと改名した。


この改名劇については、雇い主であるジョー・シャーマンが提案したという説と、のちに彼女をスターダムへと引き上げる楽団リーダーのライオネル・ハンプトンが名付けたという説の双方が語り継がれている。

その後、著名なタレント・エージェントであるジョー・グレイザーから
ダイナの圧倒的な歌声について報告を受けたライオネル・ハンプトンは、自らギャリックに足を運んで彼女の歌声を聴き、即座に自身のビッグバンドの専属女性ボーカリストとして採用した。


1943年
から1946年にかけてハンプトン楽団の一員として活動した彼女は、瞬く間に楽団の看板スターとなり、ハンプトンは後に

「ダイナの存在感はあまりに強烈で、彼女の後にステージに立てるシンガーが誰もいなかったため、ショーのトリに近い位置に彼女を配置せざるを得なかった」

と語っている。

1943年12月、彼女はキーノート・レーベルから、著名なジャズ評論家であり作曲家でもあったレナード・フェザーのプロデュースにより初のレコード録音を行った。

ハンプトン楽団の精鋭メンバーであるトランペット奏者ジョー・モリスやピアニストのミルト・バックナーらを従えたこのセッションにおいて、フェザーが書き下ろした

Evil Gal Blues」と「Salty Papa Blues

が誕生し、

1944年にビルボード誌の「ハーレム・ヒット・パレード」にてトップ10入りを記録する鮮烈なデビューを果たした。

さらに1945年12月には、アポロ・レコードにてラッキー・トンプソン・オールスターズをバックに12曲を録音し、ソロ・シンガーとしての自立を確実にしていった。


3. 「ジュークボックスの女王」としての商業的覇権と音楽的多様性

1946年1月14日、ダイナ・ワシントンは新興のマーキュリー・レコードとソロ契約を結び、ハンプトン楽団から独立して独自の道を歩み始めた。

同年、ファッツ・ウォーラーのカバー曲「Ain't Misbehavin'」を含む初のソロ・アルバムをマーキュリーからリリースすると、その人気は爆発的に上昇した。

1948年から1955年にかけて、彼女はR&Bチャートにおいて27曲ものトップ10ヒットを連発するという驚異的な商業実績を記録する。

この時期、彼女に冠された

「ジュークボックスの女王(Queen of the Jukeboxes)」

という異名は、戦後アメリカのアフリカ系アメリカ人コミュニティにおける音楽消費のダイナミズムを象徴していた。


当時、ラジオの放送枠制限や人種隔離政策の影が色濃く残る中で、都市部のバー、食堂、サロンに設置されたジュークボックスは、ダイレクトに黒人聴衆の支持を反映するメディアであった。

ワシントンの鋭く、明瞭で、かつ強烈な音圧を持つ歌声は、喧騒に満ちた公共空間の貧弱なスピーカーから流れても一切埋もれることがなく、聴衆を惹きつけた。

彼女はこのジュークボックス市場から得られる莫大な特許使用料(ロイヤリティ)によって、巨万の富を築くことに成功した。

この経済的成功により、彼女は長年の夢であった母親と妹のための邸宅を購入している。

しかし同時に、この成功の裏には深刻な精神的不安と自己不信が潜んでおり、彼女は自らの情緒を安定させるために、毛皮、高級靴、高級車を湯水のように買い漁るという極端な消費行動に走ることも多かった。


ワシントンの最大の武器は、あらゆるジャンルの楽曲を独自のスタイルで歌いこなす

「ジャンル横断性」

にあった。

彼女はブルースを自らの根幹に置きつつも、ジャンルの境界に縛られることを拒絶した。

1951年には、当時黒人シンガーが手をつけることが極めて稀であったカントリー・ミュージックの開拓者ハンク・ウィリアムズの「Cold, Cold Heart」をソウルフルにカバーし、R&Bチャート3位を記録する大ヒットを収めた。

