毒親娘――どくおやこ――
母が死んだ朝、彩音は白いブラウスを着ていた。
襟の先まで糊の利いた、身体の線が出ないブラウスだった。袖口のボタンを留め、鏡の前で一度だけ肩を動かす。布地に皺がないことを確かめてから、薄い灰色のスカートを穿いた。
母の静江が好んだ服装だった。
三十二歳になっても、彩音のクローゼットには母が選んだ服しか入っていない。
赤は下品。
黒は陰気。
柄物は落ち着きがない。
身体に合いすぎる服は、男に誤解を与える。
大きすぎる服は、仕事のできない人間に見える。
母はいつも、彩音が何かを選ぶ前に、その選択肢を一つずつ消していった。最後に残ったものを指して、「ほら、あなたが一番似合うと思ったものよ」と言った。
彩音はそれを、自分で選んだのだと思うようにしていた。
午前七時三十分。
母の部屋へ行く時間だった。
静江は同じマンションの十九階に住み、彩音は十七階に住んでいた。娘が三十歳になった年、静江は同じ建物の二階下の部屋を買い与えた。
「あなたにも独立した生活が必要だから」
そう言いながら、静江は合鍵を持ち、毎朝七時三十分に彩音を呼んだ。
朝食を共にし、その日の予定を確認する。
仕事の締切。
誰と会うか。
何時に帰宅するか。
昨日誰から電話があったか。
身体の調子はどうか。
翻訳の依頼主は信用できる人物か。
恋人はいないか。
恋人になりそうな男はいないか。
質問は穏やかだった。だが、答えを曖昧にすると、静江のまぶたがわずかに下がる。
その表情を見ると、彩音の胃は子どもの頃と同じように縮んだ。
午前七時二十九分。
彩音は十九階でエレベーターを降りた。
廊下の突き当たりに、母の部屋がある。
チャイムを鳴らす。
返事はなかった。
もう一度鳴らした。
静江は遅刻を嫌った。彩音が一分遅れれば三十分説教をしたが、自分は一度も時間に遅れたことがなかった。
彩音はバッグから鍵を出した。
鍵は回らなかった。
内側から補助錠が掛かっていた。
「お母さん?」
ドアを叩く。
静江の名を口にするだけで、自分の声が幼くなることに彩音は気づいた。
「お母さん、いるんでしょう」
返事はない。
耳を当てても、物音は聞こえなかった。
彩音は管理人を呼んだ。
警備員が来た。管理会社へ連絡が入り、ほどなく救急隊と警察が到着した。特殊な器具でドアが開けられたとき、内側の補助錠は確かに掛かっていた。
窓も閉ざされていた。
ベランダのガラス戸には内鍵が掛かり、非常階段側の小窓にも施錠があった。
静江はダイニングの椅子に座っていた。
正確には、座ったまま死んでいた。
テーブルには白い磁器のカップがあり、わずかに紅茶が残っていた。新聞はきれいに折り畳まれ、老眼鏡は右手のそばに置かれていた。
静江の顔には苦悶がなかった。
いつものように、少しだけ不満そうな顔をしていた。
救急隊員が脈を確かめた。
その瞬間、彩音は自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。
悲しみではなかった。
恐怖でもなかった。
胸の奥に広がったのは、息を吸うことを許されたような感覚だった。
もう、許可を取らなくてもいい。
その考えが浮かんだ直後、彩音は吐いた。
母の死体の前で、自由になったと思った自分が恐ろしかった。
胃の中には、何も入っていなかった。
「昨夜、最後にお母様とお話しになったのは?」
若い制服警官が尋ねた。
「九時十三分です」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「毎晩、九時十分から十五分の間に電話が来ます」
「昨日のご様子は?」
「いつもと同じでした」
「体調が悪いとは?」
「言っていません」
「持病は?」
「高血圧があります。心臓については、詳しく聞いていません」
警官は手帳に書き込んだ。
母の死は、当初、心筋梗塞と考えられた。
六十四歳。高血圧。密室。争った形跡なし。玄関の防犯カメラにも、前夜から朝まで不審な人物は映っていない。
母は一人で紅茶を飲み、突然苦しくなり、助けを呼ぶ間もなく息絶えた。
それで終わるはずだった。
だが、解剖を担当した医師が、血液中の異常な成分に気づいた。
自然死のような症状を引き起こす植物由来の成分だった。量は微量で、通常の検査では見逃されてもおかしくなかった。
