最後の1秒に生まれたちっぽけな私たち──スケールに呑まれた日
子育て中は、もがくような毎日。
最近の我が子は、夜の仕上げ歯磨きすら一筋縄ではいかない。
「もう、自分でできるから!」と主張する子どもの気持ちも分かる。
でも、それでも虫歯の心配がよぎって、毎晩小さな葛藤がある。
幼児期には、子どもとの関わり方を工夫したり、
親の私自身が楽しめるようにしたり、
できる限りのことはしてきたつもりだった。
だけど、小学生になった今──
「小学生の壁」なんて言葉があるけれど、
正直、私たち親子は子ども園の頃からずっと
“スマート”に進んできたわけじゃない。
もともと型にはまるタイプではなかった我が子。
学校のルールや先生からの指導に馴染めず、
「できませんでした」の言葉が届くとよく分からないモヤモヤに包まれる。
そのたびに、私の中で何かが折れていく感覚があった。
やるべきことは、黙々とやるしかない日々。
淡々と時間が流れていく中で、
それでも私は
「周りや世間の声より、目の前の子どもの声を聞こう」
ってことは大事にしたいと思いながら、過ごしている。
(必要最低限のルールは守る前提)
子どもの良さだって、よく知っている。
最近では、学校とのちょうどいい距離のとり方も分かってきて、
心の中の波が少しずつおさまってきた気がする。
それでも──
「しんどい」と感じる瞬間は、ふいにやってくる。
だけども、
そんな自分の日々が、良い意味で、
ものすごくちっぽけに思えてくることもある。
ふっと軽くなれるような
視野を広げるだけで、物事も軽く思えることがある
そんな心が軽くなれるような、そんな
“自分がちっぽけに感じる瞬間”を、
いくつか書き留めてみようと思います。
(ちょっと話のスケールが壮大になってるかも)
自然を思い切り感じたい時に登る、いつもの山、そこで出会う自然の脅威たち
私には、初登山をきっかけにお気に入りになった山がある。
これまでに何度か、子どもや友人と一緒に登頂した。
その登山道の途中、静かな森林の中に、
ひっそりと佇む巨大な岩壁がある。
どっしりと構えたその姿から、
この岩は、ずっと昔からここにあるんだ——
と想像させられる。
まるで遺跡のような存在感。
ただ、そこに黙ってあり続けている。
誰の手も入っていない、施されていない。
それがかえって、言葉にできない「すごさ」を生んでいるのかもしれない。
思わず「すご…」と声が漏れそうになるほど。
どこかから、水がぽたぽたと落ちる音が聞こえてくる。
どうやら、岩と岩の隙間から湧き出しているらしい。
その水は、岩肌を静かに伝い、光を反射しながら流れていく。
それ以外には、何も音がしない。
ただ、岩があって、木があって、風が通り、
木々の隙間から太陽の光が差し込むだけ。
その場に、ただ黙って立っているだけでいい。
何も語らず、
ただそこにある圧倒的な存在に、
身体ごと飲み込まれるような感覚になる。
これが、自然にできたものだなんて──
そう思った瞬間、人間もまた自然の一部で、
そして、いかにちっぽけな存在かを思い知らされる。
祀(まつ)られてる祠(ほこら)のお地蔵様
登山道の途中、たくさんのお地蔵様にも出会う。
それは、岩の隙間だったり──
あるいは、大きな岩の空洞の中に、そっと祀られていたり。
その空洞も、
誰かが意図して“作った”というより、
長い時間をかけて静かに削り出したような空洞だった。
どこか神聖で、ただそこにあることが不思議じゃないような、そんな佇まい。
その辺りには、小さな川や、深い池のような場所も点在していて、
「これはもしかして、“水滴、石を穿つ”という現象を、目の当たりにしてるのかもしれない」
そう思った。
気の遠くなるような時間をかけて、
自然がつくり出した大きな岩のくぼみ。
そして、そのくぼみに、何かを願った人の時間だけが、
静かにそっと置かれているような気配があった。
その場に立つと、空気がすっと変わる。
背筋が自然と伸び、一歩踏み込んでいいのか迷うような、神聖な気配が漂っていた。
山の中にある、
自然と神聖さが重なったような場所。
言葉にはできないけれど、確かに、なにかを感じれた気がした。
そんな時、ふと子どもと以前一緒に楽しく見ていた、Eテレの『マチスコープ』を思い出した。
「ここって、何なんだろう。
誰が、いつからここに──」
歴史とか、由来とか、詳しくはわからなくても
でも確かに、「今ここにある」。
遠い昔の人が、同じ景色を見て祀ったのかな。
今の私とはまるで関係がないようで、
それでも、どこかで繋がっている気がする。
見えないけれど、
確かに“誰か”の願いや営みがここにあって、
その気配が、今も薄く息づいているような感覚。
そんな時間の層の中に、自分もそっと立たせてもらっているような──。
街の不思議を探る中に、
「この階段、どこに続いてたの?」
「この石垣、昔なにだったの?」
「なんで、こんなところに祠があるの?」
どうしてこうなってるの?
