noteの写真を撮った日、背中が痒くなった
ワールドカップの会場で、女の人が写真を撮っている画像が流れてきた。
日本代表のユニフォームを着て、会場を背にして、こちらを向いている。自撮りなのか、誰かに撮ってもらっているのかは分からない。
そのあと、それを揶揄する画像まで流れてきた。
笑っている場合ではない、と思った。
noteには写真のついた記事がある。
あの写真は、noteを書くために撮られたのだろうか。
それとも、撮った写真の先に、たまたまnoteがあったのだろうか。
わたしは以前、noteに載せるつもりで写真を撮り、記事を書いたことがある。
あれは少し、気持ちが悪かった。
写真が気持ち悪いのではない。
撮っている自分を、少し離れたところから見てしまったのが気持ち悪かった。
スマホを構える。
角度を探す。
光を見る。
これを記事に使おうとしている。
その一つひとつが、急に見えた。
うわ、となった。
今でもその写真は載せている。
けれど見返すたびに、写っているものより先に、それを撮っていた自分の背中が見える。
その背中が痒い。
写真つきの記事を読むときも、同じことがある。
いい写真である。
いい文章である。
でも、その奥で誰かがスマホを構えている。
少し腰をかがめて、角度を探し、光を見て、たぶん何枚か撮り直している。
その姿が浮かんだ瞬間、きれいだったものが少しだけコントになる。
もちろん、創作なのだから、それも創作のうちなのだろう。
写真も文章も、選んだ時点で、もう少しだけ作られている。
ただ、その作為が、ふっと見えてしまう瞬間がある。
薄皮が剥がれるみたいに、急に見えてしまう瞬間がある。
ならば、いっそそこまで写せばいいのではないか。
ショートケーキを撮っている人を撮る。
その人を撮っている人を撮る。
さらにその外側から、また撮る。
撮影を撮影している写真。
撮影しているところを撮影している写真。
撮影しているところを撮影しているところを撮影している写真。
ここまで来ると、もう何を撮っているのか分からない。
ショートケーキなのか。
それを撮る人なのか。
その姿を笑う人なのか。
それを見て、また文章にしようとしている自分なのか。
たぶん、全部である。
写真には、被写体だけが写るわけではない。
それを撮ろうとした人の自意識も、うっかり写る。
noteのために写真を撮った日、背中が痒くなった。
でも、たぶん、その痒みまで写っていた。
