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“危険な犬種”など存在しない——レッテルが命を奪う

「闘犬という犬はいない」—犬の本質と人間の罪

かつて「闘犬」という言葉は、土佐犬やピットブルなどの犬種とともに語られ、まるでその犬たちが“生まれながらにして戦うために作られた存在”であるかのように認識されてきました。しかし、本当にそうでしょうか?犬という生き物の本質を見つめ直したとき、その前提はあまりにも残酷で、そして無知であると言わざるを得ません。

まず、大前提として知っておいてほしいのは、「闘犬」という犬種は存在しないということです。犬は人間との関係性の中で、何千年もの時間をかけて共存と協調を学び、生きてきた動物です。彼らは元々、仲間と群れを成し、争いを避けて生きることを選んできた動物です。闘うことは“本能”ではなく、“強いられた行動”にすぎません。

特定の犬種が「闘犬」と呼ばれるようになった背景には、人間の手によって選択交配され、管理され、時には虐待される形で、攻撃性を引き出されてきた過去があります。つまり、「闘う犬」を作ったのは犬ではなく人間の欲と都合です。

とくに問題なのは、「闘犬=危険な犬=排除すべき存在」といった安直なレッテル貼りです。これは現実に、多くの犬たちの命を奪ってきました。例えば、保護施設に収容されたピットブルや土佐犬は、ただ「見た目が怖い」「闘犬だから危ない」との理由で譲渡対象から外され、殺処分される例が後を絶ちません。しかし実際に接してみると、そういった犬たちは人懐っこく、甘えん坊で、愛情に飢えている子が多いのです。

犬に攻撃的な行動が見られる背景には、必ず「環境」「飼育方法」「人間側の関わり方」が存在します。劣悪な飼育環境、過度な拘束、運動不足、虐待、精神的ストレス。これらが積み重なると、どんな犬でも追い詰められ、問題行動を起こす可能性があります。それは「闘犬」とされる犬種に限らず、トイプードルやチワワでも起こりうることです。

また、犬に闘争行動をさせる「闘犬ショー」や「賭け試合」は、いまだに世界のどこかで続いています。そこには血と暴力が蔓延し、犬は“道具”として消耗されていきます。本来、どんな犬にも「闘いたくない」という感情があります。命を削ってまで戦うことに喜びを感じる犬など存在しないのです。

私たちはこの現実を、冷静に、しかし強く非難しなければなりません。闘犬を「伝統」や「文化」として美化することは、犬という命に対する最大の侮辱です。

人間のエゴで「闘犬」として利用された犬たちを、もう一度「犬」として見てあげてほしい。彼らにも、他のどの犬と変わらない感情、痛み、喜び、愛があるのです。
「闘犬」は、犬ではなく人間の心の闘争の象徴です。犬は鏡。私たちの社会の歪みや乱れは、犬の行動にそのまま現れます。

「闘犬だから…」ではなく、「その子は何を抱えて生きてきたのか?」という視点で向き合ってください。そうすれば、どんな犬種であっても、その子の本当の姿に気づけるはずです。


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