と、
街にある名もなき“跡”を辿っていく回があって。
そこを辿っていくことで、
昔そこには広い田んぼが広がっていたことや、
海があったことなど。
大人になると見過ごしてしまうような
場所や風景に、問いを向けることで見えてくる。
まるで地層みたいに、
いくつもの“時間”が折り重なっているような。
土の中に過去が眠っていて、
その上に今があって、
そのまた上に、これから来る誰かの時間が重なる。
そのほんのひと欠片に、
静かに立たせてもらっているような感覚になる。
色んな歴史と今を知れる子どものロマン。
はたまた、一緒に見ている親の私も、童心をくすぐられてワクワクしながら見ていた。
ただ“知る”ことが目的じゃなくて、
「問い」を持つことの面白さが描かれてもいる。
昔の誰かを想像し、時間を遡って、今と重ねていく。
あの祠の前に立ったとき、
私も確かにその視点を持っていた気がした。
「ここって、昔の人にとってはどんな場所だったんだろう?」
「何を願って、何を残していったんだろう?」
この静かな問いこそが、
“時間をまたいで誰かの気持ちに触れる”ような、
不思議なあたたかさにもなる。
たしかな答えはすぐに出なくとも、
その問いを持つことが、
昔のなにかと“つながる”ことなのかもしれない。
そして、いつも歩く、身近な道や街の中でも。
そんな目で世界を見られると、
たくさんの発見があって、日常に潤いや色が増す。
そして、まさにその視点に立って、
その岩や、お地蔵様も見ていた。
もしかしたら、
こうして道が整備されて、誰でも登れるようになったことも。
祠が残っていることも。
私たちが自然の中で休める場所があることも。
全部、昔の人が生きた時間や、
ちいさな営みの積み重ねの上にあるんだ。
もし、答えは出なくても、
子どもたちの純粋なその「問い」がすごくよい。と
改めて思わされる。
この感覚がアーシング?
モデルのローラさんがアーシングの話しをしていたことを思い出した。
素足で地面に触れることで、
身体と地球との電気的なつながりを回復しようとする健康法のこと。
アーシングとは?
——人間の体には日常の電磁波や静電気がたまりがち。
アーシングは、
地面(土、砂、草、水など)に直接触れることで、体内に溜まった電気を放出し、自然なバランスを取り戻すという考え。
理論的には
「地球表面の電子を体に取り入れることで、静電気や炎症を中和する」とされる。
→たとえば、芝生の上を裸足で歩いたり、海で波に足をつけたりするのもアーシングの一種。
(体験談として、アーシングが睡眠改善、ストレス軽減、炎症の抑制、血流改善などに役立ったという報告もあるそう。
私も素足で海の砂浜や川の中に立つと
全体的にじんわり心地よさを感じたのは確か。
※試してみる際は、破片や石で足の裏を傷つけないように注意
他にも例えば、こうやって登山中に岩壁に触れるでも良し。
ガーデニングで土に触れるも◯
——人間も自然の一部ということを、より身近に感じますね。
~余談~ 別の視点、宇宙スケールで見る「人類」
感じてしまう壮大さについてもう一つ
——そもそも、私たち人類の歴史ってどれくらいなんだろう?
恐竜は
約1億6000万年
(長すぎて想像超える)
ホモ・サピエンス
約20万年
(その中で文明は約5000年)
→恐竜の1%以下の期間
「人類文明」
約2000〜6000年
→ほんの“点”みたいな歴史
(でも、その“点”の中でここまで文明を築き上げた人間、すごすぎやしないか?)
そんな、ほんの「点」みたいな存在でも
私たち人間が、文明を持って生きてきた時間は、
地球の歴史の中で見ればほんのわずか。
さらに
地球の46億年を24時間で表すとしたら──
——24時間換算で見た人類
ビッグバン 0:00(深夜)
太陽誕生 15:00頃(午後3時)
地球誕生 15:30頃(午後3時半)
恐竜時代開始 23:00(夜11時)
恐竜絶滅 23:39(夜11時39分)
人類誕生 23:59:59(最後の1秒)
最後の1秒。
それが私たち。
とんでもなく短い。
それを知ると、
「私なんて、ちっぽけで当たり前だな」と、
少しだけ肩の力が抜ける。
だけどその“最後の1秒”の中で、
私は必死に仕上げ磨きがうまく進まないことで葛藤して、
子どもと泣いたり笑ったりしている。
壮大な時間の中の、
ほんの一瞬の、ちっぽけなひととき。
でも、そのちっぽけさが、たまらなく愛おしく思えた。
そして、
今こうして感じている自分の感情や生活は
長い時間の中で、
何かが繋がってきた “今” にいる証なんだ
ちっぽけさに押しつぶされそうになる日々
日常では、自分の小ささに飲まれそうになることが多い。
朝から洗濯物がたためなかった日
夕方になると「今日も特に何もできなかった」と思って落ち込む日。
周りを見れば、みんな前に進んでいるように見えて、焦る日。
何かしなきゃ、もっと頑張らなきゃ、と追い詰められたり
「自分なんて、何もできてないじゃん」
そう思うたびに、また自己嫌悪のループに陥る。
そんな自分が、情けなくて、恥ずかしくて、
それもまた、自分がちっぽけに思える。
それでも、確かに生きている
それでも私は、あの岩を見て感動した。
あの一枚の岩の壁が、私を別次元へと連れていってくれる。
このちっぽけな私が、何かに心を震わせているという事実。
「小さい」って、悪いことばかりじゃないのかもしれない。
大きなものに震える余白があるということ。
無力だからこそ、自然の凄さに圧倒されて、感動することができる
おわりに
大きな岩壁や静かな祠の前で、
私は「自分がちっぽけだ」と思いながらも、
「そんな中で生きている」とも感じる
過去の誰かの足跡と、今の私たちの生活。
一見まったく別々のものに見えても、
どこかで、ちゃんと地続きなんだ。
この“ちっぽけさ”と“つながり”の感覚は、
きっとこれからも、私を支えてくれる気がする。