静江のカップからも、同じ成分が検出された。
紅茶に混ぜられていた。
母は、殺されていた。
◇
葬儀は、静江の指示どおりに行われた。
生前、静江は自分の葬儀についてもファイルを作っていた。
祭壇の花は白のみ。
香典は辞退。
会葬者への返礼品は特定の店の菓子。
遺影には五十八歳のときに撮った写真。
弔辞は不要。
娘は黒のワンピースを着用し、真珠は一連。髪は低い位置で束ねる。
彩音は、その通りにした。
葬儀の間、母は死んでいるのに、まだ彩音の袖口を引いていた。
焼香の順番を間違えるな。
頭を下げすぎるな。
泣きすぎるとみっともない。
泣かないと薄情に見える。
親戚たちは彩音を見て、「静江さんにそっくりね」と言った。
彩音は、そのたびに口の中が苦くなった。
火葬炉の扉が閉じたとき、彩音は初めて、母が本当に燃えるのだと理解した。
母の骨が白い壺に納められる。
あれほど巨大だった母が、両腕で抱えられるほど小さくなった。
それでも、彩音は自由になった気がしなかった。
むしろ母は、肉体を失ったことで、彩音の頭の中に完全に移り住んだようだった。
帰宅して冷蔵庫を開けると、静江の声がした。
夜に甘いものは駄目。
ソファに座ると、背筋を伸ばしなさいと言われた。
翻訳の仕事を始めると、もっと慎重に言葉を選びなさいと囁かれた。
母がいない部屋で、彩音は母に監視されていた。
三日後、弁護士が訪れた。
静江の遺言を預かっているという。
遺産の大半は彩音に残されていた。マンション二部屋。預貯金。有価証券。都内の土地。彩音が把握していた以上に、静江は多くの資産を持っていた。
「それから、こちらを」
弁護士は小さな封筒を差し出した。
中にはカードキーが入っていた。
「お母様の寝室にある金庫のものです。葬儀が済むまで渡さないように、と指示されていました」
「金庫?」
彩音は知らなかった。
静江の寝室には、壁と同じ色の収納棚がある。棚の奥板を押すと、音もなく横へ滑った。
壁の中に、黒い金庫が埋め込まれていた。
カードキーを差し込む。
暗証番号を求める表示が出た。
彩音は迷った後、自分の誕生日を入力した。
エラー。
母の誕生日。
エラー。
父の命日。
エラー。
三回失敗すると、操作が停止した。
ディスプレイに文字が浮かんだ。
――あなたは、自分で考えなさい。
彩音は息を止めた。
母の文章だった。
母は、死んでからも娘を試していた。
彩音は床に座り込んだ。
暗証番号は、母が彩音に決して尋ねなかった数字だ。
あるいは、母が認めなかった数字。
彩音は長い間考えた。
やがて、大学を卒業した日に一人で訪れた海辺の町のことを思い出した。
母には、図書館に行くと嘘をついた。
二十二歳の彩音が、生まれて初めて母に隠して行った場所だった。
その日の写真は一枚しかない。
海沿いの展望台で、知らない老夫婦に撮ってもらった。写真の裏には日付が書かれている。
彩音は、その年月日を入力した。
金庫が開いた。
中には、七冊の黒いファイルが入っていた。
一冊目を開いた瞬間、彩音の指が震えた。
ファイルには彩音の行動が記録されていた。
六月三日。
七時十二分起床。
七時四十分朝食。
八時五十三分外出。
九時二分、コンビニエンスストア。
九時十六分、地下鉄乗車。
九時四十八分、出版社到着。
十二時二分、男性編集者と昼食。
会話四十三分。
男性編集者、独身。三十七歳。交際の兆候なし。
彩音の一日が、分単位で記録されていた。
ページをめくる。
一年前。
五年前。
十年前。
中学生の頃の記録まであった。
友人の名前。
教師の言葉。
彩音が授業中に何度窓を見たか。
誰から手紙を受け取ったか。
何を捨てたか。
何を隠したか。
二冊目には、彩音に接近した人々の調査記録があった。
大学時代に告白してきた同級生。
翻訳会社の上司。
海外文学の編集者。
近所のカフェの店員。
住所、家族構成、借金、過去の交際相手。
彩音が知らないことまで、母は知っていた。
三冊目には、写真があった。
望遠レンズで撮られた彩音の写真。
街を歩く彩音。
電車を待つ彩音。
窓際で本を読む彩音。
眠っている彩音。
最後の写真を見た瞬間、彩音はファイルを投げた。
自分の寝室だった。
母は合鍵で部屋に入り、眠る娘を撮影していた。
金庫の奥には、紺色のケースが並んでいた。
開けると、パスポートが入っていた。
