裏切りの代償ー霧の館、最後の招待状
第一章 招待状
その封筒が届いたのは、雨の降り続く火曜日の午後だった。
御堂玲司は、事務所と呼ぶには狭すぎる部屋の窓辺で、灰皿代わりの空き缶に煙草の灰を落としながら、郵便受けから拾ってきた数枚の郵便物をぞんざいにめくっていた。
電気料金の督促状。
家賃の督促状。
そして、厚手の、見覚えのない封筒。
差出人の名は、九条貴之。
その三文字を見た瞬間、玲司の指先が止まった。
九条という名前を最後に聞いたのは、もう五年も前のことだ。当時の捜査資料の片隅に、参考人としてその名が一度だけ記載されていた。
事件の中心人物ではなかった。少なくとも、警察が作成した記録の中では。
だが、玲司の記憶の底で、その名前はずっとくすぶり続けていた。答えの出なかった問いの、小さな断片として。
封を切る手が、我ながら滑稽なほど震えていた。
便箋には、達筆とは言い難いが、ひどく几帳面な文字で、こう記されていた。
――御堂玲司様。
――五年前、貴殿が失ったものについて、私は真実を知っています。
――来る土曜日、私の館「霧影館」にお越しいただければ、すべてをお話しいたしましょう。
――これは、貴殿にとって最後の機会になるかもしれません。
――九条貴之。
同封されていた地図には、県境の山中、通常の地図には名称すら記されていない場所が赤いインクで囲まれていた。
玲司はしばらく便箋を見つめたまま動けなかった。
窓の外では、雨がアスファルトを叩く音が、単調に続いている。
五年前。
あの夜、玲司が十八分だけ現場に遅れたことで、二つの命が失われた。
同僚であり、親友でもあった刑事、相馬慎吾。
そして玲司が、翌年の春には結婚するはずだった女性、安西美緒。
二人は焼け落ちた倉庫の中で発見された。
相馬の遺体は、美緒を覆うように倒れていた。最後の瞬間まで、彼女を炎から守ろうとしていたのだろうと、検視官は言った。
そんな説明を聞いたところで、何が救われるわけでもなかった。
玲司は現場へ向かう途中、匿名の緊急通報を受けて別の場所へ回されていた。廃校に少女が監禁されているという通報だった。
それは嘘だった。
誰かが玲司を、意図的に現場から引き離した。
通報がなければ、玲司は十八分早く倉庫へ到着していた。
十八分。
煙草を一本吸い終えるより少し長いだけの時間。
そのわずかな時間が、玲司の人生を二つに引き裂いた。
捜査から外された玲司は、上司を殴って停職処分を受け、半年後に警察を辞めた。
それからは私立探偵を名乗り、家出人を捜したり、浮気の証拠写真を撮ったりして暮らしている。
五年間、玲司は自分自身に問い続けてきた。
あの匿名通報は誰が、何のためにかけたのか。
相馬と美緒は、倉庫で何を見つけたのか。
そして、なぜ死ななければならなかったのか。
答えが手に入るかもしれない。
その可能性が、久しく忘れていた何かを、玲司の胸の奥で疼かせた。
罠かもしれないという思いは、もちろんあった。
それでも、これ以上失うものが自分に残っているとも思えなかった。
玲司は灰皿代わりの缶に煙草を押しつけ、火を消した。
土曜日まで、あと三日。
窓の外、雨に煙る街の向こうで、同じ頃、別の招待状を受け取った者たちがいたことを、玲司はまだ知らなかった。
九条貴之という一人の男が、それぞれに異なる理由で、七人の人間を山奥の館へ呼び寄せていたことも。
そして、その招待状が、当主自身の死への招待でもあったことも――このときの玲司には、知る由もなかった。
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第二章 霧影館
土曜日の午後、玲司は借り物の古い四輪駆動車で県境を越えた。
山道に入ってから、雨は急に激しくなった。
ワイパーを最速で動かしても、前方は白い幕に覆われているようだった。舗装道路は途中で途切れ、車体が泥に足を取られるたびに、腹の底へ鈍い振動が伝わってきた。
地図に記された最後の分岐点には、朽ちかけた木製の標識があった。
〈霧影館 三・二キロ〉
文字の上を黒い苔が這っていた。
山の中に三十分ほど分け入ると、不意に木々が途切れた。
霧の向こうに、館が姿を現した。
明治末期に建てられたという洋館は、岩肌にへばりつくように建っていた。灰色の石壁。尖った屋根。細長い窓。背後には深い杉林が迫り、正面には崖が落ち込んでいる。
館に通じる道は、古い石橋一本だけだった。
玲司が車を降りると、玄関前にはすでに五台の車が並んでいた。
扉を開けたのは、七十歳前後に見える小柄な女だった。
黒いワンピースに白い襟。銀色の髪を後ろで固く結んでいる。
「御堂玲司様ですね」
「そうです」
「お待ちしておりました。私は、この館を預かっております八重と申します」
玲司は濡れたコートを脱ぎながら、女の顔を観察した。
表情の変化が少ない。だが無感情というわけではない。
長く泣きすぎた者が、泣き方を忘れたような顔だった。
「九条さんは?」
「旦那様は書斎におられます。皆様がおそろいになるまで、お休みになっております」
玲司は玄関ホールへ足を踏み入れた。
天井には大きなシャンデリアが下がっていたが、灯りは半分しか点いていなかった。壁には九条家の歴代当主らしい肖像画が並んでいる。
その一番奥に、比較的新しい写真があった。
九条貴之と、その家族。
妻らしい女性。十代後半の息子。そして幼い娘。
息子の顔だけが、写真から切り取られていた。
「御堂さんですな」
背後から声をかけられた。
振り返ると、太った男が葉巻を手に立っていた。
倉橋宗一。元東京地検特捜部検事。
五年前の倉庫火災について、再捜査の要請を却下した男だった。
「お久しぶりです」
「会ったことがありましたかな」
「こちらは覚えています」
倉橋は不快そうに鼻を鳴らした。
広間には、すでに四人の招待客がいた。
革張りの椅子に座っているのは、新堂圭介。五年前、県警本部の刑事部長だった。玲司を捜査から外す決定を下した人物でもある。
