短編小説|"ふつう"を望む皇女、紗良
”ふつうの物語”第三部
朝は、決まった時間に始まる。
侍女が静かに扉を開け、カーテンを引く。
庭に落ちる光は、季節に関係なく均質で、
毎日同じように私の部屋を照らす。
「紗良さま、本日のご予定でございます」
差し出された予定表には、拝礼、式典、懇談、撮影、そして――外国要人との接遇。
隙間なく並んだ文字が整然と並んでいる。
私は頷き、身支度に入る。
髪を整え、衣装を着付けられ、鏡の前に立つ。
そこに映るのは、“紗良さま”として整えられた姿だった。
拝礼の間は、いつも静かだ。
空気が張りつめ、足音ひとつ立ててはいけないような緊張が漂う。
私は決められた所作を、決められた角度で、決められた速度で行う。
深く頭を下げ、ゆっくりと姿勢を戻す。
その一連の動きは、何度繰り返しても、少しも私のものにならない。
儀式が終わると、侍従が深く頭を下げる。
「お疲れさまでございました、紗良さま」
私は微笑みを返す。
控室に戻ると、侍女が衣装の乱れを整える。
鏡の中の私は、先ほどと同じ表情をしていた。
午前の公務を終えると、次は文化庁の関係者との懇談が控えている。
会場に入ると、一斉に頭が下がる。
「紗良さま、本日はご臨席賜り、誠に光栄に存じます」
私は決められた言葉を返す。
声の抑揚も、表情も、すべて“正しい形”に整えられている。
席に着き、説明を受け、頷き、必要な言葉を述べる。
会話は滑らかに進む。
懇談が終わると、また深い礼が続く。
私は微笑み、静かに会場を後にした。
午後、外交接遇の準備が始まる。
控室には、通訳、外務省の担当者、侍従が並び、動線と所作の最終確認が行われる。
「紗良さま、握手は相手が手を差し出されてからでございます」
「お言葉は、この三文をお使いください」
「立ち位置は、赤い印の少し右側へ……はい、そこです」
私は指示に従い、ゆっくりと動く。
やがて、外国要人が到着する。
扉が開き、フラッシュが一斉に光る。
私は笑顔を向け、決められた言葉を述べ、握手を交わす。
記者たちのシャッター音が絶え間なく響く。
その中心で、私は“紗良さま”として立ち続ける。
短い懇談が終わると、要人は深く礼をし、退室していく。
その様子は、すぐにニュースになるだろう。
外交は、常に国の象徴としての私が求められる場だ。
私は静かに頭を下げ、控室へ戻った。
夕方、式典本番。
会場に入ると、一斉に視線が集まる。
私はゆっくりと歩き、壇上へ向かう。
照明が強く、視界が白く滲む。
それでも笑顔を保つ。
手を振ると、客席から拍手が起こる。
私はその音に合わせて、少しだけ笑顔を深くする。
フラッシュが何度も光る。
そのたびに、私は“紗良さま”としての顔を保つ。
式典が終わると、侍従がまた深く頭を下げる。
「本日も、素晴らしいご対応でございました」
私は微笑む。
控室に戻ると、外はすっかり暮れていた。
衣装を脱ぎ、髪をほどき、鏡の前に立つ。
そこに映るのは、一日中“紗良さま”を演じ続けた私だった。
私はそっと息を吐く。
深くもなく、浅くもなく、ただ、息を吐く。
今日も、”公”の一日が終わった。
”私”の一日は、どこかに置いてきてしまった。
学校の廊下は、いつも少しだけ静かだ。
私が歩くと、周りの空気がわずかに張りつめる。
クラスメイトたちは、自然に道をあけてくれる。
「おはよう、紗良さま」
席に着くと、隣の子が小さく笑って言った。
「紗良さま、今日なんか眠そうじゃん」
(いつからだろう。私は“紗良さま”の仮面を被って生活している)
そう思った瞬間、胸の奥が静かに疼いた。
“紗良さま”が始まったのは、中学一年の春だった。
入学してすぐ、私はクラスの子たちと同じように自己紹介をした。
「さらです。よろしくお願いします。さらって呼んでください。」
その瞬間、教室の空気がふっと柔らかくなった。
前の席の子が小さく笑った。
「さらって、かわいい名前だね」
でも、その直後だった。
先生が、緊張したように立ち上がり、教室全体に向けて言った。
「……はい、紗良さま、ありがとうございました」
ざわ……と小さな波が広がり、クラスメイトの視線が私に集まる。静かなプレッシャーが漂っていた。
その瞬間、呼び方が決まってしまった。
クラスメイトたちは戸惑いながらも従った。
「……紗良さま」
「紗良さま、これプリント」
