バカの言語学:「バカ」の語義(1) 岩波書店の辞書より
「バカ」とは何か?
この問題をこれから考えようとしているわけですが、何も考えなくても簡単に出せる答えがただ一つあります。
「バカ」とは「バカ」という言葉である。
当たり前です。当たり前すぎてバカバカしいくらいです。しかしたいへん重要なことでもあります。
「バカ」とは何よりもまず言葉です。そして多くの人がこの「バカ」という言葉やその同義語を使っています(方言や同義語についてはいずれ別に取り上げるつもりです)。その使い方は人により場合によりいろいろでしょうが、ある程度一般的な共通のところがあるはずです。それがあるから私たちは、誰かが何らかの場面で「バカ」という言葉を使った際、その人が「バカ」という言葉で何を言いたいのかがわかるのです(もちろん、その理解が間違っていることもあるのですが)。
言葉の「意味」とは、この「ある程度一般的な共通のところ」のことだ、ととりあえず考えることにします。そうすると、「バカ」という言葉の意味、つまりこの言葉が人々の間で一般的にどう使われているかを調べることで、「バカ」とは何かについての理解ができるはずです。
ところで私たちはある言葉の意味を知りたいと思った場合、どうやって調べるでしょうか? いちばん手っ取り早い方法は国語辞典を使うことです。ネットで調べる、という人が多いかもしれませんが、一定レベル以上のちゃんとした辞書サイトは多くの場合、既存の国語辞典をデータベースにしています。そこで「バカ」という言葉の意味について考えるために、いくつかの国語辞典で「バカ」を引いてみることにしましょう。
『広辞苑』で「バカ」を引く

国語辞典の代表格といえばやはり岩波書店の『広辞苑』(初版は1955年)、ということに世間ではなっているようです。実際、「『広辞苑』によれば……」なんていう書き出しの文章をよく見かけます。ですから私も、まずはその『広辞苑』の最新版である第七版で「バカ」を引いてみることにします。
ばか【馬鹿・莫迦】(梵語moha(慕何)、すなわち無知の意からか。古くは僧侶の隠語。「馬鹿」は当て字)
①おろかなこと。社会的常識に欠けていること。また、その人。愚。愚人。あほう。〈文明本節用集〉「専門―」
②取るに足りないつまらないこと。無益なこと。また、とんでもないこと。「―を言うな」「―なことをしたものだ」
③役に立たないこと。「蝶番が―で戸が締まらない」
④馬鹿貝の略。夏目漱石、草枕「貝の殻は牡蠣かきか、―か、馬刀貝まてがいか」
⑤(接頭語的に)度はずれて、の意。「―ていねい」「―さわぎ」「―陽気」→馬鹿に
※適宜改行し、記号なども適宜省略・変更しています。以下同。
今さら説明するまでもないとは思いますが、国語辞典の各項は、まずその言葉の読み方を示すための平仮名表記があり(これを「見出し項目」または「見出し語」といいます)、ついで漢字表記があれば【 】などの中に表示されます。この後、品詞や活用など文法的な性質が示されることが多いのですが、『広辞苑』では名詞の場合は表示していません。そして語源の解説を簡単にしてから(ない場合もあります)、語義の説明(これを「語釈」といいます)があり、用例が続きます。語義が複数ある場合はもちろん、①②③…と番号をふって、それぞれの語釈と用例を記しています。
こういう国語辞典の形式は、もともと欧米各国で19世紀から盛んに作られるようになった辞書が踏襲していたもので、日本では明治時代に大槻文彦が著した『言海』以来採用されています。
さて、上に掲げた『広辞苑』の「ばか」の項ですが、漢字の表記が「馬鹿」「莫迦」と2種類示されています。
「馬鹿」のほうはおなじみのものですが、「莫迦」のほうは見たことがないという方もいらっしゃるかもしれません。おそらく大正時代ぐらいからだと思いますが、特に文学作品で使われることがあります。芥川龍之介なんかはこちらを結構使っています。近年はあまり使われなくなりましたが、SF作家の新井素子が高校生だったデビュー当時からこの「莫迦」をよく使っています。
( )内の語源の説明や〈 〉内の「文明本節用集」というのが何のことか気にかかるところですが、まずはいちばん肝心な語釈を見てみることにしましょう。
「おろか」と「社会的常識の欠如」は同じ?