【音声】 Queen of the Blues


また、彼女は本格的なストレート・アヘッド・ジャズのセッションも精力的に行い、

クリフォード・ブラウン、キャノンボール・アダーリー、
クラーク・テリー、ベン・ウェブスター、メイナード・ファーガソン、

さらにはカウント・ベイシーデューク・エレントンといったジャズ界の巨人たちと数多くの共演録音を残した。

彼女の伴奏を務めた若き日のピアニストには、
ウィントン・ケリー、アンドリュー・ヒル、
そして後にウェザー・リポートを結成するジョー・ザヴィヌルらが名を連ねている。

また、卓越したボーカリストとしてだけでなく、ソングライターとしても才能を発揮し、R&Bチャートトップ10入りを果たした

Good Daddy Blues」や
I Only Know

を自ら作詞・作曲した。


4. 歌唱技術の分析 威厳、明瞭さ、そして情緒的制御

ダイナ・ワシントンの歌声は、しばしば

「金属的な輝きを持つ、引き締まったトランペットのような響き」

と形容される。

彼女の歌唱法は、力任せに叫ぶだけのブルース唱法とは一線を画し、感情を厳格に制御しながらもブルージーなフィーリングを最大化する

「抑制の美学」

に基づいていた。


音楽学的な観点から彼女の歌唱技術を分析すると、以下の要素が浮かび上がる。

  • 絶対的な音程精度と制御されたヴィブラート:いかなる高速なフレーズであってもピッチが揺らぐことがなく、ここぞという箇所で正確かつ鋭いヴィブラートをかけることで、楽曲に独特の緊迫感を与えた。

  • 非の打ち所のないディクション(発音の明瞭さ):言葉を非常に大切にし、子音と母音を極めてクリアに発音したため、聴衆は彼女の歌うすべての言葉を完璧に聴き取ることができた。

  • 引き締まった切り込み(Clipped Phrasing):フレーズの終わりを余韻に流さず、鋭く刈り取るようなリズム感で処理し、歌唱全体に疾走感と推進力を与えた。

彼女のこうした歌唱アプローチは、失恋や不条理な現実を前にしても

「決して犠牲者として涙を流さない、自立した強い女性」

の肖像を形作った。

ビリー・ホリデイ

「傷つきやすく、虐げられる痛み」

を漂わせ、
エラ・フィッツジェラルド

「甘く無垢なスウィング」

を奏でたのに対し、
ダイナの歌声は

「自分を公平に扱うことを要求し、さもなければ容赦なく去っていく女性」

の冷徹なまでのリアリズムを体現していた。

また、彼女のプロ意識と音楽に対する厳格さは、周囲のミュージシャンにとっても恐れられると同時に深く尊敬される要因であった。

ダイナのゴッドドーター(代子)であった歌手のパティ・オースティンは、

「彼女は演奏中にミスを犯したミュージシャンに対して容赦なく楽器を投げつけるような激しい気性の持ち主であったが、その一方で、自分の要求する高い水準に応えてくれた楽団員には、惜しみない愛情と忠誠を示し、高級なプレゼントをシャワーのように贈る極端な二面性を持っていた」

と回想している。


5. ポップ市場への進出と、葛藤に満ちたコラボレーション

1950年代後半、ダイナ・ワシントンのキャリアは最大の商業的クロスオーバーという転換期を迎える。

1959年、彼女は1930年代にメキシコの女性作曲家マリア・グレベールが作曲し、スタンリー・アダムズが英語詞をつけたスタンダード曲

What a Diff'rence a Day Makes」(邦題:『縁は異なもの』)

をカバーした。

【音声】 Essential Dinah Washington


マーキュリーの敏腕プロデューサーであるクライド・オーティスと、気鋭のアレンジャーであるベルフォード・ヘンドリックスは、それまでの剥き出しのブルース・コンボ調の編曲から脱却し、ラテン・アメリカのボレロのリズムに豪華なストリングス・オーケストラを配した、洗練された

