ガラパゴスオッサン⑬ 肩書きを脱ぐ男

山へ入ると、不思議なことがある。

休憩中、たまたま隣に座った人と話が始まる。

「今日はどちらまでですか。」

「どこから来られたんですか。」

そんな他愛もない会話である。

十分かもしれない。

三十分かもしれない。

下山すれば、おそらく二度と会わない。

それでも、その人のことを妙によく覚えている。

居酒屋でもそうだ。

旅先のカウンター。

隣に座った人と話が弾む。

「どちらからですか。」

「この店、初めてですか。」

気が付けば酒も進んでいる。

もちろん、たまには地雷も踏む。

「あっ、しまった。」

と思うこともある。

カラオケスナックでも同じだ。

「この歌、懐かしいですね。」

そんな一言から話が始まり、気が付けば閉店時間。

これも、たまには地雷を踏む。

人生、そんなに甘くはない。

愛次郎が聞いた。

「編集長、人付き合いは苦手なんですよね。」

「苦手だな。」

「会にも入らない。」

「入らない。」

「群れるのも嫌い。」

「嫌いだ。」

「でも、知らない人とは話すんですね。」

「話すな。」

「矛盾しています。」

私は少し考えた。

「そうかもしれんな。」

愛次郎は続けた。

「ところで編集長。」

「なんだ。」

「どうして仕事を話さないんですか。」

確かに私は、ほとんど言わない。

「編集長です。」

「雑誌を作っています。」

そんな話は、まずしない。

もったいぶっているわけではない。

大した肩書きでもない。

ただ、本能的にそうしている。

「鎧を脱ぎたいんだろうな。」

そう思う。

編集長でもない。

インタビュアーでもない。

ただの登山者。

ただの旅人。

ただの居酒屋の客。

その方が相手も自然体になる。

私も自然体でいられる。

愛次郎が静かに言った。

「だから編集長は、人の話を聞くのが好きなんですね。」

私は笑った。

「聞くというより、聞かせてもらっているんだ。」

編集という仕事を四十年以上続けてきた。

肩書きのある人にも。

ない人にも。

本当にたくさんの人に会ってきた。

でも、今でも記憶に残っているのは、山小屋で十分だけ話した人だったり、旅先の居酒屋で隣になった人だったりする。

名前も知らない。

連絡先も知らない。

もう一生会わないかもしれない。

それでも、不思議と忘れない。

人との出会いは、長さではない。

肩書きでもない。

その時、その場所でしか生まれない空気なのだと思う。

だから私は、一期一会という言葉が好きだ。

たまに地雷も踏む。

でも、それも一期一会である。

肩書きを脱いだオッサン同士だからこそ話せることがある。

私は、そんな出会いを、これからも大事にしていきたい。

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