日本。
フランス。
カナダ。
シンガポール。
いずれも彩音の顔写真が使われていたが、名前も生年月日も違っていた。
印刷も透かしも精巧だった。
本物にしか見えない。
なぜ母が偽造パスポートを持っていたのか。
なぜ娘の顔で作られているのか。
彩音は立ち上がり、部屋の隅まで後ずさった。
電話が鳴った。
思わず悲鳴を上げそうになった。
非通知だった。
「もしもし」
沈黙。
微かな呼吸音が聞こえた。
「誰ですか」
返事はない。
数秒後、低い女の声がした。
「静江は、あなたに何を残したの?」
電話は切れた。
◇
警視庁捜査一課の佐渡征一郎は、定年まで残り四か月だった。
六十歳を前にした身体は、朝の寒さに弱くなった。階段を上れば膝が痛み、徹夜をすれば二日間頭が霞んだ。
それでも、静江の名を見た瞬間、三十年前の記憶は鮮明によみがえった。
当時、佐渡は所轄の刑事だった。
都内で三人の男が相次いで死亡した。
一人は商社勤務。
一人は医師。
一人は外国人の貿易仲介人。
死因はいずれも心臓発作とされたが、三人には共通点があった。
死の直前、静江と接触していた。
静江は当時、国際関係を扱う翻訳会社に勤務していた。複数の言語に通じ、海外企業や政府関係者の通訳も務めていた。
彼女には完璧なアリバイがあった。
一人目が死んだ夜、静江は京都にいた。
二人目の死亡時刻には、シンガポールへ向かう機内にいた。
三人目が倒れた日には、病院で娘を出産していた。
証拠は何一つなかった。
捜査は終わった。
だが佐渡は、三人目の男の部屋に残されていた写真を忘れられなかった。
写真には、若い静江が写っていた。
隣には外国人の男が立ち、静江は赤ん坊を抱いていた。
写真の裏には英語で、こう書かれていた。
――私たちの娘へ。
その娘が、彩音なのではないか。
佐渡はそう疑っていた。
静江の夫とされる男は、彩音が三歳のとき交通事故で死亡していた。だが戸籍上の父親と、写真の男は別人だった。
外国人の男は、三十年前の連続不審死で最後に亡くなった人物だった。
佐渡は彩音の部屋を訪ねた。
ドアを開けた彩音は、黒いニットを着ていた。
葬儀の日とは違う服装だった。
だが、よく見るとタグがついたままだった。
「新しい服ですか」
佐渡が尋ねると、彩音は自分の袖を見た。
「昨日、買いました」
「ご自分で?」
彩音の目がわずかに動いた。
「変な質問ですね」
「失礼しました」
室内は整いすぎていた。
本棚の本は背の高さ順に並び、テーブルの上には何もない。時計の音だけが大きく聞こえた。
「お母様が亡くなった夜、何をされていましたか」
「仕事です」
「ご自宅で?」
「はい」
「証明できる方は?」
「一人で翻訳をしていました。途中で依頼主にファイルを送りました」
「送信時刻は?」
「午後十時四分です」
「お母様への最後の電話は九時十三分」
「母から掛かってきました」
「内容は?」
「翌朝の予定です」
「ほかには?」
彩音は目を伏せた。
「ブラウスのボタンが取れかかっているから直せ、と言われました」
佐渡は黙った。
「お母様は、電話でボタンのことを?」
「昼間、私の部屋に入ったのだと思います」
「合鍵をお持ちだった」
「はい」
「嫌ではありませんでしたか」
彩音は答えなかった。
嫌だと思うことすら、許されていなかったのだろう。
佐渡は話題を変えた。
「金庫が見つかったそうですね」
彩音の表情が止まった。
「弁護士から聞きました」
「中には何が?」
「母の書類です」
「どのような?」
「資産関係です」
嘘だった。
佐渡には分かった。
嘘をつく人間は目を逸らす、というのは素人の思い込みだ。訓練された人間は相手の目を見る。
彩音は、まっすぐ佐渡を見ていた。
母に嘘を見破られないために身につけた目だった。
「偽造パスポートは入っていませんでしたか」
彩音の右手の指先が動いた。
ほんの一度。
それだけだった。
「何の話でしょう」
「三十年前、お母様には海外の非合法組織と接点があった可能性があります」
「母は、ただの通訳です」
「そうでしょうか」
「刑事さんは、母を知っているんですか」
「少しだけ」
「母が生きているとき、なぜ来なかったんです」
佐渡は答えに詰まった。
彩音の声は静かだった。だが、そこには初めて、彩音自身の怒りがあった。