「オーケストラル・ポップ」

のサウンドを提示した。

この録音でピアノを担当したのが、当時彼女の伴奏者であった若き日の
ジョー・ザヴィヌルである。

ザヴィヌルは後に

「彼女はあらゆる楽曲の内部に入り込み、自分の歌にしてしまう天才的な能力を持っていた」

と語っている。


このシングルはビルボードのポップチャートで8位に達する大ヒットとなり、1959年度の第2回グラミー賞にて「最優秀R&B録音賞」を受賞した。

この未曾有の成功を機に、ワシントンは従来の泥臭いブルースや純粋なジャズの録音を大幅に減らし、

同様にR&Bからポップスへと進出して成功を収めていたレイ・チャールズの手法を追うように、ルーレットやマーキュリーにおいて、ストリングスを多用したロマンチックでイージーリスニング調のバラードの制作に専念するようになる。


1960年
には、悲哀に満ちたオーケストラ・バラードの最高峰である

This Bitter Earth

がR&Bチャートで1位を獲得する。


また、1961年にはクインシー・ジョーンズが指揮と編曲(アーニー・ウィルキンスによる精緻なチャート)を務めた、ビリー・ホリデイのカバー曲

Don't Explain

の傑作バラード録音を残している。


この時期、彼女は同じくクライド・オーティスのプロデュースにより、甘い歌声で人気を博していた男性シンガー、ブルック・ベントンとのデュエット企画へと乗り出した。

1960年にリリースされた

Baby (You've Got What It Takes)」と
A Rockin' Good Way

は連続してR&Bチャート1位、ポップチャートでもトップ10入りを果たす爆発的なヒットとなった。


しかし、お互いへの高い音楽的敬意はあったものの、二人の人間関係および労働環境は決して良好なものではなかった。

音楽に対する妥協なき完璧主義を貫くワシントンに対し、ベントンはリラックスした、時にカジュアルなアプローチを好んだため、レコーディング現場では常に激しい衝突が発生していた。

この激しい温度差は、奇妙な形でレコード盤に刻まれている。

「Baby (You've Got What It Takes)」の終盤において、ベントンが誤ってダイナの歌唱パートに重なって入ってしまった際、ダイナは即座に歌うのをやめ、

「また私のスポットに入り込んでるわよ、ハニー(You're in my spot again, honey)」

と鋭く牽制した。

これに対しベントンが

「君のスポットが好きなんだ(I like your spot)」

とユーモラスに切り返し、このプロ同士のリアルな緊張感を含んだ即興の掛け合いが、そのままテイクとして採用され市場にリリースされた。

「A Rockin' Good Way」

でも同様に、曲の終わりにダイナが

「私のスポットに入らないで(Stay out of my spot)」

と警告し、ベントンが

「でも、あのスポットが好きなんだよ」

と答えるやり取りが収録されている。

二人の気性の不一致は修復不可能であり、予定されていたフル・デュエット・アルバムの共同制作プロジェクトは、完成を見ることなく途中で頓挫した。


一方、彼女は自身の原点であるジャズの現場でも、その実力を存分に見せつけていた。

1958年7月6日、ロードアイランド州で開催されたニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した彼女は、アレンジャーのメルバ・リストン率いるバンドをバックに圧巻のステージを披露した。

