うろ覚え読書ノート / 読売新聞社編『20世紀どんな時代だったのか 思想・科学編』― ニヒリズムの乗り越え、それは21世紀の課題なのか
うろ覚え読書ノート /
読売新聞社編『20世紀どんな時代だったのか 思想・科学編』
― ニヒリズムの乗り越え、それは21世紀の課題なのか
哲学者ニーチェの生涯を描いた映画『善悪の彼岸』のラストシーンが印象的である。
1901年1月1日。20世紀の幕開けの日。精神を病み、もはや言葉も理解できないニーチェのもとを、かつての恋人ルー・サロメが訪れる。そして耳元で静かに囁く。
「ニーチェ、あなたの世紀よ」
その言葉を最後に映画は終わる。
20世紀とは、まさにニーチェの予言した「ニヒリズム(虚無主義)」の世紀だったのではないか。本書を読みながら、その思いを強くした。
20世紀、大衆という存在が歴史の表舞台に登場した。産業化によって生まれた膨大な労働者階級は、資本家と対立する存在として認識されるようになる。
やがて世界恐慌が発生し、多くの国家が存立の危機に陥った。経済的不安は各国のナショナリズムを刺激し、領土拡大や経済圏確保の競争を激化させる。その果てに起きたのが第二次世界大戦であった。
戦後世界は大きく二つの色に塗り分けられる。
資本主義の青と、マルクス主義の赤。
マルクス主義は、貧困の克服を科学的に実現できるという壮大な希望を掲げた。その思想は労働者だけでなく、多くの知識人をも魅了した。
しかし理想は、しばしば現実によって試される。
革命の名のもとに伝統は否定され、国家は転覆される。ソ連や中国では、理想社会建設の過程で膨大な犠牲が生まれた。貧困や不満を解決できない国家は、やがて批判そのものを抑圧するようになる。思想統制、収容所、粛清。
本来向き合うべき課題は、権力闘争ではなく貧困そのものだったはずである。
古代中国の思想家孟子は、すでに二千年以上前にこう述べている。
恒産なくして恒心なし
安定した生産と収入なくして、人々の心は安定しない。
人類は驚くほど進歩した。しかし貧困という問題だけは、いまだ完全には解決できていない。
名君として知られる上杉鷹山でさえ、藩政改革には長年の苦闘を要した。まして理想を語るだけで現実を変えられるはずもない。
20世紀は、その事実を何度も人類に突きつけた時代だった。
さらに20世紀後半になると、別の種類の危機が姿を現す。
人々は、「進歩」そのものを信じられなくなったのである。
哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは『ポストモダンの条件』で、「大きな物語への不信」を語った。
科学が人類を幸福にする。
理性が社会を改善する。
革命が人類を解放する。
そうした近代の壮大な物語は、二度の世界大戦や全体主義、収容所、原爆によって深く傷ついた。
ポストモダンとは、単なる流行思想ではない。
それは、
「世界を統一的に説明する理論そのものへの疑い」
であった。
理性も、科学も、革命も、時として人間を救うどころか破壊する。
ニーチェの予言したニヒリズムは、20世紀の歴史そのものとなったのである。
哲学者テオドール・アドルノは、アウシュヴィッツの衝撃を前に、
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」
と語った。
それは芸術否定ではない。
文明そのものが野蛮を生み出したとき、人間はいったい何を信じればよいのか――という問いだった。
そして今、2026年5月31日。
21世紀を生きる私たちは、再び巨大な転換点に立っている。
生成AI。
それは人類史上最大の知的技術かもしれない。
かつて人々は神を信じた。
近代は科学を信じた。
20世紀はその科学すら疑った。
では21世紀、人類はAIを新たな「大きな物語」として信じ始めるのだろうか。
AIはニヒリズムを超える希望なのか。
それとも、人類が再び作り上げる新たな偶像なのか。
その答えは、まだ誰にもわからない。
だが一つだけ確かなことがある。
未来は、歴史の必然によって与えられるものではない。
革命も、科学も、AIも、自動的に人類を救ってはくれない。
結局のところ、未来を引き受けるのは、いつの時代も人間自身なのである。
だからこそ、あのブルーハーツの曲名が胸に響く。
『未来は僕らの手の中』。
ニヒリズムの世紀を通り抜けた後でも、その言葉だけは、まだ信じてみたいと思うのである。