まずは①です。
いちばん最初に「おろかなこと」とあります。これは言葉の意味というより同義語じゃないかと思ってしまいます。日常的によく使われる言葉を辞書で引くとよくあることです。
その次に「社会的常識に欠けていること。また、その人」と書かれています。「~こと。また、その人」というのは、いうまでもなく事柄の性質を表す場合と人物の性質を表す場合と両方あるということです。このことも結構重要なことではありますが、それよりも目につくのは「社会的常識」という言葉です。
ここで、先に出てきた「おろか」を『広辞苑』で引いてみます。まさか「馬鹿なこと」とのみ書かれてはいまいか、などとも思ったのですが、そんなことはありませんでした。語源や用例などは略して、語釈だけを抜き出します。
①知能・理解力が乏しいこと。ばか。あほう。
②程度が劣ること。おろそか。
③ばかげていること。
このうち今見るべきは、「ばか」を同義語としている①ですが、「おろか」の語釈には「知能・理解力が乏しい」とあるだけで、「社会的常識」は出てきません。
そこで「常識」という言葉を引いてみます。
普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに、理解力・判断力・思慮分別などを含む。
つまり人間が知りうる物事のうち、「専門的知識」ではなくて「普通」「一般人」の間で共有されているものが「常識」だ、ということです。「また、持っているべき」とありますから、規範としての性格も併せもっていることになります。「理解力・判断力・思慮分別など」もその規範に従ったものである、ということだと思います。
「ばか」の語釈①では、「常識」の前に「社会的」という言葉が付いています。「普通、一般人が持ち、また、持っているべき」という表現がすでに「社会的」という意味を含んでいるように思うのですが、それをことさら強調したい、ということなのでしょうか。
このように『広辞苑』は、社会性を特に含んでいない「おろか」という意味と、社会の規範でもある「社会的常識」が欠如しているという意味とを、一つのくくりに入れています。
もちろん私も「バカ」という言葉には両方の意味があるだろうとは思いますけれども、この2つが一つのくくりに入れられていることにはどうも違和感を感じてしまいます。前者は単に知らない、わからない、ということのようですが、後者は規範に適っていないという意味まで含んでいるからです。
この違和感は、用例を見るとさらに強まります。
「専門―」の「―」は見出し語が入るということですから、「専門ばか」ということです。「専門ばか」というのは、いうまでありませんが、自分の専門に関わる知識ばかりが豊富で、それ以外の一般的な知識が欠けている、という意味です。例えば、世界的な物理学者ではあるけれどスーパーでの買い物の仕方も知らない、みたいな場合にこの言葉を使います。
ですから「社会的常識に欠けている」という表現は確かに妥当します。しかし、単なる「知識・理解力」の欠如というのは、全く違うとまではいえないかもしれませんが、ちょっとおかしいように思います。単に「知識・理解力」がないのならば、専門的な知識ももてないのでは、と考えてしまいます。
この2つの語釈を①②に分け、「社会的常識に欠けている」ほうの用例に「専門ばか」を入れれば問題はないでしょう。それでは、なぜ『広辞苑』ではこの2つを一つのくくりに入れているのでしょうか。
もしかすると、これは『広辞苑』の編集方針に関係があるのかもしれません。
どんな辞書にも冒頭近くに「凡例」というのがあって、その辞書の使い方や編集方針を説明していますが、『広辞苑』の凡例を見てみますと、「解説」のところに「語義がいくつかに分かれる場合には、原則として語源に近いものから列記した」と記されています。
ここで( )内の語源を見てみましょう。「無知」という意味の梵語 "moha" が語源だとしています。実際にはいろいろな説が「バカ」の語源にはあるのですが(「『バカ』の語源(1)」「同(2)」参照)、『広辞苑』は "moha" 説をとっています。ですから「語源に近い」語義は「無知」、つまり「おろかなこと」なります。ふつうに考えればこれだけでいいはずです。
次に、先ほどは触れなかった〈 〉内に目を向けます。「文明本節用集」とあります。
凡例によると、〈 〉内には典拠が示されています。「典拠」を『広辞苑』で調べると、「(言葉や文章などのもとになった)よりどころ。出典」とありますが、要するにこの言葉が初めて使われた文献のことだと考えればいいと思います。『文明本節用集』というのは室町時代に作られた一種の辞書なのですが、「バカ」という言葉が文献上に最初に出現したのはこの辞書においてだったということになります(「『バカ』の語誌(2)」参照)。
普通に考えると、文献上で最初に使われたときの意味と語源が示す意味とは一致しそうなものなのです。ところがこの『文明本節用集』で「バカ」を調べると、「狼藉」の意味となっています。「狼藉」は『広辞苑』によれば「乱れたさま」や「乱暴」を意味しています。
「無知」と「乱暴」とでは、言葉の意味としてはだいぶ違うように思われます。一方、「社会的常識の欠如」と「乱暴」とだと、同じ意味とまではいえないかもしれませんが、かなり近い関係にあると思われます。
『広辞苑』の最初の語釈は結局のところ、語源の意味と文献上の初出時の意味の違いとの間に折り合いをつけられなかったということなのかもしれません。そこで両論併記のような形で、「おろかなこと」と「社会的常識が欠けていること」を一つのくくりに入れた、ということが可能性として考えられます。
もちろんほんとうの事情はわかりません。そもそも違和感を感じているのは私だけなのかもしれません。