この時の演奏の一部は、世界初の本格的な音楽フェスティバル・ドキュメンタリー映画とされる、バート・スターンおよびアラム・アヴァキアン監督の映画

『真夏の夜のジャズ(Jazz on a Summer's Day)』

に収録された。

【音声】 1958 Newport Jazz Festival | All of Me | Dinah Washington


鮮やかなカラー映像の中で、マックス・ローチの弾けるようなドラムとウィントン・ケリーの軽快なピアノに乗せ、バイブラフォン奏者テリー・ギブスとステージ上で戯れ、

自らもバイブラフォンを叩きながら

All of Me

をスウィングするダイナの姿は、映画の最大のハイライトとして映画史・音楽史に刻まれており、同作は1999年にアメリカ国立フィルム登録簿に保存された。


6. 私生活の混迷 複数回の結婚と家庭生活のリアリティ

ダイナ・ワシントンの私生活は、彼女の歌声が持つ劇的な感情表現を裏付けるかのように、極めて波乱万丈で、かつ複雑な人間関係に満ちていた。

彼女は生涯において公式・非公式を合わせて7回から9回に及ぶ結婚と離婚を繰り返し、その情熱的で移り気な性格は常にメディアの注目を集めていた。

彼女の私生活における激しいドラマは、以下のような詳細な変遷をたどっている。

  • John Young との初婚(18歳):彼女がハンプトン楽団でプロのキャリアをスタートさせたばかりの1941年から1942年頃、ルースの最初の結婚が執り行われた。この時、婚姻の儀式を執り行ったのが、後に彼女の人生に深く関わることになるシカゴの聖ルカ・バプテスト教会のスターリング・グレイソン牧師であった。しかし、この若すぎる結婚は1年を待たずして破綻した。

  • George Jenkins との結婚と長男の誕生:1945年の夏、彼女はハンプトン楽団の同僚ドラマーであったジョージ・ジェンキンスと結婚した。ソロとしてのキャリアを歩み始め、アポロ・レコードの録音や西海岸ツアーを精力的に行っていた彼女は、やがて妊娠した。1947年年初、彼女は長男ジョージ・ジェンキンス・ジュニア(George Kenneth とも記載される)を出産するが、夫のジェンキンスは出産に立ち会うことはなかった。夫婦関係はすでに修復不可能なほど冷え切っており、1947年7月に正式に離婚した。

  • Robert "Bobby" Grayson との結婚と次男の誕生:離婚後まもない1947年8月、彼女はかつて少女時代に信仰を共にしたシカゴの聖ルカ教会の牧師の息子であり、ブルース歌手アンドリュー・ティブスの実兄でもあったロバート・“ボビー”・グレイソンと3度目の結婚をした。1948年8月2日には、次男であるロバート・グレイソン・ジュニアが誕生する。ダイナは幼児期の二人の息子を育てるため、少女時代からの親しい友人をシッターとしてツアーに帯同させ、過酷な巡業と録音を継続したが、この結婚もまた約2年で終わりを迎えた。

  • Walter Buchanan と Eddie Chamblee:1950年、彼女はベーシストのウォルター・ブキャナンと4度目の結婚をするが、わずか3ヶ月で離婚した。その後、1957年にはテナーサックス奏者のエディ・チャンブリーと結婚した。チャンブリーは彼女の音楽パートナーでもあったが、ある夜のステージのパフォーマンス中に、ダイナが激昂して「夫のチャンブリーをその場で即座にクビにする」という前代未聞のトラブルを起こし、この結婚も数ヶ月で崩壊した。

  • Horatio Maillard, Rafael Campos, Jackie Hayes:その後も、海外旅行中に突如結婚したタクシー運転手のホラティオ・“ラスティ”・マイヤードや、プエルトリコ出身の若手俳優ラファエル・カンポス、そしてジャッキー・ヘイズといった男性たちと短い婚姻と離婚を重ねた。また、当時の二枚目ジャズ歌手であったビリー・エクスタインとの間にも、ロマンチックな不倫関係の噂が絶えなかった。

  • Richard "Night Train" Lane との最後の婚姻:1963年7月、彼女はプロフットボール(NFL)のデトロイト・ライオンズに所属する伝説的なディフェンシブバックであり、キャリア後半の全盛期を迎えていたディック・“ナイト・トレイン”・レーンと結婚した。彼らの結婚式では、当時プロバスケットボール界の絶対的スターであったウィルト・チェンバレンが新郎の介添人(ベストマン)を務め、世間の大きな注目を集めた。


