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めざせ!普門館!:1978年は一回休みですが

Aloha!

1977年秋。わが母校都立雪谷高等学校は東京都高等学校吹奏楽コンクールに出場し、銅賞を頂きました。
でもまあ、失格にならなければ銅賞は頂けたので、参加賞みたいなもんでもありますが。
初めての挑戦は「当たって砕けろ」ならぬ、「当たる前にこなごなに砕けてしまった」、ですかね。
世の中は甘くないということです。そりゃそうだ(^0^;)

そのときの自分たちには何が足りなかったのか。
初めての参加とはいえ、コンクールのことをまるでわかっていなかった。

他校の演奏もまともに聞いたこともありませんでしたから、自分たちの立ち位置がどの辺にあるのか客観的に判断することもありませんでした。

たしかに、私が高校入学してから他校の演奏を聴いた機会は第一地区の音楽会くらいでしたか。
のちに、東京都大会の常連校となる小山台高校も同じ地区でしたが、
当時の演奏は、、、すみません記憶にありません<(_ _)>

コンクール後の行事では引き続き指揮者として、部員とともに演奏活動を続けてきました。

そして、1978年4月開催の第2回演奏会を開催。
自分は指揮者として参加しました。
一年間で少しずつみんなの意識は変わっていったと感じていました。

ですが、今年もコンクールに2度目の挑戦だ!
とは思えなかったのですね、私の中では。

当時の部員諸君とどんな話をしたか思い出せないのですが、私は1978年はコンクールへ挑戦しないことを宣言したのです。

それは、やはりコンクールに挑戦するには足りないものがあると考えたからでしょうか。
このまま引き続きやっていても、ダメだと感じていたのでしょうか
本当のところ、そのときの自分の気持ちがわかりません。

でも、完全に休んでいたわけではありません。
基礎固めの年として、それまでやっていなかったことに取り組んでいきました。 
基本練習はもちろんのこと、個人の演奏の質をよりよくするために旋律の歌い方を個人レッスンで研究したり、それまで取り組んでいなかった吹奏楽のオリジナルにも挑戦したり。
考えて見れば当たり前の事ばかりですよね(^^ゞ

そして、この年の全国大会の高等学校の部を全団体聞かせてもらいました。
楽器の配置図、演奏についての印象などを全団体分メモしまくりました。
当時は、一日券でしたから一日中。そりゃそうだ。
それが何の役に立ったのかはわかりませんが( ̄。 ̄;)
ですが、全国レベルの演奏に触れたことは貴重な経験でした。

翌1979年4月第3回定期演奏会を開催し、自分は二年連続で指揮者として出演しました。
第一回よりも第二回、そして第三回と着実にステップアップしていったように感じていたと思います。

1979年は自分の学生生活最後の年でした。
そして、現役部員達と一緒にコンクールを目指すことが出来る最後の年です。
私は、2度目の吹奏楽コンクール挑戦をする決心をしました。

それでは、また。
Mahalo!

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