「バカ」の語源説や『文明本節用集』などの文献については別の機会に取り上げるつもりですので、①についてはこれくらいにしておきましょう。
「つまらない」「無益」「とんでもない」
次の②では、「取るに足りないつまらないこと」「無益なこと」、それから「また、」を挟んで「とんでもないこと」が並列されています。用例は「バカを言うな」「バカなことをしやがって」の2つが持ち出されています。②の意味は「人」に対しては使用されず、「こと」についてのみ使われるということにも注目が必要です。
②に併記された3つの語釈のうち、重要なのは「無益なこと」です。つまり利益に対する関心がここでは前提となっています。そして、その利益が得られないような事態が「バカ」である、ということだと思います。
そういう「バカ」として「つまらない」と「とんでもない」がある、というのは確かにそうなのですが、この2つの性格には違いもあるはずです。
「つまらない」は利益を全くもたらさないけれど、損害だって、せいぜい時間や労力のちょっとした無駄くらいで、大したことないという含みがあります。「バカなこと言ってないで、早く仕事を片付けろよ」というのがこの場合の「バカ」です。
一方「とんでもない」は利益をもたらさないどころか、かなりの損害をもたらして「ひどいなあ」というニュアンスがあります。「何てバカなことをしでかしたんだ。せっかくやった仕事が台無しじゃないか」という場合がこちらにあたります。「つまらない」ほうの「バカ」は仕事に戻れますが、「とんでもない」ほうの「バカ」は仕事が無に帰してしまいます。
こういう使い方の違いは、語釈②では「とんでもないこと」の前に「また、」を置くことで表されているのでしょう。しかし「つまらない」と「とんでもない」についても、一つのくくりにせず、分けてもいいのではないかという感じがします。
さらに「とんでもない」には「常識を外れている」という意味合いもあると思われますから、そもそも①と②の語釈の分け方にすっきりしないところがあります。
人とその言動以外の「バカ」
③に移りましょう。「役に立たないこと」とあります。これは②の「無益なこと」と同じじゃないか、といったん思うのですが、用例を見れば、機能を求められる道具や部品が壊れたり消耗したりすることで機能を果たせなくなった、ということ指しているのがわかります。
おそらく②から派生した意味ではあるのでしょうが、何が「バカ」なのかについて区別がつくような書き方をしてほしいものです。
次の④はバカ学という本筋から離れる項目ではありますが、せっかくですので、触れておきましょう。
正式名称である「馬鹿貝」を『広辞苑』で調べると、以下のように書かれています。
バカガイ科の二枚貝。殻長約8センチメートル。表面は黄褐色で、個体によっては茶褐色の放射彩がある。日本各地の浅海に広く分布し、食用。むき身を「あおやぎ」、貝柱を「あられ」や「小柱」と呼び、共に鮨種などとする。みなとがい。
挿絵も載っていて、見た目はハマグリとよく似ています。ハマグリとの見分け方をネットで調べてみると、貝殻の継ぎ目のところがハマグリは黒いでっぱりがあるのに対し、馬鹿貝はでっぱりがなく紫色をしているとのこと。調理法は刺身だけでなく、焼いてもよし、フライにしてもよし、干物にしてもよし、その他いろいろな食べ方ができるそうです。
語源には諸説あるようですが、私が個人的に好きなのは、貝殻から中身が舌のようにはみ出していることがあり、これがバカのように見えるため、という説です。
最後の⑤「(接頭語的に)度外れて、の意」は、やはり②の「とんでもないこと」から派生したのかと思いますが、否定的な意味より程度が極端であることを表すのが主になっています。しかし用例にある「バカていねい」のように、否定的なニュアンスが含まれることも珍しくはありません。
すっきりしない語釈は言葉の性格のせい?
以上、国語辞典の代表格といわれる『広辞苑』の「バカ」の項を見てきましたが、語義の分け方がどうもすっきりしない、というのが正直な感想です。細かいことでいちゃもんをつけていると思われてしまうかもしれませんが。
もしかすると「バカ」のような、くだけた使い方をされることが多い言葉(「卑語」「卑俗語」などと呼ばれています)は、意味が文脈に依存している度合いが強いために、辞書的な説明が難しいのかもしれません。だとすると、他の国語辞典も似たり寄ったりなのではないか、と推測されます。実際のところどうなのでしょうか。
『広辞苑』と同じく岩波書店から出ている『岩波国語辞典』(初版は1963年)の第八版を見てみましょう。

①知能の働きが鈍いこと。利口でないこと。また、そういう人。
②まじめに取り扱うねうちのない、つまらないこと。また、とんでもないこと。冗談。
③役立たないこと。きかないこと。
④《「―に」の形で、また接頭語的に》普通からかけ離れていること。度はずれて。非常に。
⑤「ばか貝」の略。
社会的常識の欠如に類する記述がないなど多少の違いはありますが、だいたいのところは『広辞苑』に似ています。『広辞苑』と「岩波国語辞典」は編者が違いますが、この項については『広辞苑』を踏まえて書いているのかもしれません。
それでは岩波書店以外から出ている国語辞典はどうなのでしょう。次回の「「バカ」の語義(2)」では、三省堂から出ている国語辞典で「バカ」を引いてみることにします。
◎参考・引用文献
新村出編『広辞苑 第七版』 岩波書店、2018年
「バカガイ」 ウェブサイト「市場魚介類図鑑」 https://www.zukan-bouz.com/syu/バカガイ
西尾実ほか編『岩波国語辞典 第八版』 、岩波書店、2019年