窓際に立つ痩せた男は、神崎修吾。社会部記者として数々のスクープをものにしたが、五年前、九条製薬の臨床試験疑惑を報じる直前に記事を取り下げた。
暖炉の前にいる端正な男は、榊原遼。九条製薬の元法務担当役員。銀縁眼鏡の奥にある目は、笑っていても冷たかった。
そして部屋の隅には、五十代半ばの女性が一人、両手を膝の上に置いて座っていた。
「雨宮志保さんです」
八重が紹介した。
「九条記念病院で、看護師長をしておられました」
雨宮は小さく頭を下げた。
その顔には化粧気がなく、頬が不自然なほど痩せていた。
「あと一人、九条澪様がいらっしゃいます」
「九条の娘か」
新堂が言った。
「はい。ただいま二階に」
玲司は、もう一度壁の家族写真を見た。
写真の中の幼い娘は、十歳ほどに見える。現在は三十歳前後だろう。
「妙な顔ぶれだな」
神崎が乾いた笑いを浮かべた。
「元刑事、元検事、元警察幹部、看護師、新聞記者、それに会社の弁護士。まるで裁判でも始めるつもりらしい」
「あなたの記事が掲載されていれば、裁判は五年前に始まっていたかもしれない」
玲司が言うと、神崎の笑いが消えた。
榊原が穏やかな声で割って入った。
「こんな山奥まで呼びつけられた理由は、皆さん同じなのでしょうか」
「どういう意味だ」
新堂が聞いた。
榊原は封筒から便箋を取り出した。
「私の手紙には、こうありました。五年前の過ちを公にする用意がある、と」
倉橋が顔を上げた。
神崎は舌打ちをした。
玲司は自分の手紙を見せなかった。
同じ九条からの招待状でありながら、書かれている内容は、それぞれ異なっているらしかった。
そのとき、二階から足音が聞こえた。
階段を下りてきたのは、黒い髪を肩まで伸ばした細身の女性だった。白いブラウスに黒いスカート。顔立ちは整っていたが、ひどく疲れて見えた。
「九条澪です」
彼女は一同を見渡した。
「父の招待に応じてくださり、ありがとうございます」
「当の本人はどうした」
新堂が苛立ったように尋ねた。
「父は七時の夕食に出ると言っていました」
「体調でも悪いのか」
「ずっと悪いんです。五年前から」
澪はそれだけ言うと、父親の写真へ目を向けた。
「でも、今夜は逃げないと思います」
その言葉の意味を尋ねる前に、館のどこかで古い時計が鳴った。
六時を告げる鐘だった。
音は低く、湿った空気を震わせながら、六度響いた。
最後の音が消えた直後、山の奥で雷鳴が轟いた。
館の窓が細かく震えた。
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第三章 主なき晩餐
夕食は七時ちょうどに始められた。
長い食卓には八人分の席が用意されていた。
しかし上座に置かれた九条貴之の椅子は、いつまでたっても空いたままだった。
八重がスープを運び終えた頃、新堂が腕時計を見た。
「客を呼びつけておいて、主人が姿を見せないとはどういうことだ」
「呼んでまいります」
八重が食堂を出ようとした、そのときだった。
天井近くに取り付けられた古いスピーカーから、雑音が流れた。
続いて、男の声が聞こえた。
『皆さん。ようこそ、霧影館へ』
澪が立ち上がった。
「父の声です」
録音された九条の声は、ひどく掠れていた。
『私は長い間、罪を恐れながら生きてきました。罪そのものではなく、罪が明るみに出ることを恐れていたのです』
倉橋がナプキンを置いた。
新堂の顔から血の気が引いていく。
『五年前、九条製薬が開発していた治験薬、アステリオンK17によって、一人の少女が死亡しました』
雨宮の手から、スプーンが落ちた。
陶器の皿に当たり、乾いた音を立てた。
『少女の名は、雨宮梨奈。十七歳でした』
誰も雨宮を見ることができなかった。
彼女は床に落ちたスプーンを拾おうともせず、俯いていた。
『死亡例が公表されれば、新薬の承認は取り消され、会社は多額の損失を負うはずでした。私は記録の改竄を命じました。直接命令したのは私です』
「止めろ」
新堂が呟いた。
『しかし、一人の女性が改竄前の記録を持ち出しました。九条製薬の臨床監査室にいた安西美緒さんです』
玲司は無意識に椅子の肘掛けを握っていた。
爪が革へ食い込んだ。
『安西さんは刑事であった相馬慎吾さんに連絡し、証拠を渡そうとしました。二人は第三倉庫で会う約束をしました』
録音の向こうで、九条が息を吸う音がした。
『二人は倉庫から出られないようにされ、火を放たれました』
食卓の空気が凍りついた。
五年間、火災の原因は配電盤の漏電とされていた。
玲司は何度も異議を唱えた。しかし、聞き入れられなかった。
『今夜、私はすべての資料を御堂玲司さんに渡します。そして明朝、警察と報道機関に真実を公表します』
そこで音声は一度途切れた。
わずかな雑音の後、九条の声が低くなった。
『ただし、私が朝を迎えられれば、の話ですが』
録音が終わった。
沈黙の中で、壁時計の秒針だけが動いていた。
新堂が最初に立ち上がった。
「茶番だ」
声は怒っていたが、顔には怯えが浮かんでいた。
「九条を連れてこい。今すぐだ」
澪と八重が食堂を出た。
玲司も後に続いた。
二階の廊下の一番奥に、書斎があった。
八重が扉を叩く。
「旦那様」
返事はない。
もう一度呼んだが、同じだった。
八重がノブを回す。
扉は動かなかった。
「内側から鍵がかかっています」
玲司は扉に耳を当てた。
物音はしない。
「下がってください」
肩をぶつけると、古い扉は鈍い音を立てた。二度目で錠が歪み、三度目で扉が開いた。
書斎には暖炉の火が残っていた。
九条貴之は机の向こう側に座っていた。
胸には銀色のペーパーナイフが突き刺さっている。
白いシャツが、黒ずんだ血に染まっていた。
頭は力なく後ろへ反り、両目は半ば開かれている。
右手の指先には、一枚の古い写真が握られていた。
雨宮が小さな悲鳴を漏らした。
玲司は遺体へ近づき、首筋に触れた。
