正解よりも「ノリ」と「想像力」。行き違いを楽しむコミュニケーション
以前働いていた職場でのこと。 前の席に座っていた同僚が、電話口で必死に何かを伝えていました。
どうやら、うちの会社の電話番号(末尾が「○○99」)を相手に教えているようなのですが、その様子がどうも尋常ではありません。
「はい、○○の、99(きゅうきゅう)です」 「……いえ、きゅう、きゅう、です」 「きゅ・う!きゅ・う!」
最初は活舌良く、ゆっくり丁寧に伝えていたはずが、徐々に声が大きくなり、しまいには顔を真っ赤にして興奮状態に。
電話を切った後、思わず「何があったの?」と尋ねると、同僚は疲労困憊した顔でこう言いました。
「何度『きゅうきゅう』って丁寧に言っても、相手から『チュウチュウと言われましても…』って返される!」
「チュウチュウと聞こえても、電話番号なんだから『99』と捉えろよ!」と怒り心頭の同僚には申し訳ないですが、私はその状況がたまらなく面白くて、思わず吹き出してしまいました。
喜劇と悲劇は表裏一体
確かに、受話器の向こうからネズミの鳴き声が聞こえてきたら戸惑う気持ちも分かります。しかし、ここは電話番号を確認しているという明確な「文脈」があります。
これって、間寛平さんの往年のギャグ「本気ですか?」「誰がモンキーやねん!」のくだりと全く同じ構造ですよね。
外から見ている第三者にとっては、完璧なアンジャッシュ状態のコント空間でしかなく、最高に面白いエンターテインメントです。しかし、いざ自分が「99」を伝えたい当事者になると、その苛立ちは痛いほど分かります。
言葉の「音」という極めて狭い範囲の情報だけで判断して思考停止してしまうと、こうしたコミュニケーションのバグが起きてしまうのです。
「何とかなる精神」が招いた迷宮
では、逆に「文脈やニュアンスだけで乗り切れるか」というと、そう甘くもないのがコミュニケーションの面白いところです。
私自身、相手の言葉(音)が本当に分からなくて、ニュアンスだけで乗り切ろうとして大失敗した経験があります。
ある日、かかってきた電話に出ると、声だけで「分かる?」と言われました。 とっさに誰だか思い出せなかったものの、持ち前の「何とかなる精神」が発動。
「おー!久しぶり!」
そう元気よく返し、会話のキャッチボールを続けていれば、そのうちヒントが出てきて正体が分かるだろうと高を括っていました。
……結果から言うと、最後まで誰だか全く分からないまま電話を切りました。 相槌を打ちながら頭の中では「誰だ?誰だ?」とフル回転していましたが、文脈の糸口すら掴めないまま、ただただ謎の人物と親しげに会話をするというシュールな時間を過ごす羽目になったのです
「言葉の額面」と「前後の文脈」のバランス
同僚の「チュウチュウ事件」と、私の「謎の旧友事件」。 どちらが正しい・間違っているという話ではありません。コミュニケーションとは、発信者と受信者の共同作業なのだと改めて感じます。
言葉の「音」や「字面」という表面的なデータだけを受け取るのではなく、その言葉が発せられた前後の文脈、状況、相手の意図(ニュアンス)を想像して補完すること。 これこそが、人間同士のコミュニケーションにおける「余白」であり、醍醐味ではないでしょうか。
ちなみに、私の名字は「タムラ」ですが、会話の流れの中で明らかに私に向かって「ムラタさん」と呼びかけられたなら、そのニュアンスを汲み取って「はい」と普通に対応します。
なんなら、その場の空気感や文脈によっては「キタムラさん」と呼ばれても、笑顔で返事をする準備はできています(笑)。
「チュウチュウ」と聞こえても、「99」かもしれないと想像してみる。 少しの想像力とユーモアの余白を持つだけで、私たちの日常はもっと柔らかく、そしてちょっとだけ面白いものになるのかもしれません。
