年金が増えた日に、私は「年金を当てにしない」と決めた
年金が増えた日に、私は「年金を当てにしない」と決めた
郵便受けに、日本年金機構からの通知が入っていた。
「年金、増えるみたいよ」
妻がそう言った。
普通なら、喜ぶところなのだろう。
長い間、保険料を払い続けてきた。ようやく受け取る側に回る。しかも金額が増えるという。悪い話ではない。
けれど、私は通知を見ながら、少し複雑な気持ちになった。
2026年度の年金は、基礎年金が1.9%、厚生年金の報酬比例部分が2.0%増える。
一方、年金額の計算に使われた前年の物価変動率は3.2%だった。
増えてはいる。
しかし、物価ほどには増えていない。
スーパーに行けば分かる。
米、野菜、肉、魚、電気代、日用品。昨日まで980円だったものが、気づけば1,180円になっている。
年金の通知には「増額」と書かれている。
だが、レジの前に立つと、生活が豊かになった実感はほとんどない。
そこで私は決めた。
年金を大切にする。
しかし、年金だけを当てにはしない。
月4万円の穴
総務省が発表した2025年の家計調査には、かなり現実的な数字が載っている。
65歳以上の夫婦だけで暮らす無職世帯の場合、月の実収入は約25万4,000円。
そこから税金や社会保険料などを差し引いた可処分所得は、約22万2,000円。
一方、消費支出は約26万4,000円だった。
税金なども合わせると、毎月の差額は約4万2,000円になる。
つまり、平均的な高齢夫婦は、何もしなければ毎月少しずつ資産を取り崩して暮らしている。
月4万円。
大した金額ではないように見える。
現役時代なら、残業を少し増やす、賞与から補う、翌月節約するという方法があった。
しかし、退職後は違う。
収入は増えにくい。
それでも、家電は壊れる。
歯は悪くなる。
家の修理も必要になる。
犬や猫がいれば、動物病院にも行く。
冠婚葬祭も突然やって来る。
月4万円の赤字は、静かな浸水だ。
最初は靴下がぬれる程度である。
だが、何年も放置すれば、いつか船は沈む。
「老後2,000万円」より怖いこと
老後資金の話になると、すぐに「何千万円必要か」という議論になる。
だが、本当に怖いのは、資産額そのものではない。
夫婦が、自分たちの毎月の支出を把握していないことだ。
年金がいくら入るのか。
税金や社会保険料はいくら引かれるのか。
食費はいくらか。
通信費はいくらか。
保険料はいくらか。
車は本当に必要か。
住宅には、今後どれだけ修繕費がかかるのか。
これらを知らないまま、「たぶん大丈夫だろう」と暮らすことが一番危ない。
会社員時代は、給料が毎月入ってくる。
多少の無駄遣いがあっても、翌月にはまた給料日が来る。
退職後は、翌月になっても給料は復活しない。
ここを理解しないまま、現役時代の生活を続けると、資産は思っている以上の速さで減っていく。
やっちまった失敗は、取り返そうとしない
60代になると、誰にでも後悔がある。
もっと早く貯金しておけばよかった。
あの保険は必要なかった。
あの買い物は高すぎた。
もっと早く投資を始めればよかった。
住宅ローンの組み方を、もう少し考えるべきだった。
転職しておけばよかった。
副業を始めておけばよかった。
私にもある。
いまさら30代には戻れない。
時計の針を戻して、人生をやり直すこともできない。
だからこそ、過去の失敗を一発で取り返そうとしてはいけない。
「退職金を倍にしたい」
「株で遅れを取り戻したい」
「この投資なら毎月10%増える」
そう考え始めた瞬間、危険な話が近づいてくる。
詐欺師は、お金のない人だけを狙うのではない。
焦っている人を狙う。
損を取り返したい人。
老後が不安な人。
家族に迷惑をかけたくない人。
そうした真面目な人の心に入り込んでくる。
老後のお金で最も重要なルールは、増やすことより、致命傷を負わないことである。
100万円を1年間で10万円増やすより、1,000万円を詐欺や無謀な投資で失わないことのほうが、はるかに重要だ。
年金は「床」であって「天井」ではない
年金はありがたい制度だ。
生きている限り、原則として定期的に入ってくる。
これほど安定した収入は、民間の商品では簡単につくれない。
だから、年金を軽視してはいけない。
しかし、年金だけですべてを賄おうとする必要もない。
私は年金を、生活を支える「床」だと考えることにした。
その床の上に、いくつかの小さな柱を立てる。
第一の柱は、無理のない仕事。
第二の柱は、預貯金や資産。
第三の柱は、固定費を下げた生活。
第四の柱は、小さくても継続する収入。
そして最後の柱が、夫婦で話し合うことだ。
一本の太い柱に頼ると、その柱が折れたときに家全体が倒れる。
だが、小さな柱が何本もあれば、一本が弱くなっても持ちこたえられる。