7. 1963年12月14日 39歳の急逝とその詳細な背景

1963年12月14日の早朝、ダイナ・ワシントンの波乱に満ちた生涯は、39歳というあまりにも早すぎる死によって唐突に幕を閉じた。

当時、彼女は新婚の夫ディック・“ナイト・トレイン”・レーンと共に、デトロイトの自宅で暮らしていた。

前夜、二人は同じベッドに入って眠りについたが、早朝にレーンが目を覚ました際、彼の傍らでうつ伏せになっていたダイナの身体がすでに冷たくなり、呼びかけに一切反応しない状態であることに気づいた。

狼狽したレーンは救急を要請し、現場に急行したB.C.ロス医師によって、その場で彼女の死亡が宣告された。


その後の詳細な検死解剖により、体内から極めて高濃度のセコバルビタール(Secobarbital)とアモバルビタール(Amobarbital)が検出された。

これらは、彼女が長年悩まされていた極度の不眠症を解消するための睡眠薬、および彼女自身の肥満に対する強迫観念から常用していた、新陳代謝を促進して食欲を抑えるための処方ダイエットピルの主成分であった。

これらの複数の薬物が、体内でアルコールと混ざり合うことによって致死的な相互作用を引き起こした結果、意図しない

「不慮の事故死(オーバードーズ)」

に至ったと結論づけられた。


皮肉なことに、急逝するわずか2週間前まで、彼女はロサンゼルスのナイトクラブのステージに立っており、その歌声の張りと圧倒的なパワーは人生の絶頂期にあると評価されていた。

全盛期の歌声を失うことなく、 frozen in aspic(琥珀の中に閉じ込められたように)の状態で39歳のままこの世を去った彼女の遺体は、イリノイ州アルシップにあるバー・オーク墓地に厳かに埋葬された。


8. 音楽的遺産の継承 アレサ・フランクリンから21世紀の歌姫たちへ

ダイナ・ワシントンの物理的な生涯は39年で途絶えたが、彼女が遺した音楽の魂は、アメリカの黒人音楽、ひいては世界のポピュラー・ミュージックの歴史において、極めて特異な位置を占め続けている。

その最も顕著な継承の儀式が、彼女の死からわずか2ヶ月後の
1964年2月18日コロンビア・レコードからリリースされた、
アレサ・フランクリンの5枚目のスタジオ・アルバム

Unforgettable: A Tribute to Dinah Washington』

である。

当時21歳であったアレサにとって、ダイナは幼少期からの最大の憧れの存在であった。

アレサの父親である高名なC.L.フランクリン牧師とダイナは極めて親しい友人関係にあり、アレサは少女時代にダイナが

Fat Daddy

を歌うのを聴いて以来、その感情的なコミットメントの深さに圧倒され、強い影響を受けていた。

この追悼アルバムのレコーディング・セッションは、
音楽プロデューサーのロバート・マージーが手配した、
ピアノおよびオルガンのアーニー・ヘイズ、
ベースのジョージ・デュヴィヴィエ、
ドラムのゲイリー・チェスター、
バイブラフォンのテディ・チャールズといった一流のジャズ・ミュージシャンをバックに行われた。

アレサは、自身がピアノを弾き、時にセルフ・バックボーカルを重ねながら、ダイナの代表曲である

「Unforgettable」、「Cold, Cold Heart」、
「This Bitter Earth」、「Evil Gal Blues」

などを録音した。

この録音は、ジャズのシルキーな抑制美と、ゴスペル直系のアーシーなソウル歌唱との間で、激しい芸術的緊張感が火花を散らす傑作となった。

批評家からは

「ジャズからソウルへと時代が移り変わる中での、最も美しい女王のバトンの受け渡し」

と絶賛され、アレサが後に

「ソウルの女王」

として世界を席巻するための最大の芸術的跳躍台となった。


さらに、ダイナ・ワシントンの楽曲は没後も予期せぬ形で新しい世代へと伝播した。

1932年にノエル・カワードが作詞・作曲し、ダイナが
1952年(ウォルター・ロデル編曲)と
1961年クインシー・ジョーンズ指揮・編曲)の2度にわたって録音した

