平成マンガ探訪~楠 みちはる編「湾岸ミッドナイト」&「首都高SPL」(加筆しました)
著者 楠 みちはる
1977年、『あこがれの白いスポーツカー』でデビュー。
代表作は、
『あいつとララバイ』
『シャコタン★ブギ』
『湾岸ミッドナイト』など。
本作は舗装され交通量も多い首都高が舞台ゆえにチューニングやクルマ製作を取り巻く事情など裏方について深掘りしたり、哲学じみたセリフも多く、読者の共感を呼んでSNSで度々引用される。
「湘南爆走族」著者、吉田 聡とならび登場人物の心情を哲学的にセリフで表現するのが共通点。
そこにあるのは必ず「無骨」なオトコと「優しい」オンナ。
流れてくるのは70年代ロックンロール。
(加筆分)
ずっと”残る人たち”を軸に、首都高から「降りていく人たち」を淡々と描いていくのが特徴。
本筋は「ロマン」を求めるおっさんたちの話で、首都高バトルは本筋じゃなくてレースを通して「自分の人生」にケリをつける話。
なおアシスタントに「頭文字D」のしげの秀一がいて二人は親交がある。
「湾岸ミッドナイト」は非合法を自覚した上で、交通量の少ない深夜の首都高を時速300㎞で疾駆する登場人物たち。
主人公とチューニング関係者との関係性、改造~首都高バトルを経て、その章の登場人物視点となり、主人公を見ている。
自分のクルマとの関りを振り返り、何かしら己の人生や生き方に答えを見つけ、首都高を降りていく。
それに対して主人公は走り続ける。
その生きざまと哲学(走り)が周囲のプロフェッショナルを魅了していく。
今回は楠みちはる作の自動車漫画「湾岸MIDNIGHT」の登場人物、”地獄のチューナー”北見 淳 風の口調でその魅力をちょっとだけ紹介する。
ソイツがさ、こー言うわけヨ。
「イニシャルDのほうが、スピード感あるし、勝ち負けハッキリしてるし、面白いジャン」
…ってね。
くくくっ、確かに、俺もそう思っていた時があったヨ。(笑)
コースは、いつも湾岸か首都高だし、スタートもゴールもハッキリしない。
最高速ばっかだし、イニDのほうが面白い、ってネ。
でも、今は違うー。
「友達」じゃないけど”仲間”なのいいよナ…
オンナの職業がキャバ嬢とモデル、銀行員しかない…
「齢とるとわかることがある」とよく言うけど、「 同時にわからなくなることもあるわけヨ」って言葉が味わい深い。
これだよみちはる オレ達が求めていたのはコレなんだ――
で――今回作中で響いた台詞
どうしてお前のクルマ漫画はこんなに響くんだ?
どうしてお前の描くキャラはこんなに響く台詞を言うんだ?
経験者が、押し付けがましい言い方をせず、フラットに教えてくれるヨ。
すっかり魅せられちまったんだよナ。
楠 みちはるに…サ。
工藤圭介、42歳。
GT-R専門のチューニングメーカー代表。彼の作るGT-Rは、絶品といわれ、数々の走り屋たちを魅了していた。
彼のもとに、元嫁と暮らす一人娘リカが現れる。
久しぶりの二人でのドライブ。
その時、すごい走りをする、ポルシェターボ911に遭遇する。
その出会いが、工藤圭介の人生を動かし、GT‐Rを縁とした人との出会いと別れが始まる。
続編の「首都高SPL」はGT-Rのチューニングショップ経営者が主人公。
国産の日産スカイラインGT-Rとポルシェ911がメイン。
此方はチューニング業界の中で生き残った中、ある出来事を切っ掛けにして、過去の自分が製作したコンプリートマシンを取り戻し、自分の原点に今の自分の持てる技術を投入して新たな路を拓く。
様々な縁が繋がることで過去の自分と新たな未来を模索する。
誌的で叙情的。
悩みや苦悩はあまりなく、既に迷う年齢を過ぎ、後進に路を指し示す立場に至る。
ある運命的な出合いを切っ掛けに、自分の生き方を捉え直すが、クルマに対してはずっと真摯に向き合っている。
(加筆分)
バトルする相手を認めた上で、自らのGTーRの4輪駆動を後輪2駆動まででデチューンして、バトルに臨む。
あくまでマシンの馬力を同列にした上で、乗り手の技量勝負、チューニングの技量という土俵を整えて「フェア」にバトルを希求する。
作中は一貫して非合法行為を認識した上で、可能な限り「一般車に対して迷惑をかけない」スタイルを貫いている。
「首都高で生き残った元走り屋たち」
今作は前作と比較してチューニングとバトルは控え、メインは主人公と関わった登場人物の現在と過去を丹念に描く。
チューニングショップと自動車雑誌含む出版業界の厳しい裏側、過去に同じ時期、首都高で走っていた走り屋とその家族(パートナーや娘)も含めてそのパートナーもなんらかの形で主人公と関わりがあったことなども深く描かれている。
その章ごとに登場人物は変わるが、前作「湾岸ミッドナイト」みたいにあっさりと過ぎ去る(消費)のではなく、今作の主要な登場人物は37~70代と決して若くないキャラをじっくりと時間をかけて描く。
もう20代の頃の様に「人生の時間と生活の総て」をクルマと走りに注ぎ込んでいない、「社会的な地位や肩書があり、守るべき家庭」もある。
その立ち位置を明確にした上で、物語は進む。
(加筆分)
出版業界を題材にしており、出版社らしく文学者らしい比喩や例えが良く登場する。
例えクルマに詳しくなくても「読書好き」な人にも心情が理解しやすく、手に取る価値がある。
恐らくクルマ乗り(チューナー)の中にこれほど繊細に深い思慮で相対している描写があることに驚くことだろう。
なぜ、「スポーツカー」に魅了されるのか?
