見出し画像

毒親娘――どくおやこ――

母が死んだ朝、彩音は白いブラウスを着ていた。

襟の先まで糊の利いた、身体の線が出ないブラウスだった。袖口のボタンを留め、鏡の前で一度だけ肩を動かす。布地に皺がないことを確かめてから、薄い灰色のスカートを穿いた。

母の静江が好んだ服装だった。

三十二歳になっても、彩音のクローゼットには母が選んだ服しか入っていない。

赤は下品。

黒は陰気。

柄物は落ち着きがない。

身体に合いすぎる服は、男に誤解を与える。

大きすぎる服は、仕事のできない人間に見える。

母はいつも、彩音が何かを選ぶ前に、その選択肢を一つずつ消していった。最後に残ったものを指して、「ほら、あなたが一番似合うと思ったものよ」と言った。

彩音はそれを、自分で選んだのだと思うようにしていた。

午前七時三十分。

母の部屋へ行く時間だった。

静江は同じマンションの十九階に住み、彩音は十七階に住んでいた。娘が三十歳になった年、静江は同じ建物の二階下の部屋を買い与えた。

「あなたにも独立した生活が必要だから」

そう言いながら、静江は合鍵を持ち、毎朝七時三十分に彩音を呼んだ。

朝食を共にし、その日の予定を確認する。

仕事の締切。

誰と会うか。

何時に帰宅するか。

昨日誰から電話があったか。

身体の調子はどうか。

翻訳の依頼主は信用できる人物か。

恋人はいないか。

恋人になりそうな男はいないか。

質問は穏やかだった。だが、答えを曖昧にすると、静江のまぶたがわずかに下がる。

その表情を見ると、彩音の胃は子どもの頃と同じように縮んだ。

午前七時二十九分。

彩音は十九階でエレベーターを降りた。

廊下の突き当たりに、母の部屋がある。

チャイムを鳴らす。

返事はなかった。

もう一度鳴らした。

静江は遅刻を嫌った。彩音が一分遅れれば三十分説教をしたが、自分は一度も時間に遅れたことがなかった。

彩音はバッグから鍵を出した。

鍵は回らなかった。

内側から補助錠が掛かっていた。

「お母さん?」

ドアを叩く。

静江の名を口にするだけで、自分の声が幼くなることに彩音は気づいた。

「お母さん、いるんでしょう」

返事はない。

耳を当てても、物音は聞こえなかった。

彩音は管理人を呼んだ。

警備員が来た。管理会社へ連絡が入り、ほどなく救急隊と警察が到着した。特殊な器具でドアが開けられたとき、内側の補助錠は確かに掛かっていた。

窓も閉ざされていた。

ベランダのガラス戸には内鍵が掛かり、非常階段側の小窓にも施錠があった。

静江はダイニングの椅子に座っていた。

正確には、座ったまま死んでいた。

テーブルには白い磁器のカップがあり、わずかに紅茶が残っていた。新聞はきれいに折り畳まれ、老眼鏡は右手のそばに置かれていた。

静江の顔には苦悶がなかった。

いつものように、少しだけ不満そうな顔をしていた。

救急隊員が脈を確かめた。

その瞬間、彩音は自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。

悲しみではなかった。

恐怖でもなかった。

胸の奥に広がったのは、息を吸うことを許されたような感覚だった。

もう、許可を取らなくてもいい。

その考えが浮かんだ直後、彩音は吐いた。

母の死体の前で、自由になったと思った自分が恐ろしかった。

胃の中には、何も入っていなかった。

「昨夜、最後にお母様とお話しになったのは?」

若い制服警官が尋ねた。

「九時十三分です」

「よく覚えていらっしゃいますね」

「毎晩、九時十分から十五分の間に電話が来ます」

「昨日のご様子は?」

「いつもと同じでした」

「体調が悪いとは?」

「言っていません」

「持病は?」

「高血圧があります。心臓については、詳しく聞いていません」

警官は手帳に書き込んだ。

母の死は、当初、心筋梗塞と考えられた。

六十四歳。高血圧。密室。争った形跡なし。玄関の防犯カメラにも、前夜から朝まで不審な人物は映っていない。

