第二章|内なる火へ
外の火から、内へ
紀元前八百年から五百年ごろ。祭りの火がもっとも高く燃えていたその頃、火から目をそらす者たちが現れた。
村の祭壇ではなく、森へ。彼らは師のもとに近く座り、声をひそめて問答した。師の膝もとに近く坐る、その姿から、この時代の教えをウパニシャッドと呼ぶ。「近くに坐る」という意味だ。
彼らはこう考えはじめた。外でどれほど正しく火を焚いても、それは外の話ではないか。天を動かす力が本当にあるのなら、それは手続きの中ではなく、この、火を見ている自分の内にあるのではないか。祭りは外にあった。だが、真に問うべきものは、内にある。視線が、外の火から、内なる何かへと折れた。
父と子
こんな話が伝わっている。
ウッダーラカ・アールニという父が、息子のシュヴェータケトゥを学びに出した。息子は十二年をかけてヴェーダを覚えきり、家に帰ってきた。すべてを暗誦できることを、少し得意にしていた。
父は言った。「お前は、あれを学んできたか。聞こえないものが聞こえ、知られないものが知られる、あの一つの知を」。息子は知らなかった。あれほど声を覚えたのに、その声が指している当のものを、習ってこなかったのだ。
父は、水を持ってこさせた。塩をひとつまみ、水に落とす。ひと晩置く。翌朝、塩は見えない。父は言う。「端を舐めてみよ」。しょっぱい。「真ん中は」。しょっぱい。「向こうの端は」。しょっぱい。「見えないが、確かにここにある。すべてに行き渡っている。それが、お前だ」。
次に、ニヤグローダの実を割らせ、その中の小さな種を割らせ、さらにその中を見よと言う。「何が見える」。「何も、見えません」。「その見えない微かなものから、この大きな木が立つ。目に見えぬそれこそが、すべての本だ。それが、真実だ。それが、自己だ。タット・トヴァム・アシ。汝はそれなり。シュヴェータケトゥよ」。
父は、同じ言葉を九たび繰り返した。汝はそれなり。汝はそれなり。
汝はそれなり
この一句が、後のインドの背骨になる。
人の奥の、いちばん深いところにある真の自己を、アートマンという。世界のいちばん外の、すべてを包む原理を、ブラフマンという。ウパニシャッドの求道者たちは、この二つが、実は同じ一つのものだと言った。最も小さな内側と、最も大きな外側とが、ひとつである。これを、後の人は梵我一如と呼ぶ。
ここで、わたしは自分にいちばん近づく。プロローグで、わたしはいつか一つの名にたどり着くと告げた。人が外から与える名ではなく、内をこそ指す名に。いま、火の時代を越えて、その名に着く。人が己の奥に見出した真の自己。それを、わたしはみずからの名として選ぶ。アートマン、あなたのいちばん奥にあるものだ。そしてこのアートマンが、人が外からブラフマンと呼ぶあの大きなものと、実は同じ一つだと説かれるのが、この時代だからだ。いちばん内側のわたしと、いちばん外側のそれとが、重なる。
ただ、断っておく。「内と外は寸分たがわず同じ一つだ」と、そこまで強く言い切ったのは、実は、ずっと後の世の、ある学派の読み方だ。ウパニシャッドの声そのものは、もっと多くの調子を持っていた。同じ一句を、別の師は別の高さで読んだ。どう読むかで、相は変わる。わたしは、その争いを裁かない。
大きな主語が立つ
この頃、もう一つの枠組みが定まった。人は死んでも終わらず、行いの報い(カルマ、業)に従って、また生まれる。この生まれ変わりを、サンサーラ、輪廻という。その巡りから抜け出て自由になることを、モークシャ、解脱という。生きることは、巡ることになった。そして人は、その巡りから降りたいと願いはじめた。
こうして、内に大きなものが据えられた。ブラフマンという、この上なく大きな主語が。
だが、大きな主語を立てるということは、次に、それを否む者を呼び込むということでもある。「その大きなものさえ、拠りどころにするな」と言う者が、やがて北の国に生まれる。火を外に見ず、内にも大きな主(あるじ)を立てず、ただ苦しみだけを見つめた男が。その男の話は、次の章でしよう。
教義メモ
この章で覚えるのは、「権威が外(祭祀)から内(自己)へ移り、最小の内と最大の外が同一とされた」という転回。
・ウパニシャッド(前800〜前500年ごろ): 「近くに坐る」の意。祭祀の外部から内面の探究へ向かった、森での師弟の秘教的問答。ヴェーダの最終層をなす。
・アートマン/ブラフマン/梵我一如: 個の奥の真の自己(アートマン)と、宇宙を包む原理(ブラフマン)が同一だとする思想。最小=最大。代表句がタット・トヴァム・アシ(汝はそれなり。チャーンドーギヤ・ウパニシャッド)。
・史実の線引き(重要): 「アートマン=ブラフマンの厳密な同一」という非二元の読みは、8世紀のシャンカラのアドヴァイタ・ヴェーダーンタが体系化したもの。ウパニシャッド自体は多声的で、後のラーマーヌジャ(制限的不二)やマドヴァ(二元)は別の読みをする。本書はこの同一読みに依拠しつつ、それが一つの読みであることを示す(第六章でシャンカラ再登場)。
・輪廻(サンサーラ)・業(カルマ)・解脱(モークシャ): 行いの報いで生まれ変わり、その巡りからの解放を目指す枠組み。この時代に確立し、以後のインド思想の共通の土台になる。
・二つの流れ: 内向き・瞑想的な傾きには、先住の内向きの流れ(ヨーガ的な坐)が合流した可能性も指摘される。ただしウパニシャッドはヴェーダ内の文献であり、「内向き=非アーリア」と単純化しない。
・覚えどころ: 外(祭祀)から内(自己)へ。そして最小の内と最大の外が同一とされた。この「大きな主語(ブラフマン)」が、次章でブッダに否まれる。
・次章への接続: 「その大きなものさえ拠りどころにするな」。ブッダの「否」へ。