「母が生きている間に来てくれたら、何か違ったんでしょうか」
佐渡は言葉を探した。
刑事は、人を救う仕事ではない。
事件が起きた後に、誰が何をしたのかを調べる仕事だ。
だが、目の前の女は三十二年間、見えない檻の中にいた。
そして警察は、それを事件として扱わなかった。
「分かりません」
佐渡は正直に答えた。
彩音は薄く笑った。
その笑い方が、静江に似ていた。
◇
彩音は佐渡が帰った後、母のファイルをすべて床に並べた。
七冊目の最後のページに、短い文章があった。
――疑われたとき、人間は二種類に分かれる。
無実を信じてもらおうとする者。
疑う側を支配する者。
彩音は文章を三度読んだ。
母は、自分が疑われることを知っていた。
警察が来ることも。
金庫を開けることも。
偽造パスポートを見つけることも。
すべて予測していた。
では、毒殺も予測していたのか。
彩音は母の死の前後を調べ始めた。
翻訳家としての仕事は止めた。
母のカード利用履歴、通話記録、宅配便の記録、病院の領収書、パソコンのデータ。
母は几帳面だった。何も捨てない。
だが、几帳面な人間の記録には、残すことを選んだものだけが存在する。
一見完璧な記録は、それ自体が編集された物語だ。
彩音は母の物語を読み解いた。
死の一か月前、静江は海外の医薬品を扱う業者に接触していた。
死の十日前、寝室の金庫を点検していた。
死の三日前、弁護士にカードキーを預けた。
死の前日、管理会社へ電話し、玄関の補助錠が外側から操作できないことを確認していた。
静江は、自分が死ぬ準備をしていた。
だが、それだけでは自殺の証明にはならない。
毒物は紅茶から検出された。
静江は毎朝、彩音が来る前に紅茶を淹れる。
毒を入れたのが静江自身なら、単なる自殺である。
しかし、なぜ殺人に見せかけたのか。
誰に疑いを向けたかったのか。
答えは明らかだった。
彩音に。
母は、死んでまで娘を追い詰めようとしている。
彩音は急に笑い出した。
笑いながら涙が出た。
何がおかしいのか、自分でも分からなかった。
母らしい。
あまりにも母らしかった。
娘が自分なしで生きられないと決めつけながら、最後には娘を殺人容疑者にする。
愛しているから支配する。
心配だから監視する。
あなたのためだから傷つける。
すべて、同じ構造だった。
その夜、彩音は眠らなかった。
午前三時、母のパソコンを開いた。
強固な暗号が掛けられていた。
だがパスワードは、彩音が子どもの頃に飼いたがった犬の名前だった。
母は犬を飼うことを許さなかった。
毛が落ちるから。
旅行に行けなくなるから。
別れがつらいから。
彩音は画面に名前を打ち込んだ。
ロックが解除された。
フォルダの中には、監視カメラの映像、通話記録、病院の診断書、そして彩音への手紙があった。
手紙にはロックが掛けられ、指定された日時まで開けない設定になっていた。
開封日は、静江の死から三十日後。
あと十二日。
彩音は待てなかった。
母が決めた日を守ることは、もうしたくなかった。
だが、開こうとして手を止めた。
母は待てと言っている。
ならば、待たないことが自由なのか。
それとも、母の挑発に乗らず待つことが自由なのか。
どちらを選んでも、判断の中心に母がいる。
彩音はパソコンを閉じた。
自由とは、母と反対のことをすることではない。
母を基準にしないことだ。
その意味を、彩音はまだ理解できなかった。
◇
捜査は彩音を中心に進んだ。
毒物を入手した直接的な証拠はなかった。
だが動機は十分に見えた。
長年の支配からの解放。
多額の遺産。
母と最後に話した人物。
第一発見者。
しかも、彩音のパソコンからは、海外の匿名通信網に接続した痕跡が見つかった。
捜査員は、その先に毒物販売業者とのやり取りがあると考えた。
さらにマンションの防犯カメラには、死亡推定時刻の前後、彩音が部屋から出入りした形跡がなかった。
一見、それはアリバイだった。
だが佐渡には、完璧すぎると感じられた。
「外出していない証拠を、本人が用意したように見える」
若い刑事が言った。
「監視カメラを加工した可能性があります」
「どうやって」
「彩音は翻訳家ですが、コンピューターにも詳しい。外部の人間に依頼した可能性もあります」
佐渡は映像を何度も見た。
タイムコードは正常。
不自然なつなぎ目もない。