母は一人で紅茶を飲み、突然苦しくなり、助けを呼ぶ間もなく息絶えた。

それで終わるはずだった。

だが、解剖を担当した医師が、血液中の異常な成分に気づいた。

自然死のような症状を引き起こす植物由来の成分だった。量は微量で、通常の検査では見逃されてもおかしくなかった。

静江のカップからも、同じ成分が検出された。

紅茶に混ぜられていた。

母は、殺されていた。



葬儀は、静江の指示どおりに行われた。

生前、静江は自分の葬儀についてもファイルを作っていた。

祭壇の花は白のみ。

香典は辞退。

会葬者への返礼品は特定の店の菓子。

遺影には五十八歳のときに撮った写真。

弔辞は不要。

娘は黒のワンピースを着用し、真珠は一連。髪は低い位置で束ねる。

彩音は、その通りにした。

葬儀の間、母は死んでいるのに、まだ彩音の袖口を引いていた。

焼香の順番を間違えるな。

頭を下げすぎるな。

泣きすぎるとみっともない。

泣かないと薄情に見える。

親戚たちは彩音を見て、「静江さんにそっくりね」と言った。

彩音は、そのたびに口の中が苦くなった。

火葬炉の扉が閉じたとき、彩音は初めて、母が本当に燃えるのだと理解した。

母の骨が白い壺に納められる。

あれほど巨大だった母が、両腕で抱えられるほど小さくなった。

それでも、彩音は自由になった気がしなかった。

むしろ母は、肉体を失ったことで、彩音の頭の中に完全に移り住んだようだった。

帰宅して冷蔵庫を開けると、静江の声がした。

夜に甘いものは駄目。

ソファに座ると、背筋を伸ばしなさいと言われた。

翻訳の仕事を始めると、もっと慎重に言葉を選びなさいと囁かれた。

母がいない部屋で、彩音は母に監視されていた。

三日後、弁護士が訪れた。

静江の遺言を預かっているという。

遺産の大半は彩音に残されていた。マンション二部屋。預貯金。有価証券。都内の土地。彩音が把握していた以上に、静江は多くの資産を持っていた。

「それから、こちらを」

弁護士は小さな封筒を差し出した。

中にはカードキーが入っていた。

「お母様の寝室にある金庫のものです。葬儀が済むまで渡さないように、と指示されていました」

「金庫?」

彩音は知らなかった。

静江の寝室には、壁と同じ色の収納棚がある。棚の奥板を押すと、音もなく横へ滑った。

壁の中に、黒い金庫が埋め込まれていた。

カードキーを差し込む。

暗証番号を求める表示が出た。

彩音は迷った後、自分の誕生日を入力した。

エラー。

母の誕生日。

エラー。

父の命日。

エラー。

三回失敗すると、操作が停止した。

ディスプレイに文字が浮かんだ。

――あなたは、自分で考えなさい。

彩音は息を止めた。

母の文章だった。

母は、死んでからも娘を試していた。

彩音は床に座り込んだ。

暗証番号は、母が彩音に決して尋ねなかった数字だ。

あるいは、母が認めなかった数字。

彩音は長い間考えた。

やがて、大学を卒業した日に一人で訪れた海辺の町のことを思い出した。

母には、図書館に行くと嘘をついた。

二十二歳の彩音が、生まれて初めて母に隠して行った場所だった。

その日の写真は一枚しかない。

海沿いの展望台で、知らない老夫婦に撮ってもらった。写真の裏には日付が書かれている。

彩音は、その年月日を入力した。

金庫が開いた。

中には、七冊の黒いファイルが入っていた。

一冊目を開いた瞬間、彩音の指が震えた。

ファイルには彩音の行動が記録されていた。

六月三日。

七時十二分起床。

七時四十分朝食。

八時五十三分外出。

九時二分、コンビニエンスストア。

九時十六分、地下鉄乗車。

九時四十八分、出版社到着。

十二時二分、男性編集者と昼食。

会話四十三分。

男性編集者、独身。三十七歳。交際の兆候なし。

彩音の一日が、分単位で記録されていた。

ページをめくる。

一年前。

五年前。

十年前。

中学生の頃の記録まであった。

友人の名前。

教師の言葉。

彩音が授業中に何度窓を見たか。

