短編小説|"ふつう"を嫌う浪人生、悠人
ふつうの物語 第二部
朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
眠れたのかどうかもよくわからない
布団の中で天井を見つめていると、また退屈な一日が始まるのかと億劫になって、なかなか起き上がれない。
階段を降りると、母が台所で弁当を詰めていた。
俺のじゃない。父のだ。
声をかけるタイミングを逃して、そのまま靴を履いて家を出た。
外の空気は冷たくて、歩き出すと足元に影が落ちた。浪人生活が始まってから、こういう“どうでもいいもの”に目がいくようになった気がする。
駅までの道は、通勤の大人たちと高校生で混み合っている。彼らの歩く速さに合わせて、俺の歩幅も自然と決まっていく。
そのリズムに乗りながら、胸の奥でつぶやく。
(俺は……もっとできるはずだ)
そう思わないと、足が前に出ない気がした。
電車に乗ると、窓に映る自分の輪郭が揺れた。
周囲の大人たちの疲れた表情と重なって見える。
「俺は、ああはならない」と思うのに、かくいう俺も、どこにでもいる浪人生でしかなかった。
予備校の最寄り駅に着くと、朝の光がビルの隙間から差し込み、歩道に人の流れができていた。
予備校の自習室は、静寂だけが支配していた。
椅子を引く音すら、やけに大きく聞こえる。
机に向かうと、参考書の白いページが目に刺さるようだった。
午前中の授業が終わると、廊下の窓から外を眺めた。皇居の外周を走るランナーたちが見える。
淡々と、一定のリズムで前へ進んでいく。
特別な人たちには見えない。でも、なぜかその姿が胸に残った。
(なんで、あんなに続けられるんだろう)
理由がわからない。
けれど、なぜか目が離せなかった。
帰りの電車では、窓に映る自分の顔が少し疲れて見えた。その表情が、朝よりもわずかに沈んでいる気がした。
”また平凡な一日が終わる”という感覚が、
じわじわと胸の奥に広がっていく。
家に帰ると、母の声が飛んでくる。
「悠斗、ごはんできてるよ。……先に食べる?」
「うーん、あとで」
その言葉だけ残して部屋に入る。
ドアを閉めると、家の音が遠くなった。机に向かう気力が出ず、布団に潜り込んでスマホを開く。
SNSのタイムラインが、唯一の外の世界。
誰かの勉強報告、大学生活の写真、知らない誰かの愚痴。その中に、最近よく目に入るアカウントがある。
名前は 「dish」。
アイコンは、白い皿の上に影が落ちているような、シンプルで意味のわからない写真。
「私の名前を呼んで」
「どっちの私も大切」
(……なんだよ、それ)
理解できない。
でも、なぜか目に止まる。
さらにスクロールすると、こんな言葉があった。
「誰かに勝ちたいわけじゃない。ただ、今日をちゃんと生きたいだけ」
胸の奥がざわついた。
(勝ちたいに決まってるだろ。上に行きたいに決まってるだろ)
スマホの光が壁に淡い影を落とす。
(……俺は、何を焦ってるんだろう)
答えは出ない。
その夜、布団の中で目を閉じると、朝見た自分の影と、皇居外周を走るランナーの姿が重なった。
特別じゃない人たちが、淡々と前に進んでいく。
その光景が、なぜか忘れられなかった。
模試の結果が返ってきた。
封筒を開ける前から、胸の奥がざわついていた。
嫌な予感というより、“どうせ大したことないだろう”という諦めに近い感覚。
結果は、E判定。
(……は?)
一瞬、意味がわからなかった。
いや、わかっていた。
でも、認めたくなかった。
(Eって……どうしようもないじゃん)
紙の端を持つ指がわずかに震えた。
(俺は……こんなはずじゃない)
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む。
予備校の講師に呼ばれ、個別ブースで結果を見せると、淡々と言われた。
「基礎が抜けているなぁ。目標を下げないと三崎が苦しいよ」
その言葉が、胸の奥に沈んでいく。
(下げる……? 俺が?)