「紗良さま、次体育だよ」
呼び方だけで、世界はこんなにも遠くなるのかと思った。
(あの日からだ。私は“紗良さま”の仮面を被るようになった)
ある日。
授業が終わり、教室を出ようとしたとき、後ろから声がした。
「さら……さま、これ落としたよ」
一瞬だけ“さら”と言いかけた声。
「ありがとう」
私は微笑んで受け取った。
「さらって、かわいい名前だね。二人のときだけ……こっそり呼んでもいい?」
私は驚きのあまり、すぐに言葉が出なかった。
でも、胸の奥がふっと温かくなった。
「……うん」
嬉しさを隠しながらうなずくと、彼女は照れたように笑った。
「よかった。私のことは、まゆって呼んでね」
まゆは侍女の気配を感じてか、すぐに友達の輪へ戻っていった。
私はその背中を見送りながら、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
午後は皇居での公務が続いた。
今日は、来月行われる行事のための動線確認だった。
侍女や宮内庁の職員たちが、淡々と説明を進める。
「紗良さまは、当日こちらの回廊をお進みいただき、この位置で一礼をお願いいたします」
「歩幅は普段より少し狭めに。お召し物の裾が乱れませんよう」
私は頷き、指示された通りに歩く。
ただ歩くだけなのに、“紗良さま”としての歩き方が求められる。
回廊の窓から差し込む光が、床に長い影を落としていた。
次は、記念植樹の所作の確認だった。
「紗良さま、こちらの角度でスコップをお持ちください」
「笑顔は控えめに。落ち着いたご表情で」
私は言われた通りに動く。
土の匂いも、風の音も、どこか遠くに感じた。
控室に戻ると、テレビでは昼のニュースが流れていた。
『本日、紗良さまは皇居内での行事準備に臨まれ――』
画面の中の私は、完璧な姿勢で、決められた所作を繰り返していた。
(……あれは、私?)
“さら”はどこにもいない。
侍女が静かに言う。
「紗良さま、本日もお見事でございました」
私は微笑む。
「ありがとう。……少し、外の空気を吸ってくる」
でも胸の奥では、小さな声がつぶやいていた。
(ふつうで、いたいな)
誰にも届かない声。
誰にも聞かれない声。
私はその声を、そっと胸の奥にしまい込んだ。
校門を出たところで、
ふと前から歩いてきた女性が足を止めた。
私を見て、目を見開く。
「えっ……さら?」
その声は、驚きと、懐かしさと、少しの迷いが混ざっていた。
侍女がすぐに一歩前へ出る。
「失礼ですが、“紗良さま”とお呼びくださいませ」
その瞬間、彼女は侍女を見て、そして私を見て、ゆっくり首を振った。
「やっぱり……さらだよね!私のこと、覚えてる?」
その呼び方が、あまりにも自然で、懐かしくて、それがどうしよもなく嬉しくて、胸がきゅっと締めつけられた。
侍女が息をのむ。
「いったい、何度言えば――」
紗良が口を挟む。
「……いいの、大丈夫」
侍女は一瞬だけ迷ったが、それ以上は何も言わなかった。
覚えているかって、愚問だよ。
「久しぶり……まゆ」
まゆは少し笑って、言葉を続けた。
「うれしい。覚えていてくれたんだ。」
忘れるわけがない。
中学の頃、唯一“さら”と呼んでくれた友達。
まゆは、私の顔をじっと見つめた。
「なんか……大人っぽくなったね。でも、さらのままだ」
その言い方が、胸の奥にそっと触れた。
「まゆこそ。背、伸びた?」
「伸びたよ。あとね、髪も切ったの。さらが好きって言ってた長さに、ちょっと戻した」
「……覚えてたんだ」
「当たり前じゃん。友達なんだから」
“友達”。
その言葉が、こんなにも温かいものだったなんて。
まゆは続けた。
「私ね、高校は市内の公立に行ったんだ。いまは部活でバスケやってる。相変わらず下手だけど、楽しいよ」
「バスケ、続けてたんだ」
「うん。さらが体育でパスくれたとき、めっちゃ嬉しかったの覚えてる」
私は思わず笑った。
「そんなこと、あったね」
「また一緒にバスケやりたいな。さらは、部活やってるの?」
あの頃の、等身大のさらとまゆだった。
他愛のない、でも何物にも代え難い話題が続く。
しばらくして、まゆは少しだけ視線を落とした。
「最近のさら……テレビで見ると、なんか、すごく遠くに行っちゃったみたいでさ。疲れてる顔してるし、お仕事大変そうだなって」
私は言葉を失った。