皮膚は冷たかった。
「いつです」
澪が震える声で尋ねた。
「正確な時間は分からない。だが、今死んだわけじゃない」
机の上には、半分ほど残ったブランデーグラスが置かれていた。
窓は内側から施錠されている。
暖炉の煙突は、人間が通れる太さではない。
壊された扉の鍵は、内側の錠に差し込まれたままだった。
書斎は完全な密室に見えた。
「自殺でしょう」
榊原が言った。
玲司は胸のペーパーナイフを見た。
「自分で胸を刺して、そのまま椅子に座ったと?」
「不可能ではない」
「ブランデーを飲んだ後で?」
「何が言いたいのです」
玲司はグラスへ顔を近づけた。
甘い酒の匂いに混じり、ごくわずかに薬品臭がした。
「九条は殺された」
背後で雷鳴が響いた。
その直後、館中の照明が消えた。
暗闇の中で、誰かが息を呑んだ。
窓の外から、地面が崩れるような轟音が聞こえた。
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第四章 橋のない夜
停電は五分ほどで復旧した。
自家発電機が動き始めたらしく、照明は弱々しく明滅していた。
館の電話は通じなかった。携帯電話も圏外だった。
八重と神崎が玄関の外を確認しに行き、十分後、青ざめた顔で戻ってきた。
「橋が落ちています」
神崎が言った。
「崖側の土砂が崩れて、橋の半分を持っていった。車じゃ渡れない。歩くのも無理だ」
霧影館は、外界から完全に切り離された。
新堂は苛立ちを隠さず、八重を怒鳴りつけた。
「無線はないのか」
「昔はございましたが、故障したままです」
「修理しておけ!」
「ここへお客様がお見えになることは、ほとんどございませんでしたので」
八重は淡々と答えた。
その冷静さが、新堂をさらに苛立たせた。
玲司は一同を広間へ集めた。
「九条を殺した人間が、この中にいる可能性が高い」
倉橋が顔をしかめた。
「元刑事だからといって、勝手に我々を容疑者扱いするな」
「警察が来るまで、現場を保存する必要がある。全員、一人では行動しないでください」
「命令する権限があるのか」
「ありません。従うかどうかは自由です」
玲司は一人ずつ顔を見た。
「ただし、犯人が次に誰を殺すつもりなのか、俺には分からない」
誰も反論しなかった。
九条の死亡推定時刻を絞るため、玲司は全員の行動を確認した。
八重によれば、九条は午後四時頃に書斎へ入り、それ以降は姿を見せていない。
午後五時、八重が紅茶を運んだが、九条は扉越しに「いらない」と答えた。
午後六時、館の時計が鳴った頃には、招待客全員が到着していた。
「声を聞いたのは本当に九条本人でしたか」
玲司が尋ねると、八重は少し考えた。
「旦那様の声だと思いました。ただ、扉越しでしたので」
「食堂で流れた音声は?」
「旦那様が、夕食前に録音を再生するよう設定しておられました。時刻が来ると、自動的に流れる仕組みです」
つまり、九条は録音が再生された七時には、すでに死亡していた可能性が高い。
神崎が窓辺で煙草を取り出した。
手が震えていた。
「九条は資料を御堂さんに渡すと言っていた。どこにある」
「書斎には見当たらなかった」
「誰かが持ち去ったんじゃないのか」
「おそらく」
神崎は煙草に火を点けたが、一口吸っただけで灰皿へ押しつけた。
「俺は五年前の記事の原稿を持っている」
全員の視線が神崎へ集まった。
「どういうことだ」
新堂が低い声で言った。
「掲載直前に潰された記事だ。取材テープもある。九条の息子、直人から聞いた話が録音されている」
九条家の写真から切り取られていた青年。
その名を聞いた瞬間、澪の表情が固まった。
「兄を取材したんですか」
「ああ。あんたの兄さんは内部告発をしようとしていた」
「それなのに、記事を出さなかった」
神崎は澪を見られなかった。
「会社から圧力があった。新聞社の広告の二割を九条グループが握っていた。上は掲載を認めなかった」
「あなたは抵抗したんですか」
神崎は答えなかった。
沈黙が答えだった。
「兄は、記事が出ると信じていました」
澪の声は静かだった。
「毎朝、新聞を買っていたんです。自分が話したことが世の中に出ると信じて」
「すまない」
「記事が出なかった一週間後、兄は死にました」
暖炉の薪が崩れた。
火の粉が小さく舞った。
「自殺でした。父は兄の葬儀でも泣きませんでした。泣けば、自分の罪を認めることになると思ったんでしょう」
神崎は両手で顔を覆った。
「取材テープはどこです」
玲司が尋ねた。
「車の中だ」
「橋の手前に置いた車ですか」
「ああ」
「それなら、今夜は取りに行けない」
「いや」
神崎が顔を上げた。
「コピーを一つ、館の中に持ってきた」
新堂が立ち上がった。
「どこだ」
「言うと思うか」
神崎は、乾いた笑みを浮かべた。
「五年前と違って、今度は少し慎重になった」
その夜、客室は二人一組で使うことになった。
しかし、誰も眠れるとは思えなかった。
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第五章 新聞記者の死
午前零時を過ぎた頃、再び照明が消えた。
一度目とは違い、発電機の音まで止まっていた。
館は完全な暗闇に包まれた。
玲司は客室の扉を開け、廊下へ出た。
隣室から新堂が懐中電灯を持って現れた。
「発電機を見てくる」
「一人で行くな」
「私に命令するな」
新堂は階段を下りていった。
玲司が後を追おうとしたとき、廊下の奥で扉の閉まる音がした。
神崎の部屋だった。
「神崎さん」
返事はない。
扉を開けると、部屋は空だった。
ベッドの上に、小さく折り畳まれた紙が置かれている。
〈テープの件で話がある。温室へ〉
万年筆で書かれた短い文章だった。
玲司は懐中電灯を手に、裏廊下を走った。
館の西側には、ガラス張りの温室が併設されていた。
扉を開けると、湿った土と植物の匂いが押し寄せてきた。
懐中電灯の円形の光が、倒れた椅子を照らした。
