【連載①:なぜケンドリック・ラマーの「Alright」がBLM運動のアンセムとなったのか】第一節①1970年代ニクソン政権:麻薬との戦いと忘れられた黒人社会
はじめに(この連載の概要)
黒人が奴隷としてアメリカに初めてやってきたのは、1619年のことである。それから、1600年代から1700年代にかけてアフリカ大陸から多くの黒人が船でアメリカまで運ばれ、南部のプランテーション農家で代々奴隷として酷使された。黒人は奴隷として強制的に働かされただけでなく、白人よりも劣った人種であると差別され、白人によって木に吊され見世物にされたり、リンチや拷問によって、不合理な理由で殺されたりされることが日常的に行われた。1863年に奴隷解放宣言が出された後も、1876年から1964年にかけて黒人差別的な法律、通称ジム・クロウ法で引き続き差別を受けた。1950年代から、バスボイコット運動を契機にキング牧師などを中心に公民権運動が盛んになった。この運動により1964年に公民権諸法が成立し、黒人差別の時代は終わったと思われた。
しかし、1950年代から60年代にかけて続いた黒人による公民権運動の時代に反動する形で、1970年代から白人保守の時代が始まった。1968年に大統領に就任したニクソン大統領は、1970年に反薬物乱用キャンペーンとして「麻薬との戦い」を宣言し、薬物使用に関する取り締まりを強化した。そして、1980年代になると、クラックの爆発的流行を契機にレーガン大統領は麻薬戦争の拡大を始め、人種差別的な法形態で、黒人が多く逮捕された。さらに、実際に薬物を取り締まる警察などの法執行機関はレイシャル・プロファイリングにより、黒人を不当に逮捕・拘留する事例が続出した。同時期に、黒人の刑務所収容数も増加した。このように、公民権運動が終わった後も、黒人は法律には明文化されてはいないが、実質的な人種差別を受けていた。
これと時を同じくして、1970年代から新しい音楽形式として広まり始めたのがヒップホップだった。ヒップホップは、1973年にインナーシティ問題で荒廃していたニューヨークの黒人ゲットー、サウス・ブロンクスで誕生し、パーティー音楽として多くの黒人の若者を魅了した。その後、ヒップホップは全米に広がり、黒人の若者がラップで社会に訴える手段としても使われるようになった。それによって、日常的に行われる警察の黒人に対する蛮行など様々な黒人に対する差別を世の中に伝えることにつながった。2013年の自警団員による黒人少年トレイヴォン・マーティンの殺害事件を契機に、全米に広まったブラック・ライヴズ・マター運動でも、ヒップホップは重要な役割を果たした。ヒップホップ・アーティスト、ケンドリック・ラマーの楽曲「Alright」がブラック・ライヴズ・マター運動のアンセムとなり、参加者の団結を促した。このように、ヒップホップは公民権運動の黒人社会、黒人差別において、社会に訴え、自らの団結を促すツールとして重要な役割を果たしてきた。本稿では麻薬戦争、警察の蛮行を中心に公民権運動以後の黒人差別を論じたうえで、ヒップホップの誕生から社会に訴える手段として発展していく過程、実際に重要な役割を果たした曲について紹介し、黒人差別とヒップホップの関係性について明らかにする。
第一節では、公民権運動以後のニクソン、レーガン政権期における麻薬戦争の過程を説明し、黒人に差別的な薬物取り締まりの法体系によって、多くの黒人が逮捕されたことについて論じる。
1.公民権運動の終わりと人種暴動
公民権法が成立した1960年代、黒人の権利向上は図られたが、黒人の置かれた状況は変わらなかった。依然として黒人は白人と比べ貧困率が高く、若年層の失業率は深刻な状況で、警察官から差別的に扱われていた。そこから生じた怒りによって全米各地で都市暴動が発生した。投票権法が成立した1964年から1972年にかけて全国300都市で人種暴動が起こった 。1965年8月のカリフォルニア州でのワッツ暴動、そして1967年7月ニューアーク暴動、デトロイト暴動が例である。これらの暴動に共通していることは、いずれも警官の取り締まりに対し黒人が反発することで始まったことである。そしていずれの暴動も、鎮圧のために派遣された警察や軍隊によって黒人数十人が射殺された 。こうした暴動の背景にあったのは、公民権諸法が成立し、黒人の権利向上に大きな期待が持たれたにもかかわらず、実際の黒人の生活水準は白人と大きな差があったためとされる 。ジョンソン政権下で進められた、「偉大な社会」計画の「貧困との戦い」により、1965年から5年間で国民所得に占める連邦政府の社会福祉関係支出割合は2倍に増えたが、その後はベトナム戦争での戦費増大を受け大幅に削減された 。

また1960年代後半にかけて黒人指導者の暗殺が相次いだ。元ネーション・オブ・イスラム(NOI)のスポークスマンで黒人解放運動家のマルコムXは1965年に暗殺され、公民権運動を率いたキング牧師が1968年に暗殺された。「ブラック・パワー」を掲げたブラック・パンサー党はFBIの攪乱工作で壊滅し、次期リーダーと目されていたフレッド・ハンプトンはFBIと地元警察によって1969年に暗殺された。こうしたキング牧師をはじめとする黒人指導者の相次ぐ死により、黒人公民権運動の時代は名実ともに終わり、1970年代から長く白人の保守反動の時代が始まることになった 。
2.ニクソン政権での変動