月3万円は、ぜいたくではない
老後の仕事というと、週5日、朝から夕方まで働く姿を想像してしまう。
しかし、必ずしも現役時代と同じ働き方をする必要はない。
月3万円でもいい。
月5万円なら、さらに大きい。
先ほどの高齢夫婦世帯の平均的な赤字は、月約4万2,000円だった。
夫婦のどちらか、あるいは二人合わせて月数万円の収入があれば、その穴の多くを埋められる。
週に数日の仕事。
経験を生かした相談業務。
文章を書く。
動画を作る。
小さな商売をする。
得意なことを教える。
不用品を整理して売る。
重要なのは、一発逆転ではない。
長く続けられることだ。
60代からの仕事は、収入だけを目的にしなくてもいい。
人と会う。
社会とつながる。
生活に時間割ができる。
頭と体を使う。
そして少しお金が入る。
これらを全部合わせて考えれば、仕事は老後資金の補助であると同時に、健康対策にもなる。
ただし、体を壊すほど働いてはいけない。
医療費を増やすために働くようになったら、本末転倒である。
夫婦は、同じ船に乗っている
老後のお金について、夫婦で話すのは意外に難しい。
「あなたは使いすぎる」
「そっちこそ無駄が多い」
「私がこれまで、いくら家計を支えてきたと思っているの」
そんな話になれば、家計会議はすぐに夫婦げんかになる。
だから、犯人捜しをしてはいけない。
過去の支出を責めても、お金は戻らない。
大切なのは、これから二人でどう暮らすかだ。
夫婦で毎月一度、30分だけ話す。
確認するのは、次の五つでいい。
一、今月、何に多く使ったか。
二、来月、大きな支出があるか。
三、健康上の心配はないか。
四、仕事を続けられそうか。
五、二人で何を楽しむか。
最後の「楽しむ」が大事だ。
老後対策というと、何でも削ろうとする。
外食をやめる。
旅行をやめる。
趣味をやめる。
人付き合いをやめる。
これでは、何のために長く生きるのか分からない。
削るべきなのは、満足度の低い固定費だ。
残すべきなのは、二人が本当に楽しみにしている支出である。
90歳まで生きる前提で考える
2024年の簡易生命表によると、65歳男性の平均余命は約19年、65歳女性は約24年ある。
平均で考えても、男性は84歳前後、女性は89歳前後まで生きる計算になる。
もちろん、平均より長く生きる人も大勢いる。
老後は、思っている以上に長い。
65歳から70歳までを乗り切れば終わりではない。
70代、80代、場合によっては90代まで続く。
必要なのは、短距離走のような節約ではない。
長く続けられる暮らし方だ。
年金。
小さな仕事。
預貯金。
住まい。
健康。
夫婦関係。
これらを組み合わせて、20年、25年と持ちこたえられる形をつくる。
それが、夫婦二人の生存戦略になる。
失敗した人生ではない
若い頃に思い描いた通りの人生にならなかったとしても、それは失敗した人生ではない。
出世できなかった。
思ったほど貯金できなかった。
投資で損をした。
病気になった。
家族の問題があった。
計画通りにいかないことなど、いくらでもある。
人生は、後から見れば失敗だらけだ。
それでも働き、家族を守り、税金を払い、今日まで生きてきた。
それだけで、かなり大変な仕事を成し遂げている。
過去は取り返せない。
だが、未来まで過去の失敗に差し出す必要はない。
年金が増えたという通知を見ながら、私は考えた。
このお金に感謝しよう。
しかし、このお金だけに自分たちの人生を預けるのはやめよう。
夫婦二人で、できることを少しずつ増やしていく。
大きくもうけなくていい。
致命傷を負わなければいい。
月に数万円でも、自分たちで稼ぐ。
必要のない固定費を一つずつ減らす。
健康を守る。
そして、たまには二人でおいしいものを食べる。
それでいい。
やっちまった失敗は取り返せない。
でも、夫婦二人の人生は、今日から何度でも設計し直せる。
このシリーズでは、年金、退職金、仕事、住まい、投資、医療、介護、相続について、一つずつ考えていく。
成功者の自慢話ではない。
失敗しながら、何とか二人で生き残ろうとする夫婦の記録である。
次回は、「退職金を増やす前に、絶対に守らなければならないもの」について書こうと思う。
人生の後半戦は、逆転ホームランを狙う試合ではない。
最後まで、二人でグラウンドに立っているための試合なのだ。
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参考資料
・日本年金機構「令和8年度の年金額改定」
・総務省統計局「家計調査報告 2025年平均結果」
・厚生労働省「令和6年簡易生命表」
・警察庁「特殊詐欺及びSNS型投資・ロマンス詐欺の認知状況」
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