その先に、神崎がいた。
床に仰向けに倒れ、首にはカーテンを束ねる飾り紐が巻きついていた。
開かれた口には、丸めた新聞紙が押し込まれている。
玲司は脈を確認した。
すでに死んでいた。
新聞紙を慎重に抜き取る。
五年前の日付だった。
社会面には、小さな記事が掲載されている。
〈県内倉庫で火災 二人死亡〉
相馬と美緒の死を、わずか十三行で伝えた記事だった。
「趣味の悪い演出だな」
背後から声がした。
榊原だった。
「なぜここへ?」
「御堂さんの姿が見えたので、追ってきました」
息は乱れていない。
走ってきたようには見えなかった。
玲司は温室の床を照らした。
湿った土の上に、いくつかの靴跡が残っている。
神崎の靴跡。玲司の靴跡。
そしてもう一つ、細身の革靴の跡。
踵の外側が、三日月形に擦り減っていた。
玲司は榊原の足元を見た。
彼は室内用の革製スリッパを履いていた。
「靴は?」
「客室ですが」
「取りに行く時間はありませんでしたか」
榊原は微笑んだ。
「何を疑っているのか知りませんが、私は停電のとき、雨宮さんと一緒に広間にいました」
「ずっとですか」
「少なくとも、停電するまでは」
温室の壁際にある棚が倒れ、植木鉢が割れていた。
玲司が近づくと、土の中から銀色の小さな部品が見えた。
拾い上げる。
眼鏡の蔓を留める、極小のねじだった。
榊原は銀縁眼鏡をかけている。
だが玲司が見た限り、左右の蔓に欠損はなかった。
新堂たちが駆けつけてきた。
雨宮は神崎の遺体を見ると、口元を押さえた。
「この人も、五年前に関わっていたんですね」
「あなたもだろう」
新堂が言った。
雨宮は反論しなかった。
「私は梨奈の母親です」
静かな声だった。
「治験記録を改竄した看護師である前に、死んだ少女の母親です」
新堂の表情がわずかに歪んだ。
「だからといって、君の罪が消えるわけではない」
「分かっています」
雨宮は神崎の遺体を見つめた。
「罪は消えません。謝っても、自首しても、死んでも消えないんです。だから皆さん、五年間も逃げ続けたんでしょう」
遠くで、発電機が再び動き始めた。
温室の照明が点いた。
白い光の下で、神崎の顔は、ひどく幼く見えた。
野心も、保身も、後悔も、死者の顔からは消えていた。
残っているのは、もう言い訳のできない沈黙だけだった。
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第六章 死者の帳簿
夜が明けるまで、全員が広間に集まって過ごすことになった。
玲司は神崎の部屋を調べた。
衣類、手帳、録音機、原稿の束。
取材テープは見つからなかった。
代わりに、机の引き出しの裏側へ貼りつけられた小さな鍵を見つけた。
鍵には〈資料室〉と記されていた。
八重に尋ねると、地下に九条家の古い資料室があるという。
「旦那様しか、お入りになりませんでした」
地下室へ続く階段は、厨房の奥にあった。
鍵を差し込むと、錠はあっさり開いた。
資料室には、九条製薬に関する段ボール箱が天井近くまで積み上げられていた。
書類は古い年度順に整理されている。
アステリオンK17と書かれた箱を見つけたのは、澪だった。
中には治験計画書、投薬記録、医師の所見、電子メールを印刷したものが入っていた。
そして一冊の黒い帳簿。
治験に参加した患者の名前と、会社側が医師や行政関係者へ支払った金額が記されている。
雨宮梨奈の名前には、赤い線が引かれていた。
死亡日の欄には、実際の日付より二週間遅い日が記載されている。
「娘は五月十二日に死にました」
雨宮が言った。
「でも記録の上では、五月二十六日まで生きていたことになっている」
その声には怒りも涙もなかった。
感情を使い果たした者の声だった。
箱の底には、茶色い封筒があった。
中に入っていたのは、美緒の直筆メモだった。
玲司は、その丸みを帯びた文字を見た瞬間、呼吸が止まりそうになった。
美緒は、冷蔵庫に買い物のメモを貼る癖があった。
牛乳。卵。洗剤。玲司の煙草。
最後には必ず、必要でもないのに〈プリン〉と書き足していた。
玲司が甘いものを食べないと知っていながら、自分の分を買わせるためだった。
五年ぶりに目にするその文字が、死者の筆跡とは思えなかった。
メモには、短くこう記されていた。
〈K17の死亡例は一件ではない〉
〈梨奈さん以外に三名。全員、別の病名に書き換えられている〉
〈直人さんが原本を持っている〉
〈榊原氏が処理を指示〉
玲司は最後の一行を見つめた。
「榊原」
全員が振り向いた。
榊原は資料室の入口に立っていた。
「ずいぶん簡単に、人を犯人扱いするのですね」
「美緒は、あなたが記録の処理を指示したと書いている」
「会社の法務担当として、書類の管理を指示することはあります」
「死亡記録の書き換えもか」
「そんな指示はしていない」
「倉庫の火災は?」
「私は関係ありません」
「では、なぜ九条はあなたを招待した」
榊原は眼鏡を外し、布でゆっくり拭いた。
「謝罪するためでしょう。九条社長は晩年、罪悪感に取り憑かれていました。罪悪感というものは厄介です。自分一人では背負いきれなくなると、周囲の人間全員を道連れにしようとする」
「九条と神崎を殺したのも、道連れにされたくなかったからか」
「証拠はありますか」
玲司は温室で拾ったねじを見せた。
榊原は一瞥しただけだった。
「眼鏡のねじなら、誰のものか分からないでしょう」
「あなたの眼鏡は、左右でねじの色が違う」
榊原の目が一瞬だけ止まった。
右側のねじは銀色だった。
左側には、黒い新品のねじが使われている。
だが榊原は、すぐに微笑を取り戻した。
「昨日、車の中で外れたので交換しました」
「交換用のねじを持ち歩いているのか」
「視力が悪いもので」
「便利な答えだな」
そのとき、新堂が黒い帳簿を奪い取った。
「こんなものは信用できん。死人が作った書類だ」
「九条は昨日まで生きていました」
