先生の授業がわかりづらいせいで
2025年7月12日(土)朝の6:00になりました。
映画館のサイトって、どうしてこんなに見づらいんだろう。
どうも、高倉大希です。
「先生の授業がわかりづらいせいで、自分は数学ができないんだ」
中高生と話していると、よくこんな話を耳にします。
言わんとしていることは、わかります。
学習において、授業のわかりやすさはとても大切な要素です。
だからこそ、教育関係者は自己研鑽をやめてはならない。
いつも、そう思います。
ぼくは、先生の役割って、一つの狭い常識のなかで生きている人に、そうじゃないよと教えてくれて、でも、その答えは自分で見つけなさいよといってくれることだと思います。だから、先生を見て、「ぼくって、わたしって、ちっちゃいなあ」と思えるような人じゃないとダメなんじゃないかなって思います。
だからといって、一緒になってその先生のことを悪く言うわけにはいきません。
生徒は生徒で、考え方を更新する必要があります。
「じゃあ、わかりやすい先生が赴任してくるのを待つの?」という話です。
「わかりやすい先生が授業を担当してくれるように祈るの?」という話です。
他の先生に質問したり、授業動画を探したり。
仮に先生の授業がわかりづらかったとしても、自分にできることはあるはずです。
いろいろ文句を言うことによって、人間はうまく安定を保っていることが多いのではないだろうか。私も忙しくて本が読めないなどと言っているが、もし暇になっても、決して今より多く本を読むことなどないのではなかろうか。
自分では何もしないままに、ただ文句を言っている。
それは一体どうなんだい、なんてことを思うわけです。
エサを与えてくれるのを、ただただ待って。
エサがまずい、と文句を言って。
気持ちは、わからなくもないけれど。
誰も、ハッピーではありません。
学びとは本来、「学びたいから学ぶ」という、自らすすんでする行為なはず。それなのに、学校は学びを「教わる」という受け身のものに変え、子どもたちを「教育サービスの消費者」に仕立て上げてしまいました。
だからといって、生徒が悪いのかというとそんなこともありません。
彼らにとって何かを与えてもらうことは、ある意味当然のことだからです。
ごはんを食べさせてもらって、服を着させてもらって。
幼少期は、与えてもらわないと生きていくことができません。
そこから少しずつ、自立するのが成長というものです。
大人は大人で、与えすぎない勇気をもたねばならぬのかもしれません。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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