透明な服(1155字)掌編小説

男がその店を見つけたのは、路地裏の奥だった。 薄汚れた看板には、たった六文字。
『透明服専門店』 店内には服が一着も並んでいない。 老人だけが、何もないハンガーを丁寧に磨いていた。

「いらっしゃい」
「ここ……何の店です?」
「透明な服を売ってる」 男は思わず笑った。 「冗談でしょう」 老人は穏やかに首を振る。 「着れば誰にも見えなくなる……と言えば嘘になる」 一拍置いて、男の目をまっすぐ見た。 「姿は見える。だが、誰もお前が誰なのか気にしなくなる」
「……どういう意味だ?」
「名前も、肩書も、過去も意味を失う。人はお前を一人の『誰か』として認識しなくなる」
男は半信半疑だった。

だが老人の言葉には奇妙な説得力があり、気づけば大金を払っていた。 服を着て街へ出る。
すぐに異変は現れた。
人は男を避けない。
驚きもしない。
目は合う。
しかし、その視線は男を素通りしていく。
存在しているのに、存在していない。
男は試した。
通行人を罵倒する。誰も止めない。
老人に暴言を吐く。誰も振り向かない。
若い女に下品な言葉を浴びせる。 女は不快そうに周囲を見回したが、男を見つけることなく立ち去った。

男は笑った。
「これが透明か」

翌日も。 その翌日も。 男は服を着て街へ出た。
他人を傷つけるたび、自分は自由になっていく気がした。
誰にも裁かれない。
誰にも覚えられない。
世界は、自分だけの遊び場だった。

ある夕方。 男は広場で、有名な政治家に向かって大声で罵声を浴びせていた。
そのとき、不意に肩をつかまれる。
「署まで来てもらう」 振り返ると、警察官が二人立っていた。

男は笑った。
「見えるのか?」
「もちろんだ」
「じゃあ、何で今まで……」
警察官は答えず、男の背中を向けさせた。
服には大きな数字が印字されていた。

『74291』
「これは?」
「管理番号だ」 警察官は淡々と言う。
「透明服を購入した者には、全員この番号が付く」 男の血の気が引いた。
「店主はそんなこと……」
「聞かなかっただけだ」
警察官は端末を確認する。

「74291。 暴言三百十二件。 器物損壊十八件。 暴行未遂四件。 すべて記録済みだ」 男は震えた。

「名前は」
男は黙った。
警察官は手帳を閉じた。
「名前など最初から関係ない」 男は叫ぶ。

「騙された! あいつは『誰だかわからなくなる』って言ったんだ!」
警察官は静かに首を振った。
「違う」 そして短く言った。

「透明になったのは、お前の名前じゃない」 「――良心だ」 男は言葉を失った。

パトカーへ押し込まれる直前。
男は路地裏を振り返る。 店は、もうなかった。 古びた看板だけが風に揺れている。
『透明服専門店』
その下には、小さな文字が書き足されていた。

人は、見えなくなった時に、本当の姿を見せる。

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