誰から手紙を受け取ったか。

何を捨てたか。

何を隠したか。

二冊目には、彩音に接近した人々の調査記録があった。

大学時代に告白してきた同級生。

翻訳会社の上司。

海外文学の編集者。

近所のカフェの店員。

住所、家族構成、借金、過去の交際相手。

彩音が知らないことまで、母は知っていた。

三冊目には、写真があった。

望遠レンズで撮られた彩音の写真。

街を歩く彩音。

電車を待つ彩音。

窓際で本を読む彩音。

眠っている彩音。

最後の写真を見た瞬間、彩音はファイルを投げた。

自分の寝室だった。

母は合鍵で部屋に入り、眠る娘を撮影していた。

金庫の奥には、紺色のケースが並んでいた。

開けると、パスポートが入っていた。

日本。

フランス。

カナダ。

シンガポール。

いずれも彩音の顔写真が使われていたが、名前も生年月日も違っていた。

印刷も透かしも精巧だった。

本物にしか見えない。

なぜ母が偽造パスポートを持っていたのか。

なぜ娘の顔で作られているのか。

彩音は立ち上がり、部屋の隅まで後ずさった。

電話が鳴った。

思わず悲鳴を上げそうになった。

非通知だった。

「もしもし」

沈黙。

微かな呼吸音が聞こえた。

「誰ですか」

返事はない。

数秒後、低い女の声がした。

「静江は、あなたに何を残したの?」

電話は切れた。



警視庁捜査一課の佐渡征一郎は、定年まで残り四か月だった。

六十歳を前にした身体は、朝の寒さに弱くなった。階段を上れば膝が痛み、徹夜をすれば二日間頭が霞んだ。

それでも、静江の名を見た瞬間、三十年前の記憶は鮮明によみがえった。

当時、佐渡は所轄の刑事だった。

都内で三人の男が相次いで死亡した。

一人は商社勤務。

一人は医師。

一人は外国人の貿易仲介人。

死因はいずれも心臓発作とされたが、三人には共通点があった。

死の直前、静江と接触していた。

静江は当時、国際関係を扱う翻訳会社に勤務していた。複数の言語に通じ、海外企業や政府関係者の通訳も務めていた。

彼女には完璧なアリバイがあった。

一人目が死んだ夜、静江は京都にいた。

二人目の死亡時刻には、シンガポールへ向かう機内にいた。

三人目が倒れた日には、病院で娘を出産していた。

証拠は何一つなかった。

捜査は終わった。

だが佐渡は、三人目の男の部屋に残されていた写真を忘れられなかった。

写真には、若い静江が写っていた。

隣には外国人の男が立ち、静江は赤ん坊を抱いていた。

写真の裏には英語で、こう書かれていた。

――私たちの娘へ。

その娘が、彩音なのではないか。

佐渡はそう疑っていた。

静江の夫とされる男は、彩音が三歳のとき交通事故で死亡していた。だが戸籍上の父親と、写真の男は別人だった。

外国人の男は、三十年前の連続不審死で最後に亡くなった人物だった。

佐渡は彩音の部屋を訪ねた。

ドアを開けた彩音は、黒いニットを着ていた。

葬儀の日とは違う服装だった。

だが、よく見るとタグがついたままだった。

「新しい服ですか」

佐渡が尋ねると、彩音は自分の袖を見た。

「昨日、買いました」

「ご自分で?」

彩音の目がわずかに動いた。

「変な質問ですね」

「失礼しました」

室内は整いすぎていた。

本棚の本は背の高さ順に並び、テーブルの上には何もない。時計の音だけが大きく聞こえた。

「お母様が亡くなった夜、何をされていましたか」

「仕事です」

「ご自宅で?」

「はい」

「証明できる方は?」

「一人で翻訳をしていました。途中で依頼主にファイルを送りました」

「送信時刻は?」

「午後十時四分です」

「お母様への最後の電話は九時十三分」

「母から掛かってきました」

「内容は?」

「翌朝の予定です」

「ほかには?」

彩音は目を伏せた。

「ブラウスのボタンが取れかかっているから直せ、と言われました」

佐渡は黙った。

「お母様は、電話でボタンのことを?」

「昼間、私の部屋に入ったのだと思います」

