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「正しい日本語」とは何か

この問題について、これまで日本語圏では、ほとんどインターネットの隆盛と同期するくらい盛んに議論がなされてきた。いや、議論というよりは、「間違った者の認定」がなされてきた。いわゆるマウント取りの一種である。すなわち、正解らしき主張をどこからか見つけてきた者が、それに反するものを誤りと断じる行為である。その内実は、熟語・慣用句の意味的・用法的な誤用、伴うべき助詞・助動詞の誤用、別の表現と混成させてしまった語の使用などである。「すべからく」は「べし」と共に使うべきであるし「すべて」や「ほとんど」という意味は持たないとか、「的を得る」ではなく「的を射る」だとか「当を得る」だとか、「姑息」はズルいという意味ではないだとか、「穿った見方」だとか、「全然」は否定する文節につくのだとか、昭和初期に立ち返ってみれば誤用とされてはいないだとか。例を挙げれば本当に枚挙に暇がなく、あなたもどれかしらは見かけたことがあるのではないだろうか。

そういったくたびれる論争を一段階鳥瞰してみても、フラクタルであるかのように、再び同じような光景が繰り広げられている。つまり、「言葉は意味が伝わればよい」だの、「言語とはそうした逸脱から変化し、正当と認定されていくもの」だのという退屈な総括が、個別の論争を撃破しようと手ぐすねを引いて待ち構えている。具体的には、「的を得る」がたとえ誤用でも、「核心を捉えている」という意味を汲み取ることができればそれでよくない? とか、「新た」は「あらた」なのに「新しい」が「あたらしい」になっているのは読み間違いがもとで、それでもこうして正式になってきた歴史もあるのだから、現代の誤用にだけ取り立てて厳しく接する必要はないだとかだ。
せっかく視座を変えても、結局は同じような応酬ばかりだと思ったことはないだろうか。いがみ合いが重ねられるたびに、少し意外に見える視点を提示して、自らを発想豊かな論者に仕立てる試みの繰り返し。日本語の正しさを巡る議論は、こういったものに終始しており、それらのプールから我々が学び取れることは何もない。ただ残るのは、窮屈な発話環境と、パーキンソンの凡俗法則と呼ばれる、大衆が持つ揺るぎない性質だけである。

これは大仰な名前の割に単純な概念だが、紹介しておこう。パーキンソンの凡俗法則とは何か。馬鹿は、難しい問題を扱わなくてはならない議題には口出ししてきにくい。自らの馬鹿が容易に露呈するからである。逆に、簡単な話にはここぞとばかりに饒舌になって参加してくる。乏しい知識を総動員すれば、自らを賢いと誤認される可能性が僅かながらあるからだ。そういう背景のために、そう行動する大衆の性質のことをいう。
日本語の用法問題は、日本人であれば日本語を普段使っているという理由で、どんな馬鹿でも少しは覚えがある分野の話だ。ゆえに、先に挙げた法則の「簡単な話」に常に該当し、主たる議題が別にあろうと無視して、かまびすしく論陣を張ってくる輩が後を絶たないというわけだ。涙ぐましいではないか。

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