共和党のリチャード・ニクソンは、都市暴動が頻発し暗殺が相次ぐ騒然とした社会に対し「法と秩序」をスローガンに掲げ、白人中産階級の「サイレント・マジョリティ」に強く訴えかけることで1968年の大統領選で勝利し政権の座に就いた 。大統領に就任すると、ニクソンはベトナム反戦運動に参加する学生や、都市暴動を起こす黒人などのリベラル勢力、マイノリティなどを名指しで攻撃した 。彼はジョンソン政権時代に廃案となったアファーマティブ・アクションを政治的思惑で復活させた。ジョンソン政権が「貧困との戦い」の一環として提出した法案を、民主党の支持基盤となっていた黒人の市民権運動団体と労働組織の対立を激化させることで、組織の弱体化と白人現業労働者の共和党への流入を目論んだのだった 。

ニクソンは基本的には「黒人問題」に関心がなく、自身の支持母体である白人中産階級を重視した政策を取った。ニクソンは自身が推し進めたアファーマティブ・アクション、フィラデルフィア・プラン(RPP)について1970年2月に、「市民権運動を支持してもほとんど政治的利益はない、フィラデルフィア・プランでは、黒人の信頼は得られなかった」と述べ、RPPに対する熱意は失われていた 。さらに、同時期にダニエル・パトリック・モイニハン上院議員の書いた、黒人には「慎み深い無視(Benign Neglect)」の姿勢を示すよう助言したメモに「私も同意する!」と答えるメモを返した 。そしてニクソンは1970年に以下のようなメモを残している。
我々はもう充分に黒人や若者、ユダヤ人のためのスケジュールに忙殺されてきた。これからはユダヤ人の採用はしない。それに黒人も我々が関心を払ってきたことを示す程度に十分採用した。今後は、イタリア人、ポーランド人、メキシコ人、ロータリー・クラブの会員、エルク会の会員、中流アメリカ人、おとなしいアメリカ人、カトリック教徒などに集中することにする。
<黒人 若者>忘れる。
このように、1970年時点でニクソンは「黒人問題」に対する関心がなくなっており、白人中産階級を意識した政策へと舵を切ることになった。そして、1971年から麻薬撲滅政策として「麻薬との戦い」を開始した。
3.ニクソン政権下の「麻薬との戦い」
ニクソンは1971年6月17日の記者会見で薬物乱用は「第一の公共の敵(Public Enemy No.1)」であると宣言した 。そしてこう続けた。「この敵と戦い、打ち負かすためには、新たな全面的な攻勢をかける必要がある。それは世界的な攻勢になるだろう。政府全体、そして全国的な攻勢である。(In order to fight and defeat this enemy, it is necessary to wage a new, all-out offensive. This will be a worldwide offensive. It will be government-wide and it will be nationwide.)」 。ニクソンは薬物乱用を「敵」と表現し、この問題に対処することを「戦う」、「打ち負かす」、「攻勢をかける」と表現した。つまり、ニクソンは薬物乱用問題に対処することを、「戦争」として表現した。彼は「War on Drugs(麻薬との戦い)」という言葉を打ち出して、以後数十年にわたって続く麻薬戦争を開始した。
この記者会見で、ニクソンは薬物乱用防止特別対策室の創設を発表した。ニクソンは薬物関連の予算として、議会に対し最低3億5000万ドルの予算を要求した。ニクソンが就任した1969年当時の薬物関連の連邦予算は8100万ドルで、大幅な増額であった 。アメリカ議会では、1970年10月、包括的薬物乱用防止管理法を可決し、特定の薬物を再規定し、その後ニクソン主導の下1971年5月に規制物質法が制定され、薬物に対する規制が進んだ 。さらに1973年には、ニクソンによってアメリカ麻薬取締局(DEA)が設立された。
一方、州レベルではニューヨーク州のロックフェラー薬物取締法(1973年制定)、ミシガン州の650ライファ―法(1978年制定)といった、ニクソンの強硬姿勢に反応した強権的な州法が制定された 。ロックフェラー薬物取締法は、4オンスの麻薬を所持、もしくは2オンスの麻薬を販売した場合、最低15年の刑期から、最大で終身刑とされていた 。この結果、ニューヨークでは薬物関連の収監が急増した。これに対応すべく、刑務所の建設と管理に巨額の州予算が割かれる一方、薬物使用と依存に対処するための地域社会や医療ベースのサービスへの予算は大幅に削減され、一部のサービスは廃止された 。収監者の多くは黒人であった。このロックフェラー麻薬取締法は2009年4月に覆されるまで存続され、マイノリティや一般市民に長年影響を与え続けた。
ニクソン政権が「麻薬との戦い」を宣言し取り締まりに本腰を入れ始めた1970年から、それまで横ばいで推移していた全米刑務所収監人口は緩やかな増加に転じた。しかし、収監人口が社会問題化するほど本格的に増加するのは、1970年代半ばのカーター政権期の「麻薬戦争」の一時休戦を経た、1981年のレーガン政権発足からであった。
→連載②へ続く
<参考文献>
・上杉忍『アメリカ黒人の歴史―奴隷貿易からオバマ大統領まで』中公新書、2013年、pp.147-152。
・安井倫子『語られなかったアメリカ市民権運動史―アファーマティブ・アクションという切り札―』大阪大学出版会、2016年、pp.144-164。
・“Public Enemy Number One: A Pragmatic Approach to America’s Drug Problem” Richard Nixon Foundation, 2016, https://www.nixonfoundation.org/2016/06/26404/
・Lord, Phil, “Moral Panic and the War on Drugs”, The University of New Hampshire Law Review, vol.20, No.2, 2022, pp.410-411.