だが、廊下の照明のちらつきが、同じ間隔で二度繰り返されていた。
映像の一部が複製されている。
技術班の解析で、ようやく加工が判明した。
彩音は部屋を出ていた可能性がある。
さらに匿名の情報提供があった。
彩音が事件の二か月前、海外口座から暗号資産を購入したという。
その一部が、違法薬物を扱うサイトへ送られていた。
証拠が一つずつ積み上がっていった。
だが佐渡は、違和感を拭えなかった。
証拠が見つかりすぎる。
彩音は用心深い。
母の監視を何十年も潜り抜けて小さな秘密を守ってきた女が、これほど分かりやすい痕跡を残すだろうか。
佐渡は彩音を再び訪ねた。
「防犯カメラの映像が加工されていました」
彩音は驚かなかった。
「そうですか」
「ご存じでしたか」
「いいえ」
「あなたの部屋の前の映像です」
「私が加工したと思っているんですね」
「違いますか」
「違うと言えば、信じますか」
佐渡は答えなかった。
彩音は紅茶を淹れた。
佐渡の前にカップを置く。
一瞬、佐渡の手が止まった。
彩音はそれを見逃さなかった。
「怖いですか」
「何がです」
「紅茶です」
佐渡はカップを持ち、一口飲んだ。
彩音も飲んだ。
「母は、人が怖がるものをよく知っていました」
「お母様が映像を加工したと?」
「そうかもしれません」
「死ぬ前に?」
「母なら、できるでしょう」
「なぜそんなことを」
「私を疑わせるためです」
「自分の娘を?」
「自分の娘だからです」
佐渡は彩音を見た。
「お母様を憎んでいましたか」
長い沈黙があった。
「憎んでいたら、もっと楽でした」
彩音は言った。
「母が優しいときもあったから、苦しかったんです」
熱を出せば、一晩中そばにいた。
学校で仲間外れにされたときは、担任に抗議し、相手の親にも頭を下げさせた。
彩音が翻訳家になりたいと言ったとき、静江は高価な辞書を買い、海外の書籍を取り寄せ、最高の教師をつけた。
何かを欲しがれば、母は最上級のものを与えた。
ただし、それを欲しがる理由まで母が決めた。
愛情はあった。
だから逃げられなかった。
「毒親という言葉は、便利です」
彩音はカップを見つめた。
「悪い親だったと名前をつければ、全部説明できる気がする。でも、母は怪物ではありませんでした。怪物なら捨てられた。母は私を愛していた。愛し方が、人を壊す形だっただけです」
佐渡は手帳を閉じた。
「あなたは、映像の加工方法を知っていますか」
「知りません」
嘘だ、と佐渡は思った。
今度の嘘には確信があった。
彩音は、捜査が自分へ向かうことを知り、対抗し始めていた。
匿名情報の一部は静江が残したものだろう。
だが、別の一部は彩音自身が流している。
真実と虚偽を混ぜ、警察がどこまで把握しているか探っている。
母が使った方法と同じだった。
情報を隠すのではない。
多すぎる情報を与え、相手に誤った物語を選ばせる。
「一つ、聞いてもいいですか」
彩音が言った。
「三十年前の事件で、母は誰を殺したんですか」
佐渡は顔を上げた。
「なぜそう思うんです」
「母のファイルに、あなたの写真がありました」
佐渡は言葉を失った。
「三十年前、若い刑事だったあなたが、母を尾行している写真です。母はあなたの住所も、ご家族の名前も調べていた」
背中に冷たい汗が流れた。
「母は、あなたを殺さなかった。なぜだと思いますか」
「分かりません」
「私にも分かりません。でも、母は理由のないことをしない人でした」
彩音は立ち上がり、窓辺へ行った。
「刑事さん。母が最後に支配したかったのは、私だけではないのかもしれません」
「どういう意味です」
「あなたも、三十年間、母のことを考えていた」
佐渡は返事ができなかった。
静江は容疑者だった。
だが同時に、佐渡の人生の一部だった。
解けなかった事件。
届かなかった真実。
静江は死んでも、佐渡を捜査へ戻した。
娘と刑事を向かい合わせた。
二人とも、静江の用意した舞台に立っている。
◇
手紙の開封日が来た。
午前零時。
パソコンの画面に、鍵の開く表示が現れた。
彩音は一人で椅子に座っていた。
クリックする。
静江の文章が現れた。
――彩音へ。
この手紙を読んでいるなら、私は死んでいる。
あなたは今、私を憎んでいるでしょう。
それでいい。
憎しみは、依存を切るために必要な力だから。
彩音は唇を噛んだ。
死んだ母に、感情まで指定されたくなかった。
