国外で育った日本人とは

僕は人生の凡そ7割を日本の外で過ごした。日本の教育を受けたことはほぼない。土曜日の補習校は一応文科省の管轄みたいだが5年生を終わらす前に辞めたので、海外という特殊な環境で土曜日に限定された200数日を日本の教育と呼べるのなら、経験していると言えるのだろうが、それ以外では特に経験はない。

辞めた後に帰国子女の受験枠を狙うための塾に通いはしたが、それは日本の教育なのか。お勉強ではあっても教育から程遠いだろう。結局学生を終えるまで帰国しなかったんだけど。

そうなると僕という人間を形成する人格のどの部分を日本人と呼ぶことができるのだろうか。家で親と話した時間?その他日本人と話した経験?それも、海外という特殊な環境下で?

何歳までの経験が人格形成に寄与するのか?読み書きできて話せれば日本人なのか?同世代が消費した文化を同様に知っていればいいのか?日本語のみしか喋れない時間が関係しているのか?多言語を喋る期間が長ければ変わるのか?言語の数で変わるのか?経験の量による種類の幅なのか?

結局のところわからないのだ。少なくともパスポートでは日本人のようだが、日本人なのかと聞かれたらどうなんだろうか。国に思い入れがある様な、ない様な。

では外国人なのかと聞かれると、どの国の?育った国?でもその国で過ごした時間を通して、その国の国民らしさよりも移民であることを感じてきた。同年代や同世代と比較して思想も死生観も異なる。ペンで彼らと僕の間に線を引いて、彼らと僕は違う。こうこう、こう言う理由で違う、と言いたいがそれも違う気がする。僕が日本人である感覚よりその国の人である感覚を比較したら、まあ、日本人ではないよな、くらいしかわからない。でも多国籍の人たちと時間を過ごすと、どこか感覚が違うなと常に感じて距離を感じる。

つまるところ、僕はどこにいても移民なのだ。一生涯、同じ空の下で常に移民。その国の文化がどうとか、割と話したり気にしたりするけれど、埋まらない溝を抱えて生きている感じだ。ハイコンテキスト文化社会で暮らすとコミュニケーションの手法やモードのズレから自分が移民であることを毎日思い出す。

しかも言われる。日本人的な感覚ではないと。人と話すだけで、他者と共有できない何かを常に持ち歩いている。

では他の似た背景の人と話してどうか?そこも怪しい。彼らの体験は自分の体験とどう似ているのか?同じだからと言って、彼らと自分で何が類似しているのか。その場その瞬間たまたまその場にいたからといって、同じ現実を体験しているわけではない。条件が揃っても何も保証されていないのだ。どこぞの国民らしさが揃ったとて、所属条件が自覚できたとて、何を持って話した相手との会話に意味を見出せるのか。価値を指し示すものとはなんだろうか。そしてその価値を然りと認めるものは。

経験を通じて観察してきた感じから現実の在り方としては多元的だと思うが、まるで精神世界が果てしなく唯我的な砂漠にいるようだ。そこに人がいることに、違いない。cogito ergo sumなんか言っている場合ではない。そんな証明ができたところで、何の意味があろう。

そもそもの視点が誤っているのだろうか。こんなに物が溢れているのに価値はこれっポチもない。人によって価値は違うだろうけど、最終的には価値など人が当てがったもの。存在するのは頭の中。ない物があるかの様に語り合う、それがもしかしたら重要なことなのかもしれない。でもその事実ですら意味をなさないということを楽しめたらいいのだろう。その上で楽しめることを知っていることが幸福なのだろう。