講師は悪気なく言っているのだろう。
でも、その“悪気のなさ”が逆に刺さった。
(俺は……もっと上を目指してるんだよ)
言い返したかった。
でも、言えなかった。
言った瞬間、“できない自分”に正されてしまう気がした。
自習室に戻っても、参考書を開いたまま手が止まった。周りの浪人生たちは、淡々と、機械みたいに勉強している。
(なんで……みんなそんなに普通にできるんだよ)
焦りが喉の奥に張りつく。
ページをめくる音だけが、やけに大きく響いた。
(俺は……特別じゃなきゃ嫌だ。普通で終わる人生なんて、絶対に嫌だ)
でも、その“特別”の根拠がどこにもないことに気づいてしまう。
(じゃあ……なんで落ちたんだよ)
去年の不合格が、胸の奥で鈍く疼いた。
夜、布団に潜り込んでスマホを開く。
SNSのタイムラインは、大学生活の写真や、「単位落とした」みたいな軽い愚痴で埋まっている。
(いいよな……お前らは)
そう思いながらスクロールしていると、ふと、去年の自分の投稿が目に入った。
「第一志望、絶対受かる」
「本気出せばいける」
(……バカじゃん、俺)
その瞬間、去年の冬の光景が蘇った。
高3の二月。
受験票を握りしめて、校門の前に立っていた。
(俺はできる。大丈夫だ)
そう思っていた。
本気で。
試験が終わった帰り道、手応えは微妙だったけれど、「まあ、いけるだろ」と思っていた。
が、結果は不合格。スマホの画面に表示された「不合格」の文字を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
(……なんで?俺は特別なはずなのに)
その問いだけが、何度も何度も反響した。
家に帰って、母に「どうだった?」と聞かれたとき、「もっと上を目指すから浪人したい」と言った。
強がりだった。
普通であることを認めるのが怖くて、執行猶予をしたんだと思う。大した意欲も自信もなかったのに。
(俺は……特別じゃないのか?)
その言葉が喉まで来て、でも飲み込んだ。
スマホの画面に戻ると、タイムラインにまた dish の投稿が流れてきた。
「ふつうがうらやましい」
(……うらやましい?そんなわけないだろ)
到底理解のできない言葉に、目が話せない。
「平凡は幸せだよ」
(なんなんだよ、お前……)
まったく意味がわからない。こいつはいったいどういう生活をしているんだろう。
翌日、予備校に向かう電車の中で、昨日の講師の言葉が頭の中で繰り返された。
「目標を下げないと三崎が苦しいよ」
(そんなの……わかってる)
わかっているけど、認めたくない。
認めたら、“普通の人生”が確定してしまう。
(俺は……特別なんだよ。特別でいたいんだよ)
その叫びは、誰にも届かない。
自習室に座っても、参考書の文字が頭に入ってこない。
(俺は……何をしてるんだ)
周りの浪人生たちは、今日も淡々と勉強している。
(なんで……俺だけ)
その答えは、本当はわかっている。
去年の自分が、“できるつもり”だったからだ。
昼休み、廊下の窓から外を見ると、皇居外周を走るランナーが今日もいた。淡々と、一定のリズムで前へ進んでいく。
(あいつらは……何のために走ってるんだ)
特別には見えない。でも、“続けている”という一点だけで、価値のあることのように見えた。
(俺は……何も続けられてない)
その事実が、胸の奥に重く沈んだ。
帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見た。
昨日よりも、少しだけ疲れている。
スマホを開くと、 dish の投稿の投稿が目に入った。
「生きているだけでえらいじゃん」
(……は?)
意味がわからない。
でも、なぜか込み上げるものがあった。
俺は今日、何もできなかった。
昨日のE判定で落ち込んで、勉強も手につかず、目標修正もできていない。
何もできなかった。
でも、“生きてるだけでえらい”と言われたら、今日この一日が、少しだけ許された気がした。
(……俺は、どうしたいんだろう)
答えはまだ出ない。でも、昨日より少しだけ、胸が軽くなった気がした。
ここから後編です。
予備校に行けない日が続いた。
最初は一日だけのつもりだったのに、気づけば三日、四日と過ぎていた。
(今日こそ行こう)
そう思っても、体が動かない。
布団の中で天井を見つめていると、講師の言葉がまた浮かぶ。
「目標を下げないと三崎が苦しいよ」
(そんなの無理だ。でも、どうすればいいんだよ……)
その矛盾が、胸の奥で重く沈んでいた。
母は何も言わなかった。
俺が部屋にこもっていても、ただ静かに家事をしているだけだった。
(言われないほうが……きついな)
誰にも責められないのに、自分だけが自分を責め続けている。
四日目の昼、ようやく布団から出た。
机に向かってみるけれど、参考書を開く気にはなれなかった。
(俺……何してんだろ)
その問いが、日に日に重くなっていく。
SNSだけが、外の世界とつながっている唯一の場所だった。
大学生活の写真。友達と遊んでいる動画。
「今日もバイトだるい」みたいな投稿。
(いいよな……お前らは)
そう思いながらスクロールしていると、dish の投稿が目に入った。
「憂鬱な日々が続いている」
(……俺と同じじゃん)
「まずはこの状況を受け入れることから。自由になりたい」
(……おれは、自由なのかな。)
dish の言葉が、胸の奥にじんわり染みていく。
五日目の朝、ようやく外に出る気になった。
家にいると、自分がどんどん小さくなっていく気がしたからだ。
電車に乗って、なんとなく予備校の方向へ向かった。でも、行くつもりはなかった。
ただ、外の空気を吸いたかった。
電車が皇居の外周に差しかかる。
ランナーたちが今日も走っている。
昨日も、一昨日も、きっと先週も。
淡々と、一定のリズムで前へ進んでいく。
(なんで……続けられるんだよ)
特別な人たちには見えない。
でも、“続けている”という一点だけで、特別だ。
(俺は……何も続けられてない)
その事実が、胸の奥に重く沈んだ。
予備校の最寄り駅に着いたけれど、校舎には向かわなかった。
代わりに、近くのベンチに座ってスマホを開く。
dish の投稿が更新されていた。
「外に出た。空気が吸いたかったから」
(……俺と同じじゃん)
同じ空の下にいると思うと、不思議と近くにいる気がしてくる。
(……返信してみようかな)
(まあ……どうせ見られないだろ)
そう思って、軽くリプライを打った。
「皇居のランナーってどう思う?」
送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねた。
数分後、通知が来た。
dish「立派だと思う。私にはできない」
(……返ってきた)
胸の奥がじんわり熱くなった。
たった一言なのに、“きちんと見られている”気がした。(思っていること、一緒じゃん)
どこからともなく、小さな勇気が湧いてきた。
今日の俺は、昨日より少しだけ前に進んだ気がした。
その夜、布団の中でスマホを開くと、dish の投稿がまた更新されていた。
「自分らしく、自由に生きたい」
(……は?)