――私は癌です。
発見されたときには、長くても半年と言われました。
あなたには知らせませんでした。
知らせれば、あなたは私の世話をし、自分の生活をさらに捨てるからです。
それを望んでいたのは私です。
あなたを必要とさせ、私もあなたを必要とした。
私はあなたを守るという名目で、あなたから選択する力を奪いました。
ここまで読んで、彩音は画面から目を逸らした。
母が謝るはずはない。
謝罪を期待した自分が、まだ母の言葉を欲しがっている。
――謝るつもりはありません。
彩音は笑った。
涙が落ちた。
やはり母だった。
――私は、あなたを弱く育てました。
なぜなら、弱い娘は母を捨てないからです。
しかし、私が死ねば、あなたは一人になる。
そのままでは、あなたは誰かに支配されるでしょう。
恋人。
上司。
友人。
あるいは、私に似た別の人間に。
だから最後に、あなたを疑われる立場へ置きます。
警察に追われ、誰も信じられず、自分で考えるしかない場所へ。
そこで生き残れたなら、あなたは私がいなくても生きていける。
彩音は立ち上がり、パソコンを閉じようとした。
だが手が動かなかった。
――毒物は私自身が用意しました。
密室も、映像も、送金記録も、すべて私が準備しました。
あなたが疑われるために。
あなたが何をするか、私は知っています。
情報を整理し、相手の考えを読み、隠された意図を探す。
あなたは私の娘です。
私と同じ血が流れている。
彩音は画面を睨んだ。
同じ血。
母が最後に掛けた呪いだった。
――金庫のパスポートは、逃げるためのものです。
必要なら使いなさい。
ただし、それを使えば、あなたは一生私の計画の中で生きることになる。
使わずに残るなら、警察と戦いなさい。
私が残した証拠の中から、自分で無実を証明しなさい。
どちらを選んでも構いません。
選ぶのは、あなたです。
画面の最後に、短い文章があった。
――私はあなたを愛しています。
彩音は椅子を蹴った。
パソコンが床に落ちた。
「嘘つき」
声が震えた。
「嘘つき。嘘つき、嘘つき」
愛しているなら、なぜ普通に抱きしめなかった。
愛しているなら、なぜ友人を奪った。
なぜ恋を壊した。
なぜ日記を読んだ。
なぜ眠る娘を撮った。
なぜ自分の死まで使って試した。
彩音は泣きながら、母の寝室へ行った。
金庫から偽造パスポートを取り出した。
全部で十二冊。
十二人の彩音がいた。
アヤネ・ミズキ。
アン・クロフォード。
リン・シア。
クレール・モロー。
どの女にも、逃げる場所が用意されていた。
だが、本当の彩音の行き先だけがなかった。
彩音はパスポートをバッグに入れ、部屋を出た。
◇
翌朝、佐渡の携帯電話に彩音から連絡が入った。
「母の死の証拠を渡します」
指定されたのは、東京湾沿いの古い倉庫だった。
佐渡が到着すると、彩音は海を背にして立っていた。
足元には金属製の箱がある。
「手紙を読みました」
彩音は言った。
佐渡は録音機の電源を入れた。
「お母様は何と?」
「自殺です。私を犯人に見せるための」
「証拠はありますか」
彩音は小型の記録媒体を差し出した。
静江の診断書。
毒物の入手記録。
自分でカップに毒を入れる様子を撮影した映像。
防犯カメラの加工を指示する文書。
匿名情報を送信するための予約記録。
すべて静江のパソコンに残されていた。
「なぜ今まで渡さなかったんです」
「母の罠かもしれないと思ったからです」
「罠?」
「証拠を見つけてすぐ警察へ持っていけば、加工したのは私だと疑われる。母は、そうなることまで考えていました」
「では、なぜ今は渡せると?」
「母の映像には、証明できる誤りがありました」
彩音は静江が毒を入れる場面の静止画を示した。
窓の外に見える建設中のビル。
クレーンの位置。
「映像の撮影日時は、母が死んだ日の前日になっています。でも、このクレーンはその三日前に撤去されています。つまり映像の日時表示は偽装されている」
「それでは証拠にならない」
「はい。母は、わざと不完全な証拠を残したんです」
彩音は次の画像を示した。
窓ガラスに、小さくテレビ画面が反射していた。
ニュース番組の字幕に、その日の出来事が映っている。
映像そのものの撮影日は特定できる。
さらに、紅茶の缶の内側から、静江の指紋だけが検出されるよう、未開封の状態で保管されていた同じ製造番号の缶が見つかった。