澪が言った。
「死人にしたのは、昨日です」
新堂は帳簿を破ろうとした。
玲司が腕を掴む。
「触るな」
「放せ!」
「五年前の証拠も、そうやって消したのか」
新堂の顔に怒りが浮かんだ。
だが、その怒りの奥には、はっきりと恐怖があった。
「君は何も分かっていない」
「だったら話せ」
「警察には警察の事情がある。大企業が倒れれば、何千人もの雇用が失われる。自治体も金融機関も巻き込まれる。正義だけで世の中が動くと思うな」
「だから二人くらい焼け死んでも仕方がないと?」
新堂は黙った。
玲司は腕を放した。
「あなたたちは、いつも数で説明する。何千人の雇用。何百億円の損失。だが、死んだ人間は一人ずつだ」
雨宮が黒い帳簿を見つめながら言った。
「娘も、一人でした」
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第七章 十八分
資料室のさらに奥から、小型の録音機が見つかった。
古い機種だったが、内部には一本のカセットテープが残されていた。
神崎が持ってきた取材テープだった。
再生ボタンを押すと、若い男の声が流れた。
九条直人。
『父は、会社を守ることが家族を守ることだと言いました。でも、家族を守るために誰かの娘を殺していいなら、家族なんて言葉に意味はない』
雑音の向こうで、神崎が尋ねる。
『倉庫の火災について、何を知っていますか』
長い沈黙。
『榊原さんが、二人を止めると言っていました』
『止めるとは?』
『証拠を渡させないという意味だと思っていました。殺すなんて、思わなかった』
『あなたのお父さんは知っていた?』
『火事の後に知った。でも警察には言わなかった』
『なぜです』
直人はしばらく答えなかった。
やがて、泣いているのか笑っているのか分からない声で言った。
『僕も言わなかったからです』
テープはそこで途切れていた。
澪は両手で口を覆い、声を殺して泣いた。
玲司は再生機を止めた。
榊原の姿は資料室から消えていた。
「どこへ行った」
倉橋が周囲を見回した。
新堂もいない。
玲司は階段を駆け上がった。
廊下の先から物が倒れる音がした。
発電機室へ続く扉が開いている。
中へ入ると、新堂が床に倒れていた。
頭部から血を流している。だが、まだ息があった。
傍らには鉄製の工具が落ちていた。
「誰にやられた」
新堂の唇が動いた。
「さ……」
それ以上、声にならない。
雨宮が傷口を押さえた。
「まだ助かります。ただ、早く病院へ運ばないと」
橋は落ちている。
電話も通じない。
雨宮は八重に清潔な布と救急箱を持ってくるよう頼んだ。
玲司は発電機室を見回した。
床には、新堂が引きずられた跡があった。
壁際に、古い配電盤がある。
その下には、赤茶色の泥が落ちていた。
温室に残されたものと同じ、細身の革靴の跡。
だが榊原の靴を確認すると、底はきれいだった。
「靴を替えたな」
玲司が言うと、榊原は肩をすくめた。
「客室には替えの靴があります」
「最初から準備していた」
「山中の館へ来るのです。替えを用意するのは不自然ですか」
玲司は泥を指で擦った。
赤茶色の中に、白い粉が混じっている。
石灰だった。
霧影館周辺の土は黒い腐葉土だ。
赤い土と石灰がある場所を、玲司は一か所だけ見ていた。
館へ来る途中の分岐点。
通行止めになっていた、旧採石場へ続く脇道だった。
玲司は八重に館の古い図面を持ってこさせた。
明治期の建築図面には、現在の館にはない通路が描かれている。
書斎の裏から、旧採石場へ向かって延びる細い線。
「これは何です」
八重の顔が曇った。
「戦時中に造られた避難通路だと聞いております。入口は、ずっと塞がれているはずです」
「書斎側の入口は?」
「本棚の裏です」
一同は九条の書斎へ戻った。
大型の本棚を調べると、右端にわずかな隙間があった。
力を込めて押すと、本棚全体がゆっくり回転した。
奥から冷たい空気が流れ込んできた。
狭い石造りの階段が、暗闇の底へ続いている。
密室ではなかった。
犯人は扉も窓も使わず、書斎へ出入りできた。
階段の手すりには、まだ新しい泥が付着していた。
榊原が言った。
「この通路なら、誰でも使えますね」
「存在を知っていればな」
「図面は資料室にあった」
「今夜、初めて見つかった図面だ」
玲司は榊原を見た。
「あなたは霧影館に来るのは初めてだと言った。それなのに停電したとき、新堂に発電機室は西棟だと教えた」
榊原の口元から、笑みが消えた。
「八重さんから聞いたのでしょう」
「八重さんは東棟と言った。西棟にあるのは旧発電機室だ。現在の設備は、五年前の改修で東棟へ移された」
「言い間違いです」
「五年前の改修工事を担当した会社は、九条製薬の関連会社だった。法務責任者はあなたです」
榊原は何も言わなかった。
玲司は隠し階段へ懐中電灯を向けた。
「あなたはこの館の構造を知っていた。昨日、ほかの客が到着する前に旧採石場から通路へ入り、九条を殺した。午後五時、八重さんが聞いた返事は、扉の内側に仕掛けた録音だった」
書斎の机の下から、小型の音声再生機が見つかった。
時刻を設定すれば、録音した声を流せる。
「九条に薬を飲ませ、動けなくなったところを刺した。胸の傷は自殺に見せるためだ。資料を奪い、隠し通路から出た。あなたの車が正面玄関へ到着したのは六時過ぎだが、その前から館の中にいた」
倉橋が後退した。
「榊原、本当なのか」
榊原は答えなかった。
「神崎は取材テープを持っていた。新堂は、追及されれば警察の内部記録を出す可能性があった。だから殺そうとした」
「推測にすぎない」
「そうだ。まだ足りない」
玲司は雨宮を見た。
「五年前の匿名通報をしたのは、あなたですね」
雨宮の肩が震えた。
部屋の中から音が消えた。
「なぜ、私だと」
「通報した女性は、廃校の保健室に少女が監禁されていると言った。保健室の薬品棚の位置まで説明した。あの廃校は、九条記念病院が治験参加者の健康診断に使っていた施設だ。内部を知っている人間は限られる」
