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私の坐禅体験(2006年)

昔、京都で坐禅体験をしたことがあります。
土曜の夜から日曜の朝までの泊まり込みで、座禅はもちろん、精進料理をいただいたり、警策の体験をさせてもらいました。


当時の私は、社会人2年目くらいで、ちょうど京都へ引っ越したあたりでした。社会人になって少し落ち着いた頃に、人生に悩んでいた自分に何かヒントになるかと思って足を運んだのがきっかけです。

就職してから、「中学校→高校→大学→就職」という世の中の大きなレールの上をなんとなく歩いてきただけのような感覚が強くなりました。もちろん、その中でいろんな葛藤もありましたし、その時々で最善の選択してきたつもりですが、いざ社会人になって突き詰められた「何がしたいのか?」という問いかけからすると、就職までの流れがそんな風に思えてきたのです。

実際、技術職へ飛び込んだ新人の頃、業務への絶望的なレベルの壁や、「獅子の子落とし」的な環境、世間知らずであるが故の失敗ばかりで、会社でやっていける未来が全く想像できなくなり、無力感のあまり上司に退職の報告をしました。
その時に「お前をみていると嫌々仕事をしているようにみえるぞ」「なんでこの会社に入ったのか?」、「何がしたくてこの職業・業界を選んだのか?」と、問われたんですよね。それらを書き出して持ってきてって言われたんです。その時に何も答えれなかったんですよね。
もちろん、入社面接で話した会社を選んだ理由とか、その業界を選んだ理由とかは、ありましたよ。でも、その時に問いかけられているのは、そういう次元のことではない気がしたんですよ。

結局、その時は会社を続けることになったんですが、その時のモヤモヤがずっと消えず、何かヒントを探してたんですね。

それまでは就職という山を追いかけてきたけど、山を登って目標が見えなくなった感覚もあったと思います。

坐禅体験に足を運んだのはそんな時だったんですね。


当日は土曜の夕方、受付を済ませました。確か1,000円程度で、非常に低予算だったと記憶しています。

その晩は、坐禅部屋のような場所でひたすら坐禅を組みました。この時、坐禅の作法や、警策(きょうさく)についての説明がありました。坐禅中は、半眼で2、3メートル前を見るとか、胡座や手の組み方など、細かな作法を教わりました。目を閉じないのは、妄想が襲ってくるから。警策は、個人的な感情で叩くものではなく、「作法が悪い者、何をしに来たのかわからぬ者に使う」といった説明だったと記憶しています。

坐禅後、その場で就寝となりましたが、時期は冬前だったか、空調がないため極寒だったことを覚えています。

翌朝5時頃、係のお坊さんの鐘の音で目覚め、すぐにその場で坐禅を組みました。

その後、場所を移動し、ある塔の周りをぐるぐると歩き回る修行(おそらく経行)を行い、近くの経堂(?)で再び坐禅をしました。

そして、朝食に精進料理をいただきました。内容は確か、おかゆと沢庵2枚、そして何かがもう一品だった気がします。特に印象的だったのが食事の作法です。「食器を洗う人のために、沢庵を最後に1枚残して、お茶碗のおかゆを綺麗に拭い取ってからいただくのが礼儀作法」と説明を受けました。この間、随所でお経も唱えられました。

一連の勤行が終わると、最後は和室へ移動しました。ここでは、初めて参加された方々の参加理由の発表や、係のお坊さんの説法、参加者との座談会がありました。

私は、「就職までしたが、人生がわからなくなった」ことや、「事前に読んだ坐禅の本に『心を自由にする』と書いてあったので気になって来てみた」ということを話しました。他にも「最近父を亡くした」方や、「世界平和について考える」という学生サークルの方々も参加されていました。

お坊さんの説法は、参加者の話に答える形で、自身の体験談を元に進められました。その途中、私に向けられたと感じた言葉がありました。

「本なんか何度読んでも一緒。ここには老人がおる。話をしなさい。おそらく一回じゃわからんだろうから、また来なさい。」

その後、係のお坊さんが「お勤めがあるから」と言い残し、日々のお勤めに戻られた後、任意での座談会があったのですが、なんとなく説教されそうな嫌な予感がして(笑)、そのタイミングで帰ってしまいました。

しばらくして2回目の参加をしたのですが、1回目のような強烈なインパクトや新鮮な気づきがなく、それが最後の坐禅体験となりました。

ずいぶん昔のことで断片的ですが、当時の説法の内容や作法の説明は、私の心に深く印象として残っています。


記事を書くために、今も行なっているか調べたのですが、見つかりませんでした。ずいぶん前のことなので、今はスタイルが変わっているのかもしれません。

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