【連載③:なぜケンドリック・ラマーの「Alright」はBLM運動のアンセムとなったのか】⑵ヒップホップの誕生と発展 第一節:黒人ゲットーの音楽としてのヒップホップの誕生
1.1970年代のサウス・ブロンクスの荒廃
ニクソン政権期の1973年に、新たに誕生した音楽ジャンルがヒップホップであった。ヒップホップが誕生した1970年代のニューヨークのサウス・ブロンクスは、1950年代からのクロス・ブロンクス・エクスプレスウェイの建設による住民の立ち退き、再開発により、ニューヨークの中でもひときわ荒廃していた場所だった 。この再開発により従来住んでいたユダヤ系・アイルランド系の中産階級が郊外へ引っ越し、代わりにマンハッタンにあったゲットーが再開発で潰されたことで住む場所を失った、黒人やヒスパニックがサウス・ブロンクスへ流入してきた 。しかし、当時のサウス・ブロンクスには仕事がなく失業率も非常に高かった。多くの住人は家賃を払えず、家賃に頼れなくなった家主は保険金を得るためアパートを放火し、さらに窃盗犯により焼け焦げたアパートから金品が持ち出され、犯罪は多発し荒廃はさらに進んだ 。まさにサウス・ブロンクスはこの時期アメリカの多くの都市で生じていたインナーシティ問題の最たる例であった。

しかし、連邦政府やニューヨーク市は特に対策を講じることはなかった。1970年代に入ると脱産業化により、製造業から金融グローバル産業への転換が行われ、工場での単純労働者の黒人が職を失うケースが多かった 。さらに、西ドイツや日本の製造業の発展により、アメリカの製造業は打撃を受け、ニューヨーク市をはじめとするアメリカの多くの都市で財政危機が深刻化した 。連邦政府からの補助金に頼らざるを得ない状況で、財政悪化によりニューヨーク市は市職員の数を削減し、これまで行ってきた公共サービスを削減または廃止した 。これにより、サウス・ブロンクスでは放火が続いていたにもかかわらず消防署や消防士の数が減らされた 。前述の通り、ニクソン大統領やニューヨーク州選出のモイニハン上院議員は黒人問題に対し「慎み深い無視」をしていて、サウス・ブロンクスのインナーシティ問題に対する抜本的な対策は行われなかった 。

(https://en.wikipedia.org/wiki/South_Bronx)より
そして1980年代に入ると、レーガン大統領は経済政策としてジョンソン大統領の時代から続いてきた「偉大な社会」の政策を転換し、新自由主義に基づき富裕層や大企業の税金を減税し、社会福祉予算の大幅な削減を行った。これにより、ニューヨークをはじめとしたアメリカの大都市に住む黒人やヒスパニックの貧困層は公共サービスをまともに受けられないまま、高い失業率に苦しむことになった。特に、インナーシティ化した地区に住む黒人・ヒスパニックの若者の失業率は非常に高い水準で推移していた。
2.遊び場とヒップホップ
1970年代以降の不況とレーガン政権による予算の削減は、インナーシティにあった公共娯楽施設を壊滅的な状態にさせ、そこに住む人々の遊びの風景も大きく変えることになった。1970年代以降、公共娯楽施設で雇用されている人々に対して、一時解雇や辞職などによって、大幅な人員削減が行われた 。その結果、多くの公園や遊び場のサービス・管理は大きく低下し、廃止される施設も後を絶たなかった。ニューヨーク市の公園施設に対する市の歳出予算額は、1974年から1980年にかけて4000万ドル以上減額され、公園施設の雇用者は1960年代から1979年の間で6100人から2600人に減らされた 。この影響で、施設の運営を民間会社に委託し、民営化される公園も多く出てきた。この民営化した公園の中には、利用者の安全のために扉で入るとき客をチェックする、あるいは5ドルから9ドルの入場料・使用料を取る遊び場が多く、貧困層や労働者階級の黒人にとって利用しづらいものになった 。その一方で、ニューヨークのストリートや歩道は、従来から大人子ども問わずハンドボールやダブルダッチなどの遊び場として機能していた 。しかし、次第に薬物の蔓延やギャング間抗争の激化などによるストリートの治安悪化や走行中の車から発砲するドライヴ・バイが多発するようになると、ストリートは危険な場所として認知されるようになり、家に閉じこもりがちになる、あるいは家と「ディスカヴァリー・ゾーン」の間を行き来するだけの子どもが増えた 。若者の雇用機会の減少と、公共の娯楽施設の縮小、そして不充分な学校の教育プログラムは、若者を仕事ではなく「モーリング」(意味もなくショッピングモールをぶらぶらする)や、遊びに興じさせた 。こうした学校にも行かず仕事をしないで遊びをする若者が増えたことは、アメリカ社会において黒人のアンダークラスの若者を脅威と捉えるディスコースに繋がり、都市の警察の取り締まり方法を規定した 。