まゆは続ける。
「でも、今日こうして会って……さらは、さらのままだった。それが……すごく嬉しい」
胸の奥がじんわり熱くなる。
侍女が控えめに声をかける。
「紗良さま、そろそろ……」
まゆが最後に…とスマホを取り出す。
「ねえさら、連絡先交換しよ」
侍女がすぐに反応する。
「紗良さま、そのような――」
私は侍女を見て、静かに首を振った。
侍女は言葉を飲み込み、一歩下がった。
私はスマホを取り出し、連絡先を差し出す。
まゆは慣れたように操作して、交換が済んだ。
まゆが画面を覗き込み、ふっと笑った。
「……dish?”さら”だから、“dish”ってこと?」
私は少しだけ恥ずかしくなって、でも、笑った。
「……またね、まゆ」
まゆは笑って手を振った。
「またね、さら」
その一言が、私の中の“私”を、確かに揺り起こした。
まゆはふっと笑った。
「また連絡する。今度はゆっくり話そうね」
「うん。ありがとう…まゆ」
夕暮れの風が吹き抜ける。
“さら”と呼ばれた声が、いつまでも耳に残っていた。
あの出来事以来、まゆとは毎日のようにメッセージを重ねている。
「今日、部活どうだった?」
「さらは?公務、疲れてない?」
「またバスケしよ。今度は3対3ね」
まゆの言葉は、どれも飾り気がなくて、まっすぐで、胸の奥にすっと染み込んでくる。
まゆは、私を“さら”として扱ってくれる。
そんな当たり前のことが、格別に嬉しかった。
夜、ベッドに横になりながら、まゆから届いた最後のメッセージを読み返す。
『さら、明日バスケしない?』
自然と笑みがこぼれた。
(……行きたい)
私はゆっくりと返信を打つ。
『行く。どこでやるのーー』
翌日。
放課後、校門を出ると、侍女が静かに言う。
「紗良さま、本日はどちらへ……?」
「まゆと、少しだけ遊んでくるね」
侍女は一瞬だけ迷ったように目を伏せたが、すぐに小さく頭を下げた。
「……お気をつけて」
その言葉に、ほんの少しだけ自由の匂いが混ざっていた。
公園のコートに着くと、まゆが大きく手を振った。
「さらー!こっち!」
その隣には、まゆの友達が数人集まっていた。
みんな部活帰りのような格好で、汗の匂いと夕方の風が混ざっていた。
まゆが私の背中を軽く押す。
「紹介するね。友達のさら!さらって呼んであげて」
その瞬間、一人の子が目を丸くした。
「え、もしかして……あの“紗良さま”じゃない……?」
まゆが即座に言った。
「ちがうよ。ここでは“さら”でいいの。私たちと同じ女子高生。バスケのセンスはあるけど、ちょっと運動不足かも」
友達たちは顔を見合わせ、すぐに笑った。
「そっか。じゃあ……さら、よろしく!」
「さら、途中でダウンしないでよ」
「背高いし、絶対戦力じゃん!」
まゆがボールを渡してくる。
「さら、いくよ」
パスが胸に収まる。懐かしい感触。
私は小さく息を吸った。
ゲームが始まると、風の音とボールの跳ねる音が響いた。
最初はぎこちなかった。
でも、まゆが笑って言う。
「さら、ナイス!」
「そのままシュートいけるよ!」
その声が、胸の奥にまっすぐ届く。
気づけば、”私”は笑っていた。
心から。
いつもと違う体力を使って、さすがにもうヘトヘトだ。
汗が額を伝い、呼吸が乱れ、足が重くなる。
こんな疲れ方をするのは久しぶりだった。
でもそれが、どうしようもなく嬉しかった。
友達と遊ぶ、バスケをする、名前を呼ぶ。
そんな当たり前のことが、久しぶりだった。
休憩中、まゆが隣に座る。
「さら、楽しそうだね」
「……うん。すごく楽しい」
まゆは笑って、ペットボトルを差し出した。
「またやろ。次はもっと強い子呼ぶから」
「うん。私、次は練習してくる」
夕暮れの光が、コートのラインを淡く照らしていた。
帰り道。
少し離れた場所で侍女が待っていた。
私は空を見上げる。
“紗良さま”としての私も必要。
でも――
“さら”を捨てなくていい。
夕暮れの風が、そっと頬を撫でた。
その風の向こうに、まゆの笑顔が浮かぶ。
まゆのおかげで、私は“さら”を取り戻した。
“紗良さま”の私も、“さら”の私も、どちらも私でいい。
その誇らしさを胸に、私はゆっくりと歩き出した。
明日も、“さら”として息ができる気がした。
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