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「掌編小説」 黒鉄のぬくもり 1話 桜さん

朝の研究室は、まだコーヒーの湯気が
薄く漂っていた。
太郎はいつもの席に座り、書類を並べ、
数字を確認し、黙々と入力を進める。
桜さんはその斜め向かいで、
少しだけ身を乗り出して
「昨日の集計、助かったよ」と笑った。
太郎はその言葉を受けて、
自然に頬を緩める。
自分でも気づかないほど、
彼女の笑顔には安心させられていた。

「太郎くん、これもお願い。
 ……あ、私の本だった」
桜さんは慌てて書類を差し出し、
太郎と一平さんが同時に吹き出す。
課長は離れた席から視線だけ向け、
「朝から賑やかだな」と小さくつぶやいた。
桜さんは
「すみません、またやっちゃいました」
と愛嬌溢れる独り言をつぶやく。
そんな何気ないやりとりが、
太郎には心地よかった。

昼前、桜さんは太郎に飲み物を渡しながら、
最近導入された電子帳票の話をした。
操作の癖を覚えるのが大変だとこぼすと、
太郎は「でも桜さんならすぐ慣れますよ」
と返す。
彼女は真っすぐにこちらを見て、
うれしそうに笑った。
仕事は同じことの繰り返しなのに、
その一言一言が毎日少しずつ違って感じられる。
太郎はその違いを、まだ ”楽しさ” と
呼ぶ言葉を持たないまま受け取っていた。

昼前、桜さんが資料を落としてしまい、
紙が床に散った。
太郎がすぐ拾い集めると、桜さんは
「ありがとね~。ごめんね。」
と照れたように言う。
その声に、太郎は胸の奥が
静かに温かくなるのを感じた。
何気ない半日だった。
けれど、その穏やかさは
太郎の中に確かに残り始めていた。

「太郎君は、今日は気持ちよく
 作業できたかな?」
「はい、桜さん。
 特に何も困ったことはありませんでした。」
「そっか」
返しが事務的だったかもしれないが、
桜さんはほっとした様子で
手を振って帰って行った。




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#黒鉄のぬくもり

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