雨宮は目を閉じた。
「はい」
かすかな声だった。
「あの電話をしたのは、私です」
玲司の視界が狭くなった。
五年間探し続けた声の主が、目の前にいる。
「なぜだ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「榊原さんに命じられました」
雨宮は唇を噛んだ。
「電話をしなければ、息子も治験記録の改竄に関わったことにすると言われました。息子は当時、医学生でした。将来を潰すと。家族全員を犯罪者にすると」
「それで電話をしたのか」
「はい」
「美緒と相馬が死ぬと知っていたのか」
「知りませんでした。御堂さんを、二十分だけ別の場所へ向かわせろと言われただけです」
「十八分だ」
雨宮が顔を上げた。
「何ですか」
「二十分じゃない。十八分だ」
玲司は拳を握った。
「俺が遅れたのは、十八分だ」
どうして、そんな訂正をしたのか、自分でも分からなかった。
二分短ければ何かが変わるわけでもない。
十八分でも、二十分でも、死んだ二人は戻らない。
それでも、その時間だけは誰にも曖昧にされたくなかった。
雨宮の目から、初めて涙がこぼれた。
「すみませんでした」
「謝るな」
玲司は言った。
「今さら謝るな」
雨宮は何度も頷いた。
「そうですね。謝られても、困りますよね」
その言葉が、玲司の怒りを鈍らせた。
泣き崩れて許しを乞われた方が、まだ憎みやすかった。
雨宮は、許されないことを分かっている。
分かったまま、五年間生きてきた。
「息子さんは」
玲司が聞いた。
「昨年、亡くなりました。白血病でした」
「守った将来は?」
「ありませんでした」
雨宮は、濡れた頬を拭わなかった。
「何も残りませんでした」
⸻
第八章 最後の告白
榊原は突然、倉橋の首へ腕を回した。
もう片方の手には、小型の拳銃が握られていた。
「動かないでください」
榊原の声から、これまでの穏やかさが消えていた。
拳銃は倉橋のこめかみに押しつけられている。
「どこで手に入れた」
玲司が尋ねた。
「九条社長の机です。ご立派な方ほど、最後には武器を欲しがるものです」
「倉橋を放せ」
「この男は五年前、再捜査を止めた。私だけが悪人のように言われるのは不公平でしょう」
「俺は被害者だ!」
倉橋が叫んだ。
「九条に圧力をかけられたんだ。政治家も官僚も動いていた。私一人に何ができた!」
「皆さん、同じことを言う」
榊原は笑った。
「自分一人には何もできなかった、と」
澪が一歩前へ出た。
「父を殺したのは、あなたなんですね」
「あなたのお父様は、最後まで会社の人間でした。突然、良心に目覚められては困る人間が大勢いる」
「兄も殺したんですか」
「直人君は自分で死んだ」
「追い詰めたのは誰です」
榊原は答えなかった。
沈黙しただけだった。
それで十分だった。
「美緒を倉庫へ呼び出したのも、あなたか」
玲司が尋ねた。
「彼女は賢い女性でした」
榊原は懐かしむような口調で言った。
「あまりに賢く、あまりに正しかった。正しい人間というのは、自分が死ぬ可能性を低く見積もる傾向がある」
玲司の中で、何かが切れた。
一歩踏み出す。
銃口が玲司へ向いた。
「動くな!」
「火をつけたのか」
「事故でした」
「答えろ」
「倉庫の配電盤に細工をした。脅せば証拠を置いて逃げると思った。相馬刑事が一緒に来るとは聞いていなかった」
「扉を外から施錠した」
「逃げられては困りますから」
玲司は榊原を見た。
五年間、頭の中で何度も犯人の顔を想像した。
凶悪な人間だと思っていた。
狂気に満ちた顔をしていると思っていた。
だが目の前にいるのは、どこにでもいそうな、身なりの整った男だった。
人の命を、契約書の不要な一行のように処理できる人間。
「御堂さん」
榊原が言った。
「あなたも分かっているはずだ。世の中は真実だけでは動かない。真実は金を生まない。雇用も守らない。病院も建てない。人間が求めているのは真実ではなく、自分が安心して眠れる物語です」
「それで五年も眠れたのか」
榊原の目がわずかに細くなった。
「眠れない夜には、薬がある」
拳銃が玲司へ向けられた。
その瞬間、雨宮が榊原へ体当たりした。
銃声が鳴った。
雨宮の体が大きく揺れた。
榊原の腕から倉橋が逃れる。
玲司は床を蹴り、榊原へ飛びかかった。
二人は机へ倒れ込み、書類が宙に舞った。
もう一発、銃声。
弾丸が天井の漆喰を砕いた。
玲司は榊原の手首を机の角へ打ちつけた。拳銃が床へ落ちる。
榊原は玲司の傷んだ脇腹へ肘を入れ、隠し通路へ駆け込んだ。
「雨宮さん!」
澪が叫んだ。
雨宮は床に倒れ、胸元から血を流していた。
八重が傷口を押さえる。
「追ってください」
雨宮が玲司を見た。
「今度は、遅れないで」
玲司は一瞬、動けなかった。
雨宮の言葉に責める響きはなかった。
だからこそ、胸に深く刺さった。
玲司は拳銃を拾い、隠し通路へ入った。
⸻
第九章 霧の中の男
通路は急な下り坂になっていた。
石壁から水が染み出し、足元を細い流れとなって走っている。
玲司は懐中電灯を左手に持ち、榊原を追った。
前方で足音が響いている。
通路の出口は、旧採石場の斜面に開いていた。
外へ出ると、雨はほとんど止んでいた。
しかし霧は濃く、数メートル先も見えない。
崖の下から、濁流の音が聞こえている。
「榊原!」
返事はない。
玲司は足跡を追った。
赤い土の上に、細身の革靴の跡が続いている。
やがて霧の中から、榊原の声がした。
「拳銃を捨てなさい」
玲司は立ち止まった。
榊原は岩陰に隠れていた。
手には、細い登山用のナイフが握られている。
「逃げられないぞ」
「橋は一つではない。下流に林業用の吊り橋がある」
「昨夜の雨で使えない」
「やってみなければ分からない」
榊原が霧の中から現れた。
泥でスーツを汚し、眼鏡を失っている。
初めて、彼が年齢以上に老いて見えた。
「あなたは私を撃てない」
