短編小説|"ふつう"を目指す特別支援級、みのり《下》
九月の風は、夏の名残りを少しだけ抱えながら、それでも確かに秋へ向かっていた。
きらめきの窓から入る光も、どこか柔らかくなった気がする。
夏休みは、ほとんど勉強で終わった。
机に向かって、ノートに線を引いて、問題を解いて、また戻って。その繰り返し。
“普通科に行きたい”と自分で言ったから、がんばらなきゃと思った。
でも、秋になっても、ノートの文字はまだにじんで見える日があった。
「みのり、また詰まってる?」
ゆうきがプリントを抱えたまま覗き込んできた。
夏より少し伸びた前髪が、目にかかっている。
「……うん。なんか、頭が追いつかなくて」
「追いつかなくてもいいじゃん。俺なんて、追いつく前に働くし」
「働く?」
「うん。働きたいから、職業訓練校に決めた。勉強より、体動かすほうが向いてるし」
ゆうきは、照れたように笑った。
「みのりもさ、頑張るのすごいけど、無理しなくていいと思うよ。俺ら、”みんな違う”んだから」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
放課後。
まひるが紙の立体を持ってきた。
「みのり、これ見て」
折り目がきれいで、影の入り方が美しかった。
「すごい……」
「でしょ。こういうのは得意なんだよね、私。他は全滅だけど」
まひるは笑いながら言った。
「私ね、特別支援学校に行くよ。自分のペースでできるところがいいから」
「……決めたんだ?」
「うん。“みんなと同じ”じゃなくても、“自分に合う”ほうが大事かなって」
その言葉が、胸の奥に染み込んだ。
(自分に合う……?)
まひるは続けた。
「みのりもさ、自分に合うのが一番だよ」
その一言が、心のどこかをそっと揺らした。
また、ある日。
3組の廊下で、りょうたが声をかけてきた。
「みのり、英語のテストどうだった?」
「……むずかしかった」
「だよな。俺も。でもさ、俺は工業高校行くから、もう捨ててる」
「捨てるって……?」
「ああ、ごめん。英語は手抜きするってこと。だって、俺は将来、車関係の仕事に就きたいし。好きとか得意で考えればいいんだよ」
りょうたは、いつもみたいにまっすぐだった。
「みのりはさ、”将来何になりたい”の?」
その言葉が、胸の奥に沈んでいった。
家に帰ると、お兄ちゃんがリビングでゲームをしていた。私がノートを抱えて通りかかると、コントローラーを置いて話し掛けてきた。
「みのり、最近ずっと勉強してるな」
「……うん。普通科、行きたいから」
「なんで普通科なん?」
その問いは、誰にも聞かれたことがなかった。
「……”みんなと同じ”がいいから」
お兄ちゃんは少しだけ笑った。
「みのり、それ理由になってないぞ」
「……え?」
「“誰かと同じ”ってのは、理由じゃなくて“願望”でしょ。進路は“自分がどうしたいか”で決めるもんだから」
お兄ちゃんの声は、いつもより少しだけ真面目だった。
「みのり、お前にはお前の良さがあるじゃん。それ、大事にしたらいいと思うけど」
胸の奥が、じんわり熱くなった。
秋が深まるころ、さおりと図書室で並んで座っていた。
「みのり、また悩んでるの?」
「……うん。普通科に行きたいって思ってたけど、なんか、ちょっと違うかもって思い始めてる」
「違う?」
「みんなと……“さおりと一緒がいい”って思ってたけど……それだけじゃないのかも」
さおりは、少し驚いたように目を瞬いた。
「みのり……私と同じじゃなくてもいいんだよ」
「でも……」
「みのりは、みのりのままでいいの。同じじゃなくても、私たち友達でしょ」
その言葉が、胸の奥にすっと染み込んだ。
「私は、みのりのこと大好きだし、いつも助けられているよ」
「……え、私に?」
「うん。みのりは、”みのりの道”を選んでいいんだよ」
その一言が、背中をそっと押してくれた。
夜。
机の上のノートを開く。
今日のページの横に、ゆっくりと一行を書き足す。“自分に合う進路を考える。みんなと同じじゃなくてもいい。”
その線は、これまででいちばん自然に、まっすぐだった。
十二月の朝は、空気が張りつめていた。
窓の外の白い息が、ゆっくりと溶けていく。