名曲「Mad About the Boy」は、

彼女の没後30年近くが経過した1992年、イギリスにおいて大手衣料品ブランド「リーバイス」のテレビコマーシャルに起用された。

1961年録音の洗練されたクインシー・バージョンがCMを通じて全英に流れると、若者たちの間で大きな話題となり、1992年4月に全英シングルチャートで41位を記録するという、異例の posthumous hit(死後のヒット)を記録した。

また、21世紀においても、グラミー賞受賞シンガーであるレディシ(Ledisi)が、2026年に彼女への深甚な敬意を込めたトリビュート・アルバム

『For Dinah』

をリリースし、グレゴリー・ポーターやポール・ジャクソン・ジュニアといった豪華な布陣を従えてダイナの魅力を現代に蘇らせている。

彼女の魂は、今なおポピュラー音楽の最前線で鳴り響いている。


9. 統計・資料セクション

以下の表は、ダイナ・ワシントンの波乱万丈な歩み、チャートでの金字塔、およびその膨大なディコグラフィーを整理した、歴史的・学術的な記録資料である。

表1:ダイナ・ワシントンの主要シングルとチャート動向

録音/発表年
シングルタイトル (原題)
米ビルボード最高位
米R&Bチャート最高位
全英チャート最高位
備考・歴史的マイルストーン

1944年 "Salty Papa Blues"
 — 10位 —
 キーノートにおけるハンプトン楽団メンバーとの初期録音

1944年"Evil Gal Blues" 
 — 9位 —
 デビュー曲。
 レナード・フェザー作。
 ハーレム・ヒット・パレード入り

1946年 "Blow-Top Blues" 
 21位 5位 —
 ライオネル・ハンプトン楽団名義での大ヒット

1948年 "Ain't Misbehavin'"
 — 6位 —
 マーキュリー・レコード移籍後、ソロ活動を決定づけたファッツ・ウォーラーのカバー

1948年 "Am I Asking Too Much"
 — 1位 —
 ソロ歌手として初のR&Bチャート1位を獲得した金字塔

1949年 "Baby Get Lost"
 — 1位 —
 R&Bチャートで連続首位を記録し、絶対的地位を確立

1951年 "Cold, Cold Heart"
 — 3位 —
 ハンク・ウィリアムズの楽曲。
 カントリーの枠を越えた初の黒人カバーとして歴史に刻まれる

1954年 "Teach Me Tonight"
 23位 4位 —
 後にグラミー殿堂入りを果たす、1950年代の代表的なポップ・ジャズ・スタンダード

1959年 "What a Diff'rence a Day Makes"
 8位 4位 —
 1959年第2回グラミー賞「最優秀R&B録音賞」受賞。
 ポップ・チャートのトップ10にクロスオーバー

1959年 "Unforgettable" 
 17位 15位 —
 グラミー殿堂入り。
 甘美なオーケストレーションを配したポピュラー路線の代表作

1960年 "Baby (You've Got What It Takes)" 
 5位 1位 —
 ブルック・ベントンとのデュエット。
 スタジオ内の主導権争いがそのまま盤面に残る
 