「なぜだ」
「警察官ではないからです。今のあなたが私を撃てば、ただの殺人犯になる」
「元警察官でも同じだ」
「では、どうするのです」
榊原は笑った。
「私を法廷へ立たせますか。五年前の証拠の大半は失われている。九条も神崎も死んだ。新堂は意識不明。雨宮も、もう長くないでしょう」
玲司は拳銃を構えたまま、答えなかった。
「あなたが本当に欲しいのは、真実ではない」
榊原は一歩ずつ近づいてきた。
「復讐だ。十八分遅れた自分を許すために、憎む相手が必要だった。さあ、撃ちなさい。私を殺せば少しは楽になれる」
玲司の指が引き金に触れた。
美緒の顔が浮かんだ。
朝、髪を結びながらコーヒーを飲む顔。
玲司の冷蔵庫へ、勝手にプリンを入れる顔。
喧嘩をした翌日、謝る代わりに弁当を二つ作ってきた顔。
最後に交わした言葉は、思い出せなかった。
何度考えても、思い出せない。
特別な別れの言葉などなかったからだ。
いつものように別れ、いつものように、次に会えると思っていた。
相馬は、出発前に玲司の机から煙草を一本盗んだ。
「返せ」と言うと、「生きて帰ったらな」と笑った。
返ってこなかった。
煙草も、相馬も。
「撃てないでしょう」
榊原が囁いた。
玲司は拳銃を下ろした。
「そうだな」
榊原の口元に、安堵に似た笑みが浮かんだ。
「俺は、お前にはならない」
その瞬間、榊原がナイフを手に走り出した。
玲司は拳銃を捨て、体を横へずらした。
ナイフが肩を掠める。
玲司は榊原の腕を取り、勢いを利用して地面へ投げた。
榊原の体が泥の上を滑った。
崖の縁で止まる。
玲司が近づくと、榊原は仰向けのまま笑った。
「私を逮捕して、何が戻る」
「何も」
「なら、無意味だ」
「死んだ人間に名前を返す」
玲司は榊原の腕を背中へ回した。
「事故死でも、自殺でもない。殺されたのだと記録に残す。それだけだ」
「そんなものに何の意味がある」
「生き残った人間には、ある」
遠くで、館の鐘が鳴った。
夜明けを告げる六時の鐘だった。
霧の向こうから、弱い朝の光が差し始めていた。
⸻
第十章 最後の招待状
玲司が館へ戻ったとき、雨宮は書斎の床に横たえられていた。
八重が毛布を掛け、澪が手を握っている。
出血は止まっていなかった。
「榊原は」
雨宮が尋ねた。
「捕まえた」
「そうですか」
彼女は、わずかに笑った。
「今度は間に合いましたね」
玲司は雨宮の傍らに膝をついた。
「話すな」
「話さないと、間に合わないから」
雨宮は震える手で、上着の内側から小さな封筒を取り出した。
表には、玲司の名前が書かれている。
「九条さんから預かりました。自分が死んだら、あなたに渡してほしいと」
「なぜ、あなたに」
「私が一番先に死ぬと思っていたんでしょう。九条さんは、人を見る目がありませんでした」
封筒の中には、短い手紙とUSBメモリーが入っていた。
手紙は、九条の直筆だった。
――御堂玲司様。
――あなたがこの手紙を読んでいるなら、私は最後まで自分の口で話すことができなかったのでしょう。
――あの十八分は、あなたの罪ではありません。
――あの時間は、私たちが金と権力で買った十八分です。
――あなたから奪い、二人の命と引き換えに手に入れた十八分です。
――許しを求める資格は、私にはありません。
――ただ、どうか御自身を犯人の一人に数えないでください。
――あなたは遅れたのではありません。
――遅らされたのです。
玲司は手紙を持ったまま動けなかった。
五年間、誰かにそう言ってほしかった。
上司でも、同僚でも、遺族でもよかった。
お前のせいではないと、誰かに言ってほしかった。
だが実際に言葉を受け取ってみると、救われるより先に腹が立った。
九条に言われたくなかった。
二人を見殺しにした男の言葉で、楽になりたくなかった。
玲司は手紙を折った。
「勝手なことを言いやがって」
「そうですね」
雨宮が答えた。
「罪を犯した人は、最後まで勝手です」
玲司は彼女を見た。
「あなたもだ」
「はい」
「俺は、あなたを許さない」
「はい」
「美緒も相馬も、あなたの電話がなければ助かったかもしれない」
「はい」
「それでも、死ぬな」
雨宮の瞳が揺れた。
「それは、難しい注文ですね」
「生きて、裁判で話せ」
「もう少し早く言ってほしかった」
彼女は、胸元を見た。
「生きることを諦める前に」
玲司は雨宮の手を握った。
冷たかった。
「梨奈は、どんな子だった」
雨宮は少し驚いた顔をした。
それから、目を細めた。
「歌が下手でした」
「そうか」
「本当に下手で。でも、よく歌う子でした。お風呂でも、自転車に乗っているときも。音を全部外すんです」
雨宮の口元に、母親の笑みが浮かんだ。
「私が注意すると、歌は上手い下手じゃないって怒るんです。十七歳のくせに、偉そうに」
「美緒も歌が下手だった」
玲司は言った。
「本人は上手いと思っていた」
「それが一番困りますね」
「困った」
二人は、ほんの少し笑った。
澪が顔を伏せた。
八重は窓の外を見たまま、動かなかった。
雨宮の呼吸が、徐々に浅くなっていった。
「御堂さん」
「何だ」
「十八分を、返すことはできますか」
玲司は答えられなかった。
どんな言葉も嘘になる気がした。
返せると言えば、安い慰めになる。
返せないと言えば、彼女を絶望の中で死なせることになる。
「返せない」
玲司は言った。
雨宮は静かに頷いた。
「そうですよね」
「でも、十八分の中で何が起きたのかは、残せる」
玲司は彼女の手を強く握った。
「美緒が何を守ろうとしたのか。相馬がどうして死んだのか。梨奈が本当はいつ亡くなったのか。全部、記録に残す」
「お願いします」
「あなたのことも残す」
雨宮の目から涙が一筋流れた。
「それは、嫌ですね」
「嫌でも残す。罪も、脅されたことも、最後に俺を庇ったことも」
「最後くらい、少しきれいに書いてください」
「考えておく」
雨宮は目を閉じた。
「それなら、安心です」