台所のストーブの音だけが、かすかに響いていた。朝ごはんの席で、お母さんが湯気の立つ味噌汁を置きながら言った。
「みのり、最近……ちょっと元気ないね」
「……そうかな」
「進路のこと、悩んでるんでしょ」
お母さんにはお見通しだったみたい。
私は箸を持ったまま、少しだけうつむいた。
「……普通科に行きたいって思ってたけど、なんか、違うのかもって……。お母さんは、私にどうして欲しいの?」
お母さんは驚いたように目を瞬かせたあと、ゆっくりと笑った。
「”どうして欲しい”なんてないよ。みのりが“自分のために決めた”って思えるなら、私はどんな道でも応援する」
その言葉は、冬の朝の光みたいに澄んで胸に入ってきた。
「……お母さん、ありがとう」
味噌汁の湯気が、少しだけあたたかく見えた。
その日から、私は“普通科以外の進路”を調べ始めた。
図書室の進路資料の棚。
知らなかった学校の名前。
ページをめくるたびに、これまで見えていなかった道が静かに広がっていく。
家政科。
調理、被服、生活デザイン。
実習が多くて、手を動かす授業が中心。
(こういうの……好きかもしれない)
ページをめくる手が、自然と止まった。
(家政科を出たら……専門学校にも行けるし、就職もできるし、大学に進む人もいるんだ)
(未来って、一本道じゃないんだ)
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
放課後、まひると帰り道を歩いた。
冬の風が頬に触れて、少し痛かった。
「みのり、進路……悩んでる?」
「……うん。でも、前よりは迷ってないかも」
「そっか」
まひるは、ふわっと笑った。
「みのりってさ、“こうしたい”って思ったら、ちゃんと調べるよね。そういうところ、いいなって思う」
「……そうかな」
「うん。私も、自分のためになる学校を探してたら、自然と決まった感じだったし。みのりも、そのうち“これだ”って思うのが出てくるよ」
その言葉は、雪が降る前の静けさみたいに、心に積もった。
夜。
机の上に広げた進路希望調査票を見つめる。
(家政科に行ったら……どんな未来があるんだろう)
(調理の道?保育?仕立て屋?専門学校?大学……は、難しいかな。でも、行く人もいるんだ)
(すごいな……私にも、そんな未来があるのかな)
胸の奥が、静かに波立つ。
窓の外では、小さな雪が舞い始めていた。
翌日。
図書室で、さおりと並んで座った。
「みのり、進路……どう?」
「……家政科、考えてる」
「家政科?」
さおりは少し驚いたように目を瞬かせたあと、すぐに柔らかく笑った。
「いいじゃん。みのり、手を動かすの好きだし。向いてると思う」
「……そう見える?」
「うん、見えるよ。みのりって、丁寧だし。細かいところ、ちゃんと見てるし」
胸の奥が、じんわりあたたかくなった。
「さおりは……どうするの?」
「私はね、都内に進学しようと思ってる」
「都内……?」
「うん。大学に行きたいから。まだ将来は決まってないけど、幅を広げたいっていうか」
その言葉は、まっすぐで、少しだけ眩しかった。
(さおりは……遠くへ行くんだ)
でも、不思議と寂しさよりも、“すごいな”という気持ちが先に来た。
「さおりなら、行けるよ」
「ありがとう。みのりも、家政科……いいと思う。なんか、みのりらしい」
その言葉が、胸の奥にすっと染み込んだ。
提出の日。
冬の空気は、頬が痛くなるほど冷たかった。
「今日が進路希望調査票の締切ですからね」
松岡先生が、朝の会で皆に言った。
私は調査票を胸に抱えたまま、深く息を吸った。
白い息が、ふわりと広がる。
「先生……お願いします」
松岡先生は静かにうなずき、調査票を受け取った。
その瞬間、肩の力がすっと抜けた。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
その白さを見つめながら、私はゆっくりと歩き出した。
廊下に出たとき、雪の匂いがした。
その冷たさの向こうに、まだ知らない季節が続いている気がした。
私はゆっくり息を吸って、歩き出した。
自分で選んだ道を、確かめるように。
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