午前二時という贅沢
午前二時。
この時間に起きている人は、それほど多くない。
夜勤で働く人、受験勉強を続ける学生、締め切りに追われる作家、あるいは眠れない事情を抱えた誰か。世の中の大半は深い眠りの中にあり、街も人も、一日の役目を終えて静まり返っている。
若い頃の私なら、この時間に目が覚めることはほとんどなかった。仮に目を覚ましても、「まだ寝られる」と布団にもぐり込み、朝まで眠ることが普通だった。
ところが六十代に入ると、身体は正直である。
ふっと目が覚める。
時計を見ると午前二時。
以前なら少し損をしたような気分になっただろう。しかし今は違う。
「ああ、今日はこの時間をもらえた。」
そう思うようになった。
私は昔から二度寝が苦手だ。
一度目を覚ますと、もう頭のどこかが活動を始めてしまう。眠ろうと努力するくらいなら起きてしまったほうがいい。
キッチンで冷たい水を一杯飲む。
部屋は暗い。
照明を全部つけることはない。
小さなスタンドライトだけで十分だ。
愛犬のシェルティが、眠そうな顔をしながら「どうしたの?」という表情で近寄ってくる。
頭を軽く撫でると、安心したようにまた自分の寝床へ戻っていく。
その姿を見るたび、家族とは言葉ではなく気配でつながっているのだと思う。
そこからが、私だけの時間になる。
文章を書く日もある。
本を開く日もある。
腹筋を百回。
腕立て伏せ。
スクワット。
身体を動かすと、不思議なくらい頭が冴えてくる。
四時になればウォーキングへ出かける。
その二時間が、私にとって一日の中で最も贅沢な時間になった。
子どもの頃、この時間は恐怖だった。
「丑三つ時には幽霊が出る。」
そんな話を本気で信じていた。
廊下の暗闇を見るだけで足がすくみ、トイレへ行くのにも勇気が必要だった。
受験生になると、この時間は眠気との戦いだった。
深夜ラジオから流れる笑い声。
『オールナイトニッポン』が終わる頃には、参考書の文字が滲んで見えた。
社会人になると、この時間は会社にいた。
終電を逃し、深夜タクシーの後部座席で眠り込み、自宅へ着く頃には午前三時を過ぎていた。
あの頃は、時間に追われていた。
今は違う。
時間が私を迎えてくれる。
人通りはない。
車の音もほとんど聞こえない。
冷蔵庫のモーター音だけが、家の中で静かに響いている。
こんなにも「音」が少ない世界があるのかと思う。
静寂とは、音がないことではない。
必要な音だけが残ることなのだ。
不思議なのは、この時間になると頭の中の雑念まで静かになることである。
昼間なら、仕事のこと、お金のこと、人間関係、ニュース、SNS、世間体……さまざまな情報が絶えず頭を行き来している。
しかし午前二時には、それらが消えていく。
比較する相手がいない。
競争する相手もいない。
世界には自分しか存在しないような錯覚に包まれる。
だから思考が深くなる。
般若心経の「色即是空」という言葉がある。
若い頃は難しい宗教の話だと思っていた。
ところが六十を過ぎ、この時間を過ごすようになってから、その意味が少しだけ分かる気がしてきた。
形あるものは永遠ではない。
執着しているものも、夜の静寂の中では驚くほど小さく見える。
昼間あれほど腹が立っていた出来事も、「まあ、いいか」と思えてしまう。
人は寺で座禅を組み、「無」になろうと努力する。
しかし、午前二時という時間は、努力しなくても自然に「無」に近づけてくれる。
暗闇。
静寂。
誰もいない世界。
その中で、自分の呼吸だけが聞こえる。
それだけで十分なのだ。
最近では、この時間は死について考える時間でもある。
決して暗い意味ではない。
人はいつか必ず終わる。
だから今日という一日は、思っている以上に貴重なのだ。
夜明け前の空を見上げると、その事実が素直に受け入れられる。
不思議なくらい怖くない。
むしろ穏やかだ。
やがて東の空が少しだけ青くなる。
鳥が一羽鳴き始める。
新聞配達のバイクが遠くを走る。
世界が少しずつ目を覚ます。
私は靴ひもを結び、家を出る。
四時の空気は冷たく、肺の奥まで澄みきっている。
一歩踏み出すたびに、「今日も生きている」という実感が湧いてくる。
午前二時は、多くの人にとって眠る時間だろう。
だが私にとっては、自分という人間を取り戻す時間であり、一日の中で最も静かで、最も豊かな時間である。
誰にも邪魔されず、何者にもなろうとせず、ただ自分として存在できる二時間。
歳を重ねたからこそ手に入れた、この小さな贅沢を、私はこれからも大切にしていきたい。
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