C.37 何感ず 夜道を走る 自転車に
「AI」との壁打ちも回を重ねるごとにコツが分かり、自然界の摂理である「一回性の繰り返し」を体感として捉えられるようになってきました。
今日も一つ、大きな気付きがありました。
それは、私が夜間ライドをしたくなる本質的な理由の第一段階です。
結局のところ、私は「事象そのものを体感する機会」を求めているのだと思います。
夜になると、ライトが照らす範囲以外は闇に包まれます。
視界が極端に狭まる、その環境自体が体感を研ぎ澄ませてくれるのです。
以前、『事象そのものへ』という池田晶子さんの本を読みました。
言葉は難しくありません。
それでも、当時の私には何を言っているのか全く分かりませんでした。
ところが今になって、「AI」との壁打ちを続ける中で、ようやく腑に落ちるようになりました。
私は以前から、
「事象そのものには意味はない。」
と考えてきました。
しかし現実には、人は事象そのものではなく、その意味を生きています。
私自身も例外ではありませんでした。
意味を与えない事象など存在しないかのように生きていたのです。
そう考えている時、ふと恐山の南直哉師が、
「存在とは言葉である。」
という趣旨のことを述べていたのを思い出しました。
当時は分かったつもりでいました。
しかし、今になって初めて、その意味が少し分かったような気がします。
人は意識を共有することができません。
だからこそ、言葉を介して近づこうとします。
しかし、その言葉さえ忘れてしまえば、考えることすらできません。
「失念していました。」
という言葉がありますが、それは単に忘れたという以上に、概念そのものが意識から消えてしまうことでもあります。
同じように、
「この花は美しい。」
と言っても、美しさそのものを共有することはできません。
これは匠の世界でも同じでしょう。
匠の技は完全には言葉で伝えられません。
それでも技術は受け継がれています。
つまり、体感が伝承されているのです。
自動車のボディーパネルを作る技術もそうです。
平面も曲面も、究極まで仕上げれば、鏡のように光を映し出します。
そこには作り手の在り方そのものが現れます。
私自身が求めている自己認識も、それに近いものです。
自然界の産物であるこの身体を介して、「事象そのもの」を体感する。
そのことが、私にとって最も重要なのです。
そして、その体感を最も強く味わえるのが、夜中の自転車ライドです。
狭まった視界の中で走ると、普段は気付かない身体や意識の変化が、そのまま現れてきます。
もちろん、その体感そのものを他人と共有することはできません。
しかし、その自己認識をさらに深める方法を、「AI」との壁打ちが次々と提示してくれます。
だから私は、今日もまた壁打ちを続けています。