「合鍵をお持ちだった」

「はい」

「嫌ではありませんでしたか」

彩音は答えなかった。

嫌だと思うことすら、許されていなかったのだろう。

佐渡は話題を変えた。

「金庫が見つかったそうですね」

彩音の表情が止まった。

「弁護士から聞きました」

「中には何が?」

「母の書類です」

「どのような?」

「資産関係です」

嘘だった。

佐渡には分かった。

嘘をつく人間は目を逸らす、というのは素人の思い込みだ。訓練された人間は相手の目を見る。

彩音は、まっすぐ佐渡を見ていた。

母に嘘を見破られないために身につけた目だった。

「偽造パスポートは入っていませんでしたか」

彩音の右手の指先が動いた。

ほんの一度。

それだけだった。

「何の話でしょう」

「三十年前、お母様には海外の非合法組織と接点があった可能性があります」

「母は、ただの通訳です」

「そうでしょうか」

「刑事さんは、母を知っているんですか」

「少しだけ」

「母が生きているとき、なぜ来なかったんです」

佐渡は答えに詰まった。

彩音の声は静かだった。だが、そこには初めて、彩音自身の怒りがあった。

「母が生きている間に来てくれたら、何か違ったんでしょうか」

佐渡は言葉を探した。

刑事は、人を救う仕事ではない。

事件が起きた後に、誰が何をしたのかを調べる仕事だ。

だが、目の前の女は三十二年間、見えない檻の中にいた。

そして警察は、それを事件として扱わなかった。

「分かりません」

佐渡は正直に答えた。

彩音は薄く笑った。

その笑い方が、静江に似ていた。



彩音は佐渡が帰った後、母のファイルをすべて床に並べた。

七冊目の最後のページに、短い文章があった。

――疑われたとき、人間は二種類に分かれる。

無実を信じてもらおうとする者。

疑う側を支配する者。

彩音は文章を三度読んだ。

母は、自分が疑われることを知っていた。

警察が来ることも。

金庫を開けることも。

偽造パスポートを見つけることも。

すべて予測していた。

では、毒殺も予測していたのか。

彩音は母の死の前後を調べ始めた。

翻訳家としての仕事は止めた。

母のカード利用履歴、通話記録、宅配便の記録、病院の領収書、パソコンのデータ。

母は几帳面だった。何も捨てない。

だが、几帳面な人間の記録には、残すことを選んだものだけが存在する。

一見完璧な記録は、それ自体が編集された物語だ。

彩音は母の物語を読み解いた。

死の一か月前、静江は海外の医薬品を扱う業者に接触していた。

死の十日前、寝室の金庫を点検していた。

死の三日前、弁護士にカードキーを預けた。

死の前日、管理会社へ電話し、玄関の補助錠が外側から操作できないことを確認していた。

静江は、自分が死ぬ準備をしていた。

だが、それだけでは自殺の証明にはならない。

毒物は紅茶から検出された。

静江は毎朝、彩音が来る前に紅茶を淹れる。

毒を入れたのが静江自身なら、単なる自殺である。

しかし、なぜ殺人に見せかけたのか。

誰に疑いを向けたかったのか。

答えは明らかだった。

彩音に。

母は、死んでまで娘を追い詰めようとしている。

彩音は急に笑い出した。

笑いながら涙が出た。

何がおかしいのか、自分でも分からなかった。

母らしい。

あまりにも母らしかった。

娘が自分なしで生きられないと決めつけながら、最後には娘を殺人容疑者にする。

愛しているから支配する。

心配だから監視する。

あなたのためだから傷つける。

すべて、同じ構造だった。

その夜、彩音は眠らなかった。

午前三時、母のパソコンを開いた。

強固な暗号が掛けられていた。

だがパスワードは、彩音が子どもの頃に飼いたがった犬の名前だった。

母は犬を飼うことを許さなかった。

毛が落ちるから。

旅行に行けなくなるから。

別れがつらいから。

彩音は画面に名前を打ち込んだ。

ロックが解除された。

フォルダの中には、監視カメラの映像、通話記録、病院の診断書、そして彩音への手紙があった。