それが、最後の言葉になった。
館の外で、鳥が一羽鳴いた。
雨宮の手から力が抜けても、玲司はしばらく離すことができなかった。
許したわけではなかった。
憎しみが消えたわけでもない。
ただ、雨宮志保という一人の人間が、罪だけでできていたわけではないことを知ってしまった。
人間を憎み続けるには、その人間について知らない方が都合がいい。
事情を知り、失ったものを知り、名前を知ってしまえば、憎しみは純粋ではいられなくなる。
残るのは、誰にも向けられない、濁った悲しみだった。
⸻
終章 名前を返す
橋が仮復旧し、警察が霧影館へ到着したのは、その日の午後だった。
新堂は一命を取り留めた。
病院へ運ばれた後、取調べに対し、五年前の捜査妨害を認めた。
倉橋もまた、九条側から圧力を受け、再捜査を止めた事実を証言した。
九条が残したUSBメモリーには、治験記録の原本、役員会の音声、榊原とのメール、警察や検察への工作資金の流れが保存されていた。
九条製薬は記者会見を開き、アステリオンK17の違法治験と、四人の死亡記録の改竄を認めた。
倉庫火災は事故ではなく、証拠隠滅を目的とした放火殺人事件として再捜査された。
榊原遼は、九条貴之と神崎修吾の殺害、安西美緒と相馬慎吾に対する殺人、雨宮志保への殺人など、複数の容疑で起訴された。
裁判の行方を、玲司はほとんど追わなかった。
判決が何年になろうと、失った時間が戻るわけではない。
事件から半年後。
玲司は二つの墓の前に立っていた。
相馬慎吾の墓と、安西美緒の墓。
二人の墓地は離れていたが、その日は相馬の妻だった佳乃に頼み、同じ花を供えた。
白いカーネーションと、青いデルフィニウム。
美緒の墓前には、小さなプリンも置いた。
「甘いものを食べないのに、どうして毎年持ってくるんですか」
背後で声がした。
九条澪だった。
黒い喪服ではなく、薄い水色のワンピースを着ていた。
以前より少し痩せていたが、館で会ったときより顔色はよかった。
「こいつが好きだった」
玲司は墓石を見たまま答えた。
「御堂さんに食べてほしかったんじゃなくて?」
「それはない」
「どうして分かるんです」
「一度食べたら、本気で怒った」
澪は笑った。
すぐに、その笑みを消した。
「父の遺骨を、兄と同じ墓に入れました」
「そうか」
「兄は嫌がるでしょうね」
「死人は、墓の場所を選べない」
「御堂さんは、父を許しましたか」
玲司は煙草を取り出しかけ、墓地であることに気づいて戻した。
「許していない」
「雨宮さんは?」
「許していない」
「榊原は?」
「許す理由がない」
澪は少し寂しそうに笑った。
「誰も許さないんですね」
「許すことが、先に進む条件だとは思っていない」
玲司は墓石に付いた枯葉を払った。
「許せないものを抱えたまま生きてもいい。忘れなくてもいい。ただ、その場所に立ち止まり続ける必要はない」
「立ち止まっていた人が言うと、説得力があります」
「うるさい」
澪は、父親が最後に書いた手紙を一通、玲司へ渡した。
「父の机の二重底から見つかりました。これで本当に最後です」
封筒には、〈御堂玲司様 最後の招待状〉と書かれていた。
玲司はその場では開けなかった。
事務所へ戻り、夜になってから封を切った。
中には便箋が一枚だけ入っていた。
――あなたを霧影館へ招いたのは、真実を託すためだけではありません。
――私は、あなたに生きてほしかった。
――死者のために生きるのではなく、あなた自身の残りの時間を生きてほしかった。
――これは館への招待状ではありません。
――あなたが捨てた人生へ戻るための、最後の招待状です。
玲司は読み終えた手紙を、机の引き出しへ入れた。
九条の言葉で人生を変えるつもりはなかった。
明日から急に前向きに生きられるとも思わない。
美緒のいない朝に慣れることもないだろう。
相馬の声を思い出さない日は、これからも来ない。
それでも玲司は、五年間開けなかった机の一番下の引き出しを開けた。
中には警察を辞めた日に持ち帰った、古い捜査手帳が入っていた。
玲司は新しいノートを取り出した。
表紙に、ゆっくりと題名を書く。
〈霧影館事件 調査記録〉
最初のページには、死亡者の名前を書いた。
九条貴之。
神崎修吾。
雨宮志保。
次のページに、五年前の事件で奪われた者たちの名前を書いた。
雨宮梨奈。
安西美緒。
相馬慎吾。
九条直人。
名前を書くたび、その人間が確かに生きていた時間が、白い紙の上へ戻ってくるような気がした。
真実は死者を生き返らせない。
罪を明らかにしても、失われた幸福が戻るわけではない。
真実が人を救うという言葉を、玲司は信じていなかった。
真実は、時に人を傷つける。
残された家族を引き裂き、守っていた記憶さえ壊すことがある。
それでも、嘘の中で死んだ者に、本当の名前を返すことはできる。
事故死ではない。
自殺ではない。
仕方のない犠牲でもない。
一人ずつ名前を持ち、笑い、怒り、下手な歌を歌い、プリンを勝手に冷蔵庫へ入れていた人間だったと、記録することはできる。
玲司は窓を開けた。
雨上がりの風が、狭い事務所へ入ってきた。
遠くの空が、わずかに白み始めている。
霧は晴れつつあった。
だが、晴れた場所に、失った者が立って待っているわけではない。
道が見えるようになっただけだ。
玲司は煙草を一本取り出した。
しばらく眺めた後、火を点けずに折った。
机の上の電話が鳴った。
新しい依頼人からだった。
玲司は二度目の呼び出し音が鳴るまで待ってから、受話器を取った。
「御堂調査事務所です」
声は少し掠れていた。
それでも、五年前よりは、自分の声に聞こえた。
窓の外で朝日が昇り始める。
長い夜が終わった。
失われた十八分は、最後まで戻らなかった。
けれど、その先の時間まで失う必要はないのだと、玲司はようやく思った。
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