静江は、自殺の証明を隠しながら、完全には消していなかった。
彩音が気づくことを期待していた。
「最後まで試験だったんですね」
佐渡が言った。
「そうです」
「合格したと思いますか」
彩音は海を見た。
「母なら、そう言うかもしれません」
「あなたは?」
「私は、受験した覚えがありません」
風が吹いた。
彩音の髪が乱れた。
反射的に直そうとした手を、彩音は途中で止めた。
母は、髪が乱れることを嫌った。
彩音はそのままにした。
「三十年前のことも、記録媒体に入っています」
佐渡の顔が変わった。
「三人の男を殺した証拠ですか」
「いいえ」
彩音は首を振った。
「母は、二人を殺しています」
「二人?」
「最初の二人は、母が関与していた情報取引の仲介者です。母を切り捨てようとした。それで母は二人を殺した」
「三人目は」
「私の実の父親です」
佐渡は息を呑んだ。
やはり、写真の外国人だった。
「母は、父を殺していません」
「では、なぜ亡くなった」
「父は母と逃げる約束をしていました。でも、所属していた組織に見つかった。父は毒を飲まされた後、母の部屋まで逃げてきた」
静江は男を助けられなかった。
男は、赤ん坊の彩音を一度だけ抱き、息を引き取った。
静江はその死を利用した。
自分に疑いが向くことを承知で、組織へ、自分は何も恐れていないと示した。
その後、静江は組織の情報を各国の機関へ流し、関係者を散り散りにした。
「母は、あなたを殺さなかった理由も書いていました」
佐渡は黙って待った。
「あなたが、父の死を殺人として扱おうとした唯一の人だったからです」
「それだけですか」
「もう一つ」
彩音は佐渡を見た。
「あなたには、生まれたばかりの娘がいた」
佐渡は目を伏せた。
三十年前、長女が生まれたばかりだった。
静江は、それを知っていた。
「母にも、殺さない理由があったんです」
善人ではなかった。
二人を殺している。
娘を三十二年間支配した。
自分の死を使い、娘を犯罪容疑者にした。
それでも、完全な怪物ではなかった。
人間は、誰かを愛しながら傷つける。
守りながら奪う。
抱きしめながら、息をできなくさせる。
静江は、そういう人間だった。
「その箱は?」
佐渡が尋ねた。
「母が用意したパスポートです」
「証拠品として提出してください」
「できません」
彩音は箱を開けた。
中には、黒く焼け焦げた紙片が入っていた。
顔写真の一部。
見知らぬ名前。
異国の紋章。
すべて燃えていた。
「燃やしたんですか」
「はい」
「証拠隠滅になる可能性があります」
「分かっています」
佐渡は彩音を見つめた。
「なぜ燃やした」
「逃げないためです」
彩音は言った。
「母が用意した人生を、一つも選ばないために」
◇
静江の死は、自殺として処理された。
捜査上、彩音が防犯映像の一部へ手を加えた疑いは残った。母が用意した虚偽情報をさらに撹乱し、警察の出方を探ったことも、佐渡は知っていた。
だが立件に足る証拠はなかった。
彩音が母を殺していないことは明らかだった。
三十年前の事件については、静江の記録から二件の殺人への関与が裏づけられた。しかし被疑者死亡のまま、書類上の決着を迎えることになった。
佐渡は定年の日、静江の古いファイルを閉じた。
三十年追った事件の終わりは、勝利ではなかった。
ただ、一人の娘が母の物語から外へ出た。
それだけで十分なのかもしれない、と佐渡は思った。
◇
母の死から半年後、彩音は十九階の部屋を売った。
自分が住んでいた十七階の部屋も手放した。
家具のほとんどは処分した。
母が選んだ服も、母が買った食器も、母が並べた本棚も。
捨てるたびに、身体の一部が削られるように痛んだ。
嫌いなものを手放すことが、これほど苦しいとは思わなかった。
母の選んだものは、彩音の人生そのものだった。
全部捨てれば空になる。
残せば支配される。
彩音は、白いブラウスを一枚だけ残した。
母が最後の朝に着るよう指定していた服だった。
許すためではない。
忘れないためでもない。
それがただの布であることを、自分に教えるためだった。
彩音は海の近くの小さな町へ移った。
二十二歳のとき、一人で訪れた町だった。
駅から歩いて十五分。
古い二階建ての家を借りた。