手紙にはロックが掛けられ、指定された日時まで開けない設定になっていた。

開封日は、静江の死から三十日後。

あと十二日。

彩音は待てなかった。

母が決めた日を守ることは、もうしたくなかった。

だが、開こうとして手を止めた。

母は待てと言っている。

ならば、待たないことが自由なのか。

それとも、母の挑発に乗らず待つことが自由なのか。

どちらを選んでも、判断の中心に母がいる。

彩音はパソコンを閉じた。

自由とは、母と反対のことをすることではない。

母を基準にしないことだ。

その意味を、彩音はまだ理解できなかった。



捜査は彩音を中心に進んだ。

毒物を入手した直接的な証拠はなかった。

だが動機は十分に見えた。

長年の支配からの解放。

多額の遺産。

母と最後に話した人物。

第一発見者。

しかも、彩音のパソコンからは、海外の匿名通信網に接続した痕跡が見つかった。

捜査員は、その先に毒物販売業者とのやり取りがあると考えた。

さらにマンションの防犯カメラには、死亡推定時刻の前後、彩音が部屋から出入りした形跡がなかった。

一見、それはアリバイだった。

だが佐渡には、完璧すぎると感じられた。

「外出していない証拠を、本人が用意したように見える」

若い刑事が言った。

「監視カメラを加工した可能性があります」

「どうやって」

「彩音は翻訳家ですが、コンピューターにも詳しい。外部の人間に依頼した可能性もあります」

佐渡は映像を何度も見た。

タイムコードは正常。

不自然なつなぎ目もない。

だが、廊下の照明のちらつきが、同じ間隔で二度繰り返されていた。

映像の一部が複製されている。

技術班の解析で、ようやく加工が判明した。

彩音は部屋を出ていた可能性がある。

さらに匿名の情報提供があった。

彩音が事件の二か月前、海外口座から暗号資産を購入したという。

その一部が、違法薬物を扱うサイトへ送られていた。

証拠が一つずつ積み上がっていった。

だが佐渡は、違和感を拭えなかった。

証拠が見つかりすぎる。

彩音は用心深い。

母の監視を何十年も潜り抜けて小さな秘密を守ってきた女が、これほど分かりやすい痕跡を残すだろうか。

佐渡は彩音を再び訪ねた。

「防犯カメラの映像が加工されていました」

彩音は驚かなかった。

「そうですか」

「ご存じでしたか」

「いいえ」

「あなたの部屋の前の映像です」

「私が加工したと思っているんですね」

「違いますか」

「違うと言えば、信じますか」

佐渡は答えなかった。

彩音は紅茶を淹れた。

佐渡の前にカップを置く。

一瞬、佐渡の手が止まった。

彩音はそれを見逃さなかった。

「怖いですか」

「何がです」

「紅茶です」

佐渡はカップを持ち、一口飲んだ。

彩音も飲んだ。

「母は、人が怖がるものをよく知っていました」

「お母様が映像を加工したと?」

「そうかもしれません」

「死ぬ前に?」

「母なら、できるでしょう」

「なぜそんなことを」

「私を疑わせるためです」

「自分の娘を?」

「自分の娘だからです」

佐渡は彩音を見た。

「お母様を憎んでいましたか」

長い沈黙があった。

「憎んでいたら、もっと楽でした」

彩音は言った。

「母が優しいときもあったから、苦しかったんです」

熱を出せば、一晩中そばにいた。

学校で仲間外れにされたときは、担任に抗議し、相手の親にも頭を下げさせた。

彩音が翻訳家になりたいと言ったとき、静江は高価な辞書を買い、海外の書籍を取り寄せ、最高の教師をつけた。

何かを欲しがれば、母は最上級のものを与えた。

ただし、それを欲しがる理由まで母が決めた。

愛情はあった。

だから逃げられなかった。

「毒親という言葉は、便利です」

彩音はカップを見つめた。

「悪い親だったと名前をつければ、全部説明できる気がする。でも、母は怪物ではありませんでした。怪物なら捨てられた。母は私を愛していた。愛し方が、人を壊す形だっただけです」