一方で、若者は遊びを賃金労働以外の選択肢へと転化させる。例えば、子どもや若者の遊びの一つであるバスケットボールは黒人の男性にとって、貧しいゲットーから抜け出し成功するための一つの手段として機能していた。ヒップホップも若者の遊びとして出発した。ヒップホップは、DJとラップの音楽的側面だけでなく、グラフィティ・アートやブレイクダンスなども含んだ膨大な文化的表現形式だった 。グラフィティ・アートに関しては、作家がニューヨーク地下鉄の車両基地に深夜に侵入しスプレー缶で「タグ」を素早く描き、自分自身を表現した。アーティストの中にはジャン・ミシェル・バスキアやキース・へリングなどニューヨークのアートシーンで注目され成功を収めたものもいたが、ほんの一握りだった 。グラフィティ・アートやブレイクダンスはお金になる機会は少なく、次第に世間での人気は終息した。一方で、DJやラッパーはライブ活動のほか、自ら製作したテープをストリートや地元のレコード屋を通して売りさばくことでお金を稼いだ 。一部のDJ・ラッパーはそのお金をより性能の良い機材につぎ込み、音楽制作環境を向上させた。またヒップホップが市場で売れ始めると大手レコード会社の契約を勝ち取るものも現れた。DJやラッパーとなった若者はそうした資本主義社会の起業家的精神で、賃金労働ではない遊びから出発したアートというアプローチから、自らを排除した最大の敵でもある脱工業化以降の新しい資本主義に参加していった 。
3.ヒップホップの起源
ヒップホップは1970年代に黒人ゲットーのサウス・ブロンクスで誕生したが、ヒップホップは昔から続く様々な黒人文化・黒人音楽の集合体であった。ヒップホップは、ゴスペル、ジャズ、ファンク、ソウル、R&B、ディスコといった既存のブラック・ミュージックを土台とし、さらに遡ればこれらの音楽ジャンルは全て奴隷制時代の黒人労働歌、ワーク・ソングがもとになっている。ヒップホップの中のラップの起源としては、奴隷制時代からあった「コール&レスポンス」や韻を踏んで歌うゴスペル・カルテット、詩に節をつけて詠む「スポークン・ワード」、ジャズの「ジャイヴ・トーク」、ジャマイカのダンスホール・レゲエの「トースティング」、奴隷制時代からある一対一で相手の母親などを罵り合う黒人の伝統的なゲーム「ダズンズ」、マルコムXやキング牧師といった著名な黒人指導者の演説、黒人ラジオDJの独特な話し方など古くからの様々な黒人文化の要素が影響としてある 。またジャマイカのサウンドシステムや、スポークン・ワードの名手ギル・スコット・ヘロン、ファンクを発明した最も偉大な黒人シンガーの一人ジェイムス・ブラウン、Pファンクを生み出したジョージ・クリントン率いるパーラメント・ファンカデリックの影響も強い。
▲1971年のギル・スコット・ヘロン「Revolution Will Not Be Televised(革命はテレビで放映されない)」。ファンキーなドラムとメロディーをつけずラップする様子はヒップホップの源流とも言え、後続のラッパーたちに大きな影響を与えた。
4.ブロンクスでのヒップホップの誕生
ヒップホップの誕生にはニューヨーク出身の、DJクール・ハーク、アフリカ・バンバータ、グランドマスター・フラッシュの三人が大きく関わっている。
一人目のDJクール・ハークは、ジャマイカ系アメリカ人で、ジャマイカのパーティーで使われるサウンドシステムを用いて、二枚のレコードを使い、パーティーで最も盛り上がるポイントである曲中の短いブレイク(間奏のドラムだけになる部分)をループしてかけ続ける画期的な手法、いわゆる「ブレイク・ビート」を発明した。これがヒップホップの原型となり、1973年8月11日、ニューヨーク市ブロンクス区セジウィック通り1520番地の公営住宅の一階娯楽室で、彼と彼の妹が主催したパーティーの日がヒップホップの誕生した日として一般的に知られている。

(https://en.wikipedia.org/wiki/DJ_Kool_Herc)より
