練習のしすぎは、砂糖の入れすぎのようなもの
2024年7月11日(木)朝の6:00になりました。
ただ練習するのではなく、その秘密に入り込む練習をしなさい。
どうも、高倉大希です。
練習どおりにできなかったので、悔しいです。
子どもたちと話していると、ときどきこんな言葉を耳にします。
アウトプットは、申し分ありません。
何なら、その出来栄えに感心するくらいです。
それにも関わらず、子どもたちはこう言います。
練習どおりにできなかったので、悔しいです。
そこで彼が父親と共に取り組んだのが「テニスボールやマンゴーなどの果実で練習する」という独自の方法です。(中略)球技においては「ボールが友だち」とばかりに、どれだけの時間をボールと過ごしたかがスキルに関わると考えられてきましたが、ペレ親子は「高次元の技術を引き出す負荷」をかけて練習してきたのです。
練習どおりに再現することが、目的になってしまっているな。
若手芸人の漫才を見ていると、ときどきこんなふうに思います。
一方でベテランの漫才師は、お客さんからの返りをよく見ています。
返りに合わせて、表情や間を調整します。
突然客席で赤ちゃんが泣きはじめても、アドリブで対応できます。
はじめから、練習どおりに再現することが目的ではないからです。
ほとんどの場合に問題になるのは、方法であり、手段であった。ときとして、目的・目標ばかりでなく、方法・手段そのものも所与のものとされ、教官や各種の操典が指示するところを半ば機械的に暗記し、それを忠実に再現することが、最も評価され、奨励されさえした。いわば「模範解答」が用意され、その解答への近さが評価基準となっているのである。
練習どおりに再現することが、目的になっている。
それすなわち、目の前に誰かがいる必要がないということです。
せっかく目の前に人がいるのに、まるでいないかのように展開される。
それならば、動画を撮って再生すりゃあ済む話じゃないかと思います。
皮肉なことに、練習を頑張れば頑張るほどこの傾向に陥ります。
頑張ったというその事実を、捨てられなくなってしまうからです。
30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然だし、50歳、60歳になってもまた変わってくる。同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。
だから、練習を頑張りすぎるのもそれはそれでよくないのかもしれません。
いざうまくいかなかったときに、頑張った過去が足枷になってしまいます。
その点で言えば、サプライズムービーなんかもなかなかに危険です。
観ている人の反応に関わらず、最後まで流すしか手がなくなってしまうからです。
練習のしすぎは、砂糖の入れすぎのようなもの。
目的を明確にした上で、ほどよい練習を重ねたい限りです。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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