1960年 "A Rockin' Good Way" 
 7位 1位 —
 ベントンとのデュエット第2弾。
 こちらもR&B1位、ポップトップ10を記録

1960年 "This Bitter Earth" 
 24位 1位 —
 悲哀に満ちた内省的なオーケストラ・バラードの最高峰

1961年 "September in the Rain"
 23位 5位 35位
 イギリスのチャートにも初めてランクインしたポップ・ジャズ後期の傑作

1963年 "Soulville"
 92位 — —
 生前最後のチャートイン曲。
 レイ・チャールズ風のソウル/ゴスペル調ナンバー

1992年 "Mad About the Boy"
 — — 41位
 1961年録音(クインシー・ジョーンズ指揮)。
 「リーバイス」のCM起用による死後のリバイバル・ヒット

表2:ダイナ・ワシントンの婚姻・家族史のまとめ

配偶者の氏名 (原題)
婚姻の合意時期
配偶者の職業・背景
子女・家庭環境の詳細

John Young 1941/42年 - 1943年
 一般男性
 初婚。スターリング・グレイソン牧師の司式により結婚するも、すぐに破綻
George Jenkins 1945年 - 1947年
 ハンプトン楽団のドラマー
 長男ジョージ・ジェンキンス・ジュニアを出産。
 出産時にジェンキンスは不在

Robert "Bobby" Grayson 1947年 - 1949/50年
 聖ルカ教会の牧師の息子
 次男ロバート・グレイソン・ジュニアを出産。
 友人シッターを連れてツアーを行う

Walter Buchanan 1950年 (約3ヶ月)
 ベーシスト
 アーネット・コブ楽団のメンバー。ごく短い期間で離婚

Eddie Chamblee 1957年 (数ヶ月)
 サックス奏者
 ステージ上でダイナから公然と「解雇」を通告され、数ヶ月で婚姻関係が破綻

Horatio "Rusty" Maillard 1959年 - 1960年
 タクシー運転手
 海外旅行中に衝動的に結ばれたとされる短い関係

Rafael Campos 1960年代初頭
 プエルトリコ出身の俳優
 年下のハリウッド俳優との短い婚姻関係

Richard "Night Train" Lane 1963年7月 - 1963年12月
 NFLの伝説的選手
 最後の結婚。
 デトロイトの自宅ベッドにて、冷たくなったダイナをレーンが発見

表3:代表的なアルバム作品(リーダー名義および主要編集盤)

リリース年
アルバムタイトル (原題)
レーベル
特記事項・アルバムの概要

1947年 Mellow Mama
 Delmark
 アポロ・レコード時代(1945年)のアーシーなブルース録音を集めたコンピレーション

1954年 After Hours with Miss "D"
 EmArcy / Mercury
 レイトナイト向けの親密でスモーキーなジャズ・セッションの傑作

1954年 Dinah Jams 
 EmArcy / Mercury
 クリフォード・ブラウンら超一流ジャズメンを迎えた、即興演奏が冴え渡るライブ・セッション

1955年 For Those in Love
 EmArcy / Mercury
 洗練されたエレガントなバラード唱法を提示した、ジャズ期の代表作

1957年 The Swingin' Miss "D"
 EmArcy / Mercury
 クインシー・ジョーンズが編曲を手がけ、彼女のダイナミックなスウィング感を凝縮

1958年 Dinah Sings Bessie Smith
 EmArcy / Mercury
 彼女が敬愛する「ブルースの皇太后」ベッシー・スミスに捧げたソウルフルなルーツ回帰作

1958年 Newport '58
 EmArcy / Mercury
 ニューポート・ジャズ・フェスティバルでのスリリングなライブ盤。
 メルバ・リストンが編曲

1959年 What a Diff'rence a Day Makes!
 Mercury
 ポップス市場で大成功を収め、グラミー賞を獲得した歴史的クロスオーバー・アルバム

1960年 The Two of Us
 Mercury
 商業的成功の絶頂期に制作された、ブルック・ベントンとのデュエット盤

1962年 Drinking Again
 Roulette
 後期の洗練されたイージーリスニング・ポップの代表作

1963年 Back to the Blues
 Roulette
 生前最後にリリースされた、原点であるブルースに回帰したスタジオ・アルバム


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