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めざせ!普門館!普通の都立高吹奏楽部のコンクール奮闘記?1979年-1

Aloha!

これは、田園調布にほど近く、はないが静かな住宅街のはずれにある、自由でのんびりとした校風の普通の都立高吹奏楽部が、普門館のステージを目指した奮闘記である。
なんて(^^ゞ


前年の1978年には吹奏楽コンクールに出場しなかった母校吹奏楽部。

今年は満を持しての出場!
ということであったかどうかは、定かではありません。

1977年。私が大学2年生のときに初めて吹奏楽コンクールに挑戦しましたが、たくさんの壁があったのだと思います。
とにかく知識が無い。経験が無い。技量も足りない。指揮者も演奏者もね(^◇^;)

しかし、とにかく挑戦することが大事!ということで参加したけど経験不足が露呈して、まともに演奏できなかった本番でした。
どえらく緊張してたと思う。私もみんなも。

大事なのは2回目以降でしょう。
最初の挑戦(失敗・挫折・後悔・懺悔、ってどこまでいくか(^^ゞ)から得られた教訓というか失敗をどう自分たちの演奏に生かしていけるのか。
毎年演奏者は変わっていくが毎年0からやり直していくのではなくて、去年の経験値を生かして、それに上乗せしていくこと。それができる学校がコンクールに強い、すなわち演奏が上手な学校なんだろうと思います。
それが伝統なんでしょうか。

もちろんそれは、生徒から生徒へ伝えられていくことが大切ではありますが、学校の部活動の伝統にとって一番大きなものは、顧問の考え方・音楽性などなどがいかに部活に、生徒に伝わっているかではないでしょうか。

私は学生の分際で2年間高校の部活動に関わらせてもらい、私イズムを少しでも浸透させることが出来たのかどうかわかりません。
そして三年目となるこの年にコンクールに再び挑戦することになりました。

それは、私から出ようといったのか現役生が出たいといったからかは記憶にありません。
ですが1979年その年は、私にとっては学生生活最後の年になるかどうか、結構厳しい瀬戸際の年だったんですよね。

以前の投稿で書いたような書いていないような、、、ですが、
私のいいかげんな学生生活のたまもの、というか自堕落な生活によって引き起こされた自己責任による帰結と申しましょうか。
細かいことは省きますが、大学4年生になったときの単位履修状況は、履修できる最大限の単位取得で卒業できるというものだったのです。

つまり、全科目合格しないと留年決定ということ。

これは結構厳しい状況でしたね。
思えば私の人生ってその後もこんな感じだったのか?
なんでも先送りする人生、22歳にして早くも最大のピンチが到来か!

な~んて書いてますけど、実はこの話には裏があって、、、
大学三年の学年末の試験の時に見えていたことなんですよ。
四年生で取れる単位の上限は決まっているから、逆算すると三年生でヘマするとその時点で留年決定。私の母校ではMG5といいます(^^ゞ
で、多分そうなるだろうなぁ~、そうすると五年生はノンビリ過ごすことになるのかなと覚悟?していたんですよ。

ところがどっこい、あろうことか、神のイタズラか、罰なのか、救いなのか。アーメン。ちなみに、私の母校はミッション系。

ダメだと思ってた科目の単位が取れちゃった(・O・)
そして、なんと四年生全単位取得で卒業!の茨の道が待ち受けることに、,,
ヘマすれば、留年、MG5、、、トホホ。バチが当たったんだね。3年間の。

思えばこれはリスクを孕んでるよねぇ。
だって、就職活動はどうするの?内定もらっていたとしても、留年しちゃったりしたら、、、
かっこ悪い、、、(・_・)
まぁ、留年もかっこ悪いけどね。

でもまぁ、少しでもチャンスがあるのならやるしかないだろ!
男の子だろ!って、女の子でもそうするでしょうが(^0^;)

ということで、4年で大学卒業を目指すとともに、吹奏楽コンクールに出場する、という道を選択したのです。
あと、内定した会社の就職の条件で自動車免許取得というノルマもありました。

って、ホントにできるのか( ̄。 ̄;)
ともあれ、こうして私の学生生活最後の一年の幕が切って落とされたのでありました。

それではまた。
Mahalo!

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