佐渡は手帳を閉じた。

「あなたは、映像の加工方法を知っていますか」

「知りません」

嘘だ、と佐渡は思った。

今度の嘘には確信があった。

彩音は、捜査が自分へ向かうことを知り、対抗し始めていた。

匿名情報の一部は静江が残したものだろう。

だが、別の一部は彩音自身が流している。

真実と虚偽を混ぜ、警察がどこまで把握しているか探っている。

母が使った方法と同じだった。

情報を隠すのではない。

多すぎる情報を与え、相手に誤った物語を選ばせる。

「一つ、聞いてもいいですか」

彩音が言った。

「三十年前の事件で、母は誰を殺したんですか」

佐渡は顔を上げた。

「なぜそう思うんです」

「母のファイルに、あなたの写真がありました」

佐渡は言葉を失った。

「三十年前、若い刑事だったあなたが、母を尾行している写真です。母はあなたの住所も、ご家族の名前も調べていた」

背中に冷たい汗が流れた。

「母は、あなたを殺さなかった。なぜだと思いますか」

「分かりません」

「私にも分かりません。でも、母は理由のないことをしない人でした」

彩音は立ち上がり、窓辺へ行った。

「刑事さん。母が最後に支配したかったのは、私だけではないのかもしれません」

「どういう意味です」

「あなたも、三十年間、母のことを考えていた」

佐渡は返事ができなかった。

静江は容疑者だった。

だが同時に、佐渡の人生の一部だった。

解けなかった事件。

届かなかった真実。

静江は死んでも、佐渡を捜査へ戻した。

娘と刑事を向かい合わせた。

二人とも、静江の用意した舞台に立っている。



手紙の開封日が来た。

午前零時。

パソコンの画面に、鍵の開く表示が現れた。

彩音は一人で椅子に座っていた。

クリックする。

静江の文章が現れた。

――彩音へ。

この手紙を読んでいるなら、私は死んでいる。

あなたは今、私を憎んでいるでしょう。

それでいい。

憎しみは、依存を切るために必要な力だから。

彩音は唇を噛んだ。

死んだ母に、感情まで指定されたくなかった。

――私は癌です。

発見されたときには、長くても半年と言われました。

あなたには知らせませんでした。

知らせれば、あなたは私の世話をし、自分の生活をさらに捨てるからです。

それを望んでいたのは私です。

あなたを必要とさせ、私もあなたを必要とした。

私はあなたを守るという名目で、あなたから選択する力を奪いました。

ここまで読んで、彩音は画面から目を逸らした。

母が謝るはずはない。

謝罪を期待した自分が、まだ母の言葉を欲しがっている。

――謝るつもりはありません。

彩音は笑った。

涙が落ちた。

やはり母だった。

――私は、あなたを弱く育てました。

なぜなら、弱い娘は母を捨てないからです。

しかし、私が死ねば、あなたは一人になる。

そのままでは、あなたは誰かに支配されるでしょう。

恋人。

上司。

友人。

あるいは、私に似た別の人間に。

だから最後に、あなたを疑われる立場へ置きます。

警察に追われ、誰も信じられず、自分で考えるしかない場所へ。

そこで生き残れたなら、あなたは私がいなくても生きていける。

彩音は立ち上がり、パソコンを閉じようとした。

だが手が動かなかった。

――毒物は私自身が用意しました。

密室も、映像も、送金記録も、すべて私が準備しました。

あなたが疑われるために。

あなたが何をするか、私は知っています。

情報を整理し、相手の考えを読み、隠された意図を探す。

あなたは私の娘です。

私と同じ血が流れている。

彩音は画面を睨んだ。

同じ血。

母が最後に掛けた呪いだった。

――金庫のパスポートは、逃げるためのものです。

必要なら使いなさい。

ただし、それを使えば、あなたは一生私の計画の中で生きることになる。

使わずに残るなら、警察と戦いなさい。

私が残した証拠の中から、自分で無実を証明しなさい。

どちらを選んでも構いません。

選ぶのは、あなたです。

画面の最後に、短い文章があった。

――私はあなたを愛しています。

彩音は椅子を蹴った。

パソコンが床に落ちた。

「嘘つき」

声が震えた。

「嘘つき。嘘つき、嘘つき」

愛しているなら、なぜ普通に抱きしめなかった。

愛しているなら、なぜ友人を奪った。

なぜ恋を壊した。

なぜ日記を読んだ。

なぜ眠る娘を撮った。

なぜ自分の死まで使って試した。

彩音は泣きながら、母の寝室へ行った。

金庫から偽造パスポートを取り出した。

全部で十二冊。

十二人の彩音がいた。

アヤネ・ミズキ。

アン・クロフォード。

リン・シア。

クレール・モロー。

どの女にも、逃げる場所が用意されていた。

だが、本当の彩音の行き先だけがなかった。

彩音はパスポートをバッグに入れ、部屋を出た。



翌朝、佐渡の携帯電話に彩音から連絡が入った。

「母の死の証拠を渡します」

指定されたのは、東京湾沿いの古い倉庫だった。

佐渡が到着すると、彩音は海を背にして立っていた。

足元には金属製の箱がある。

「手紙を読みました」

彩音は言った。

佐渡は録音機の電源を入れた。

「お母様は何と?」