なぜ、「速さ」に拘るのか?
単なる「移動手段」ではない、男が”モノつくり”に熱中する理由が作品内の随所に散りばめられている。
単に『好きだから』という誰でも思い付き、口にするチープな理由ではない。
じっくりと「元走り屋がなぜ首都高を去り、その後(第二の人生)を歩んだか?」を深掘りしていく。
主人公より年長の70代老紳士の現役走り屋がこれまた含蓄ある話をする。
行先は北海道と北の大地まで赴き、同年代の元首都高の走り屋とバトルを通じて、相手は若かりし頃にケジメと答えを見つけてまた、平穏な日常に帰っていく。
分別ある大人が貸し切りのコースなどを借りてバトルを行うが、勝負の趨勢は相手の一寸した判断ミスなどで決する。
決してなれ合わず、スマートに別れる。
このスタイルが「理数系&理知的な走り屋」と”峠道をカニ走り”しているドライバーとの決定的な違い。
この点が楠みちはるとしげの秀一の決定的な作品の違い。
「勝敗」に拘るのではなく、メカとの係わり方や「自分の限界」を悟ることで決着がつく。
(加筆分)
湾岸ミッドナイトは主人公が対戦者のクルマのチューンに手を貸すが、首都高SPLは対戦者が自ら仕上げた過去の愛車でバトルを挑む。
登場人物もポルシェ911乗りの20代の明彦や実の娘のリカ以外は、ほぼ37歳以上と年齢設定は高め。
「生き残った走り屋達」の含蓄あるセリフが読み手の心に残り続ける。
この作品もだが、作者の一貫したテーマとして「人との縁」「出会いと別れ」「走り屋としての精神的成熟」を丹念に描く。
楠みちはる作品は一貫して文字数が少し、多い。
あらゆるものに意義を見出す傾向がある者には、この作者の漫画は心の琴線に触れる。
それが、また読み手が巧く説明できない、自分のクルマに対する哲学や心情を言語化、気づかせてくれる。
「湘南爆走族」の吉田 聡が昭和時代の高校生が自身が持て余す「行き場のない熱情」を描くように。
楠みちはるは「湾岸ミッドナイト」で20代の”生活の総て注ぎ込んだ飽くなき最高速の渇望”を、「首都高SPL」ではアラフォー世代の首都高の生き残りの「若き日の心残り」と「人との縁」を描く。
読み手に”説教”臭く感じさせない、簡潔だけど絶妙な言い回しで「スッ」とキャラの吹き出しの中に、作者の気づきと諭しで「走りの卒業と自分の人生を見つめろ」と伝えてくる。
「好き」は継続しにくい。
「好き」以外の理由がないと、長い時間付き合えない。
それを「自分の言葉に変換することで再確認できる」のがインテリジェンス。
”他の言い回し”で言い表せず、「好き」としか言えないことを「こだわり」と自分は表現する。
インテリジェンスは自分を俯瞰して全体像として物事を捉える。
相手と自分との線と距離を保つが、クルマとの関り方がシンクロ、共感する。
だから仲間が多い。
(加筆分)
経済面。
・インテリジェンスは知性(学力)が高いため、職業選択に自由があり、高収入な職につけて、それに見合った社会的な人物と交友関係が構築できる。
また自分が選んだ「モノの(資産)価値」を正しく理解した上で、丁寧に扱う審美眼を備えており、手放す時も相応の値段に。
そういう人間性の者には、良い話(出物)が舞い込む。
誰しも価値がわかる、大事に扱って後世にバトンタッチしてくれる人に譲りたいと思うもの。
資産家や経済的に豊かな趣味人に「クラシックカー愛好家」が多いのもこの理由だ。
(加筆分)
修理・カスタム貧乏の愛車は散々カスタム&クルマ自体が傷み、ディーラー下取り価格は屑鉄同然。
「ノーマル車」に戻してから下取りに出す、という発想がない。
また「カスタム済でお得ですよ」と唆されて買う情弱パターンも。
所謂「カスタム/修理貧乏」といわれる貧乏のスパイラルだ。
私の場合は大型自動二輪免許取得後、最初のバイクがイタリアのDUCATI900ssだった。
当時26歳。
本来なら50代の経済的にゆとりがあり、腕自慢のベテランライダーが好むバイクだ。
それを手に入れてから、付き合う人種が変わった=人生が変わった。