二人目のアフリカ・バンバータは、ジャマイカの血を引くアフリカ系アメリカ人で、初のヒップホップ組織、ズールー・ネーションの創始者であり、ヒップホップの「四大要素」の提唱者で、ヒップホップを精神的な面から定義した人物である。ズールー・ネーションは社会から見捨てられた若者をヒップホップの芸術と創造性でまとめ上げ、MC、DJ、グラフィティー・ライター、ブレイクダンサー(Bボーイ・Bガール)を抱えるヒップホップのグループであった。ズール―・ネーションはブロンクスをかつて席捲したギャング組織の仲間同士の絆という側面を継承しながら、犯罪や喧嘩、薬物依存の無意味さを、ヒップホップを通して主張した集団でもあった。さらに、ズール―・ネーションで活動していたMC(ラッパー)、DJ、グラフィティー・ライター、ブレイクダンサーという四種のヒップホップ・アーティストに基づき、MC、DJ、グラフィティー、ブレイクダンスの4つからなるヒップホップの「四大要素」が提唱されるようになった。
▲1970年代半ばのアフリカ・バンバータによるDJの様子。最初期のヒップホップのパーティーの様子が感じられる音源。バンバータはジャンルレスな選曲で知られ、ここでもYMOの「Fire Cracker」が使われている。
三人目のグランドマスター・フラッシュは、DJにスクラッチというヒップホップに不可欠な技を編み出し、よりDJを洗練されたものに昇華させた人物である。彼は電気技師としての訓練を受け、DJクール・ハークなどのDJの手法を研究し、「時計セオリー」といったアプローチやスクラッチング、レコードを回し爆発音のような音を繰り出す「パンチ・フレージング」、レコードを逆回転させる「ブレイク・スピニング」といった現在のDJにはなくてはならない手法を確立した。また、彼はカウボーイやメリー・メル、キッド・クレオール、ラヒーム、コルピオの5人の若手MCと組みパフォーマンスをしていた。これは後にグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブとなり社会派ラップの重要作である「The Message」といった曲を発表した。
▲後年の1983年、グランドマスター・フラッシュのDJの様子。現在当たり前のように知られているDJ技法の基礎を彼がつくった。
以上のように、DJクール・ハーク がヒップホップの原型「ブレイク・ビーツ」を発明し、アフリカ・バンバータ がブロンクスのギャング抗争を終わらせ、ズールー・ネーションを組織しヒップホップの「四大要素」を定義し、グランドマスター・フラッシュ がスクラッチなどの技法を発明しDJを洗練させた。ヒップホップは上記の三者によって1970年代にブロンクスで誕生し発展を遂げた。ヒップホップのもう一つの重要な要素であるラップの最初期は、DJクール・ハークのパーティーのMCだったコーク・ラ・ロック、グランドマスター・フラッシュのMC、メリー・メル、キッド・クレオールなどのラッパーが活動していた 。ラップを誰が最初にやったかについてはっきりしていないが、韻をつけたリズミカルに話す黒人ラジオ・ジョッキーの話し方を継承した、DJハリウッドやエディ・チバといった高級ディスコのDJを参考にしたとされる。最初期のラップはあらかじめ考えたリリックを歌うというよりは、スラングを交えながらアドリブで会場の盛り上がりを維持する、あるいは暴力沙汰にならないよう群衆を統制するなど、ビートとミキシングに専念するようになったDJの代わりに会場を統制する存在であった。
→連載④に続く
<参考文献>
・ジェフ・チャン『ヒップホップ・ジェネレーション:「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語』、リットー・ミュージック、2007年、pp.27-33、pp.134-187。
・トリーシャ・ノーズ『ブラック・ノイズ』、みすず書房、2009年、pp.58-59。
・ロビン・D・G・ケリー『ゲットーを捏造する:アメリカにおける都市危機の表象』、彩流社、2007年、pp.89-92、pp.102-110、p.126。
・池城美菜子「ヒップホップとは何か、その定義とは:既存の価値観をひっくり返す、下克上の文化【#HIPHOP50】」u discover music.jp、2023年、https://www.udiscovermusic.jp/columns/what-is-hip-hop-and-what-is-its-definition