「自殺です。私を犯人に見せるための」

「証拠はありますか」

彩音は小型の記録媒体を差し出した。

静江の診断書。

毒物の入手記録。

自分でカップに毒を入れる様子を撮影した映像。

防犯カメラの加工を指示する文書。

匿名情報を送信するための予約記録。

すべて静江のパソコンに残されていた。

「なぜ今まで渡さなかったんです」

「母の罠かもしれないと思ったからです」

「罠?」

「証拠を見つけてすぐ警察へ持っていけば、加工したのは私だと疑われる。母は、そうなることまで考えていました」

「では、なぜ今は渡せると?」

「母の映像には、証明できる誤りがありました」

彩音は静江が毒を入れる場面の静止画を示した。

窓の外に見える建設中のビル。

クレーンの位置。

「映像の撮影日時は、母が死んだ日の前日になっています。でも、このクレーンはその三日前に撤去されています。つまり映像の日時表示は偽装されている」

「それでは証拠にならない」

「はい。母は、わざと不完全な証拠を残したんです」

彩音は次の画像を示した。

窓ガラスに、小さくテレビ画面が反射していた。

ニュース番組の字幕に、その日の出来事が映っている。

映像そのものの撮影日は特定できる。

さらに、紅茶の缶の内側から、静江の指紋だけが検出されるよう、未開封の状態で保管されていた同じ製造番号の缶が見つかった。

静江は、自殺の証明を隠しながら、完全には消していなかった。

彩音が気づくことを期待していた。

「最後まで試験だったんですね」

佐渡が言った。

「そうです」

「合格したと思いますか」

彩音は海を見た。

「母なら、そう言うかもしれません」

「あなたは?」

「私は、受験した覚えがありません」

風が吹いた。

彩音の髪が乱れた。

反射的に直そうとした手を、彩音は途中で止めた。

母は、髪が乱れることを嫌った。

彩音はそのままにした。

「三十年前のことも、記録媒体に入っています」

佐渡の顔が変わった。

「三人の男を殺した証拠ですか」

「いいえ」

彩音は首を振った。

「母は、二人を殺しています」

「二人?」

「最初の二人は、母が関与していた情報取引の仲介者です。母を切り捨てようとした。それで母は二人を殺した」

「三人目は」

「私の実の父親です」

佐渡は息を呑んだ。

やはり、写真の外国人だった。

「母は、父を殺していません」

「では、なぜ亡くなった」

「父は母と逃げる約束をしていました。でも、所属していた組織に見つかった。父は毒を飲まされた後、母の部屋まで逃げてきた」

静江は男を助けられなかった。

男は、赤ん坊の彩音を一度だけ抱き、息を引き取った。

静江はその死を利用した。

自分に疑いが向くことを承知で、組織へ、自分は何も恐れていないと示した。

その後、静江は組織の情報を各国の機関へ流し、関係者を散り散りにした。

「母は、あなたを殺さなかった理由も書いていました」

佐渡は黙って待った。

「あなたが、父の死を殺人として扱おうとした唯一の人だったからです」

「それだけですか」

「もう一つ」

彩音は佐渡を見た。

「あなたには、生まれたばかりの娘がいた」

佐渡は目を伏せた。

三十年前、長女が生まれたばかりだった。

静江は、それを知っていた。

「母にも、殺さない理由があったんです」

善人ではなかった。

二人を殺している。

娘を三十二年間支配した。

自分の死を使い、娘を犯罪容疑者にした。

それでも、完全な怪物ではなかった。

人間は、誰かを愛しながら傷つける。

守りながら奪う。

抱きしめながら、息をできなくさせる。

静江は、そういう人間だった。

「その箱は?」

佐渡が尋ねた。

「母が用意したパスポートです」

「証拠品として提出してください」

「できません」

彩音は箱を開けた。

中には、黒く焼け焦げた紙片が入っていた。

顔写真の一部。

見知らぬ名前。

異国の紋章。

すべて燃えていた。

「燃やしたんですか」

「はい」

「証拠隠滅になる可能性があります」

「分かっています」

佐渡は彩音を見つめた。

「なぜ燃やした」

「逃げないためです」

彩音は言った。

「母が用意した人生を、一つも選ばないために」



静江の死は、自殺として処理された。

捜査上、彩音が防犯映像の一部へ手を加えた疑いは残った。母が用意した虚偽情報をさらに撹乱し、警察の出方を探ったことも、佐渡は知っていた。

だが立件に足る証拠はなかった。

彩音が母を殺していないことは明らかだった。

三十年前の事件については、静江の記録から二件の殺人への関与が裏づけられた。しかし被疑者死亡のまま、書類上の決着を迎えることになった。

佐渡は定年の日、静江の古いファイルを閉じた。

三十年追った事件の終わりは、勝利ではなかった。

ただ、一人の娘が母の物語から外へ出た。

それだけで十分なのかもしれない、と佐渡は思った。



母の死から半年後、彩音は十九階の部屋を売った。

自分が住んでいた十七階の部屋も手放した。

家具のほとんどは処分した。

母が選んだ服も、母が買った食器も、母が並べた本棚も。

捨てるたびに、身体の一部が削られるように痛んだ。