窓から海は見えなかったが、夜になると波の音が聞こえた。
翻訳の仕事を再開した。
以前より小さな案件を選び、締切も自分で決めた。
収入は減った。
それでも、誰にも予定を報告しなくてよかった。
ある午後、彩音は町の商店街を歩いていた。
衣料品店の前で、赤いワンピースが目に入った。
母の声がした。
赤は下品。
彩音は立ち止まった。
ワンピースを手に取り、鏡の前に立つ。
似合っているかどうかは分からなかった。
母なら、顔色が悪く見えると言うだろう。
店員は、「華やかで素敵ですよ」と言った。
彩音は、その言葉も信用しなかった。
店員は売りたいだけかもしれない。
母なら、そう言う。
彩音は十分ほど迷った。
買う理由を探した。
買わない理由も探した。
正解を探した。
やがて、自分がまた、誰かに許可されるのを待っていることに気づいた。
「これをください」
声が震えた。
たった一着の服を買うだけなのに、心臓が激しく鳴った。
帰宅して着てみる。
鏡の中に、見慣れない女がいた。
赤い服を着た、三十二歳の女。
静江の娘。
外国人の男の娘。
殺人者の血を引く娘。
支配された娘。
母と同じ方法で警察を欺こうとした娘。
それでも、静江ではない女。
彩音は鏡の前で、ゆっくり息を吸った。
母の幻影は、背後に立っていた。
姿は見えない。
だが、何を言うかは分かる。
肩が落ちている。
髪が乱れている。
そんな色は似合わない。
あなたは間違っている。
彩音は玄関を開けた。
赤いワンピースのまま、外へ出た。
行き先は決めていなかった。
予定もない。
誰とも約束をしていない。
海の方角へ歩き出す。
途中、小さな公園があった。
犬を連れた女性がベンチに座っていた。
白と茶色の小さな犬だった。
犬は彩音を見ると、尻尾を振った。
「触ってもいいですか」
彩音は尋ねた。
「どうぞ」
しゃがむと、犬はためらいなく近づき、彩音の手を舐めた。
温かかった。
生き物の体温だった。
子どもの頃、犬を飼いたいと言ったことを思い出した。
母は許さなかった。
別れがつらいから。
その言葉だけは、母自身の恐怖だったのかもしれない。
愛したものを失うことが怖くて、母は愛するものを閉じ込めた。
失わないように。
逃げないように。
変わらないように。
けれど、閉じ込められた愛情は、やがて毒になる。
少しずつ身体に入り、本人にも気づかれないまま、自由を止める。
「かわいいですね」
彩音は犬の頭を撫でた。
それは誰にも教えられていない言葉だった。
誰にも許可を得ていない感情だった。
犬と別れ、公園を出る。
海へ向かう坂道に、夕日が差していた。
赤いスカートの裾が風に揺れた。
彩音は背後に母の気配を感じた。
振り返れば、母が立っている気がした。
完璧な姿勢で。
不満そうな顔で。
それでも、娘を見失うことを恐れている目で。
彩音は振り返らなかった。
母を否定するためではない。
母に勝つためでもない。
ただ、前に道があったから歩いた。
波の音が近づいてくる。
行き先は、まだ決まっていない。
けれど、そのことが初めて、怖くなかった。
本作『毒親娘(どくおやこ)』を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この物語で描きたかったのは、単なる「悪意ある親からの脱却」ではありません。愛という名の下に行われる支配がいかに強固で、そして受け継がれてしまうものかという「呪縛の継承」と、そこからの静かな決別です。
主人公・彩音が直面したのは、母・静江が死をもって仕掛けた最後の「試験」でした。母と同じ知性を使い、母と同じように情報を操って無実を証明しようとする過程で、彩音は自分の中に流れる「母と同じ血」を突きつけられます。
「自由とは、母と反対のことをすることではなく、母を基準にしないことである」
この気づきに至るまでの葛藤こそが、本作の核心です。ラストシーンで彩音が選んだ赤いワンピースは、母への反抗の象徴ではなく、彼女が初めて「自分の基準」で選んだ、ささやかで巨大な一歩として描きました。
誰かの期待や支配の中に生きるのではなく、正解のない道を歩き出すことの心細さと、その先にある微かな光を感じ取っていただければ幸いです。
著者より
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