気づけば、指が動いていた。
「自分らしくって、どういうこと?」
すぐに返事が来た。
「他人の目じゃなくて、自分の心を目つめることだと思う」
一瞬、胸がざわついた。
(他人の目……?俺はそんなの……)
気にしてない、とは言えなかった。
むしろ、“特別でいたい自分”は、他人の目しか見ていなかった。
(俺……何やってんだろ)
その言葉が、胸の奥にすっと入ってきた。
痛い。でも、どこかで“正しい”と思う自分がいる。
(自分の心……か)
そんなもの、ずっと見ないようにしてきた。
見たら壊れそうで、怖かったから。
久しぶりに予備校へ行った。
足取りは重かったけれど、行かないままのほうが、もっと苦しかった。
受付を通ると、講師に呼ばれた。
近況の聞き取りだという。
「三崎、模試の結果、相当に引きずっていたのか……」
(また“下げろ”って言われるのか)
身構えた瞬間、自分の中で何かがふっと緩んだ。
(……下げてもいいのかもしれない)
その考えが浮かんだ自分に驚いた。
今なら、飲み込むことができそうた。
「現実的なラインに変えます。……そのほうが、頑張れる気がするので」
講師は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「うん、それがいいと思うよ。そこから積み上げていけばいい」
(積み上げる……か)
今までの俺は、“積み上げる”ことをしてこなかった。
最初から“特別な場所”に立とうとしていた。
(……俺は、何を焦ってたんだろう)
そんな思いが、胸の奥で静かに広がった。
帰り道、皇居外周を歩いた。
ランナーたちが今日も走っている。
以前は、物好きな人たちにしか見えなかった。
でも、今日は違った。
(地道に続けるって大変なんだな……)
誰かに見せるためじゃなく、誰かに褒められるためでもなく、ただ、自分のために。
(俺も……そうできたらいいのに)
そんなことを思った。
その夜、スマホを開く。
求人サイトの広告が目に入った。
「皇居清掃スタッフ募集。早朝勤務・未経験歓迎」
(……やってみようかな)
応募ボタンを押す指は震えていた。
でも、勇気を出して押した。
数日後。まだ薄暗い朝の時間に、皇居へ向かった。
作業服を着た人たちが、淡々と落ち葉を集めたり、ゴミを拾ったりしている。
(俺にも……できるのかな)
不安はあった。
でも、前に進んでいる気がした。
箒を握り、落ち葉を集める。
ただそれだけなのに、どこか誇らしい気がした。
(続けられるかな……)
答えはわからない。
でも、“続けてみたい”と思った。
休憩中、スマホを見ると、dish の投稿が更新されていた。
「ふつうって幸せ」
(……ふつう)
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。
(ふつうって……負けじゃないのか?落ちこぼれの言い訳じゃないのか?俺が一番嫌ってきたものじゃないのか?)
でも、箒を握った自分の手を見て、ふと思った。
(……でも、今の俺は“ふつう”に救われてる)
特別じゃなくてもいい。
誰かに認められなくてもいい。
ただ、自分が誰かに貢献できていることがうれしかった。
(ふつうって……立派なのかもしれない)
朝の光の中で、箒を握る自分の手が、昨日よりほんの少しだけ前に進んでいるように見えた。
落ち葉を揺らす風の音が、胸の奥でそっと重なる。
“特別”じゃなくても、確かに生きている自分が誇らしく思えた。
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