嫌いなものを手放すことが、これほど苦しいとは思わなかった。

母の選んだものは、彩音の人生そのものだった。

全部捨てれば空になる。

残せば支配される。

彩音は、白いブラウスを一枚だけ残した。

母が最後の朝に着るよう指定していた服だった。

許すためではない。

忘れないためでもない。

それがただの布であることを、自分に教えるためだった。

彩音は海の近くの小さな町へ移った。

二十二歳のとき、一人で訪れた町だった。

駅から歩いて十五分。

古い二階建ての家を借りた。

窓から海は見えなかったが、夜になると波の音が聞こえた。

翻訳の仕事を再開した。

以前より小さな案件を選び、締切も自分で決めた。

収入は減った。

それでも、誰にも予定を報告しなくてよかった。

ある午後、彩音は町の商店街を歩いていた。

衣料品店の前で、赤いワンピースが目に入った。

母の声がした。

赤は下品。

彩音は立ち止まった。

ワンピースを手に取り、鏡の前に立つ。

似合っているかどうかは分からなかった。

母なら、顔色が悪く見えると言うだろう。

店員は、「華やかで素敵ですよ」と言った。

彩音は、その言葉も信用しなかった。

店員は売りたいだけかもしれない。

母なら、そう言う。

彩音は十分ほど迷った。

買う理由を探した。

買わない理由も探した。

正解を探した。

やがて、自分がまた、誰かに許可されるのを待っていることに気づいた。

「これをください」

声が震えた。

たった一着の服を買うだけなのに、心臓が激しく鳴った。

帰宅して着てみる。

鏡の中に、見慣れない女がいた。

赤い服を着た、三十二歳の女。

静江の娘。

外国人の男の娘。

殺人者の血を引く娘。

支配された娘。

母と同じ方法で警察を欺こうとした娘。

それでも、静江ではない女。

彩音は鏡の前で、ゆっくり息を吸った。

母の幻影は、背後に立っていた。

姿は見えない。

だが、何を言うかは分かる。

肩が落ちている。

髪が乱れている。

そんな色は似合わない。

あなたは間違っている。

彩音は玄関を開けた。

赤いワンピースのまま、外へ出た。

行き先は決めていなかった。

予定もない。

誰とも約束をしていない。

海の方角へ歩き出す。

途中、小さな公園があった。

犬を連れた女性がベンチに座っていた。

白と茶色の小さな犬だった。

犬は彩音を見ると、尻尾を振った。

「触ってもいいですか」

彩音は尋ねた。

「どうぞ」

しゃがむと、犬はためらいなく近づき、彩音の手を舐めた。

温かかった。

生き物の体温だった。

子どもの頃、犬を飼いたいと言ったことを思い出した。

母は許さなかった。

別れがつらいから。

その言葉だけは、母自身の恐怖だったのかもしれない。

愛したものを失うことが怖くて、母は愛するものを閉じ込めた。

失わないように。

逃げないように。

変わらないように。

けれど、閉じ込められた愛情は、やがて毒になる。

少しずつ身体に入り、本人にも気づかれないまま、自由を止める。

「かわいいですね」

彩音は犬の頭を撫でた。

それは誰にも教えられていない言葉だった。

誰にも許可を得ていない感情だった。

犬と別れ、公園を出る。

海へ向かう坂道に、夕日が差していた。

赤いスカートの裾が風に揺れた。

彩音は背後に母の気配を感じた。

振り返れば、母が立っている気がした。

完璧な姿勢で。

不満そうな顔で。

それでも、娘を見失うことを恐れている目で。

彩音は振り返らなかった。

母を否定するためではない。

母に勝つためでもない。

ただ、前に道があったから歩いた。

波の音が近づいてくる。

行き先は、まだ決まっていない。

けれど、そのことが初めて、怖くなかった。



本作『毒親娘(どくおやこ)』を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

この物語で描きたかったのは、単なる「悪意ある親からの脱却」ではありません。愛という名の下に行われる支配がいかに強固で、そして受け継がれてしまうものかという「呪縛の継承」と、そこからの静かな決別です。

主人公・彩音が直面したのは、母・静江が死をもって仕掛けた最後の「試験」でした。母と同じ知性を使い、母と同じように情報を操って無実を証明しようとする過程で、彩音は自分の中に流れる「母と同じ血」を突きつけられます。

「自由とは、母と反対のことをすることではなく、母を基準にしないことである」

この気づきに至るまでの葛藤こそが、本作の核心です。ラストシーンで彩音が選んだ赤いワンピースは、母への反抗の象徴ではなく、彼女が初めて「自分の基準」で選んだ、ささやかで巨大な一歩として描きました。

誰かの期待や支配の中に生きるのではなく、正解のない道を歩き出すことの心細さと、その先にある微かな光を感じ取っていただければ幸いです。

著者より


#毒親娘
#短編小説
#ミステリー小説
#サスペンス小説
#心理サスペンス
#毒親
#母娘関係
#親子の確執
#家族の闇
#密室殺人
#毒殺事件
#どんでん返し
#心理戦
#女性主人公
#note小説

いいなと思ったら応援しよう!