しかし、「豚に真珠」「馬子にも衣裳」と言われるのはイヤだったので、日本語訳の専門書を熟読して作り手の哲学(フィロソフィー)を知り、全国を旅してライディングスキルを磨いて釣り合うように努めた。
その甲斐あって、他の愛機をつるむ相手と走る路面に応じて増車していったが、格安中古で手に入れたが真っ先に「修理貧乏」にならないようにまず、新車に近づけるようにレストア作業に着手していった。
メーカーの整備書を手に入れ、工具を揃えて自分の手ででレストアしていく。
仕上がったマシンを見て、診る人が見たらわかる=信用につながることを30歳までに得られた。
楠みちはるの作品を読んで、気付いたことがある。
登場人物は仕事が出来て、それに見合った社会的信用と高収入の上で確信犯的に非合法(首都高バトル)を行ながら、その責任(非合法行為)から逃げない。
単にクルマに高額な性能アップを施して”消費する”だけでなく、そのクルマを仕上げたチューナーが乗り手に「自分の哲学(技術)を理解できるか?扱いきれるか?」と突き付ける。
乗り手と作り手、双方が互いにシンクロし、影響を受け合う。
またバトルする相手でありながら、走るうちに相手を理解していき、その走りは「ワルツを踊る」ように”シンクロ”していく。
「言葉」ではなく、「クルマを介してのみ、お互いに分かり合えない」。
そこには、直接的な会話はなくとも、その「相手の走り」で理解していく。
「言葉」にしないと理解できない女と違い、言葉はなくともその「行動」で理解し合える。
これは過去に取り上げた「capeta」にも共通する。
読み手に「インテリジェンス」を要求する。
難しいことが理解できない
日頃から考えたこともない
自省もしない
読書もしない
ずっとピーターパンみたいに生きていたい者には、楠みちはるが語りかける珠玉のセリフ(人生訓)は到底受け入れることはない。
30代、40代になっても20代みたいなガキのような幼稚な精神性で世の中に迷惑をかける。
「読むロードムービー」漫画。
ロードムービーは旅路で様々な背景を持つ人と主人公は出会い、何かしらの影響を少なからず受け、そして別れてまた先に進む。
「また、いつか!」と別れ際に口にするが、二度と相まみえることはない。
自分も「旅を人生の目的」にしているので、なぜ楠みちはるの作品、その台詞に心惹かれるのか?という長年の疑問に答えが出た気がする。
人と出逢いの中から自ら気付き、精神的に成熟して、より深みを増す。
老いて自分が他人に影響を与えている、何気なく言ったその一言が聴いた相手の人生に影響を与えてしまう。
※この話は自分にも無関係ではないので、過去を思い出していずれ考えを纏めてNOTEに上げたいと思う。
この作者の精神性が、各年代ごとの作品に投影されている。
なので50代でもスッとセリフが心に染み入る。
読み手にも作者に近しい精神的成熟という基礎を備えていることが、最低限のスタートライン。
その上で読み手が人生の経験を重ね、それなりの収入を得る立場になった時に読み返すとまた違った「老いての気付き」と「人生の味わい」をもたらす。
おそらく漫画という表現手段を用いずとも、文章表現だけで作品として成立させられる”原作者”としての資質を併せ持つ、稀有な漫画家は非常に数は少ないがいる。
湘南爆走族の「吉田 聡」がそうであるように。
メダリストの「つるまかいだ」がそうであるように。
(加筆分)
最期にこの楠みちはるの作品を総評すると「愛車とオーナーが写った一枚の写真」に行きつく。
半生という、お金と時間をかけて少しづつ仕上げた愛車とその愛車と釣り合うように努めたオーナーの姿が映る。
釣り合うための努力は、歴史が古いアイルランド地方の「ウイスキー(アイリッシュウイスキー)」と同じようなモノで、人生の時間という「樽」の中で、静かに自分を熟成させないと味わいは出ない。
精神の熟成に、近道はない。
ある人は額装して自分の書斎に飾る。
別な者はそっと机の引き出しに仕舞い、見ると表情が綻ぶ。
オヤジ、この写真に写っているクルマはなんて名前なんだ?
娘なら「この車はなんていう名前…?」
そう尋ねられた時に、自慢したり、語れるオヤジの人生はきっと幸せなんだろう。
