京浜電気鉄道 穴守線開業【6月28日 今日は何の日】(蒲田東・糀谷・羽田特別出張所) #372
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穴守稲荷神社の起源
江戸時代に、
羽田猟師町の鈴木彌五右衛門が
羽田浦や要島と呼ばれた
この地を開拓。
その際
洪水除けとして祠を
勧請されたのが始まりとされる。
(諸説あり)
社号「穴守神社」の官許
1886年 (明治19年) 11月
「穴守神社」という
社号が官許され、
鈴木新田内の広大な土地に
萱葺の社殿が建立される。
イロハ講
1886年 (明治19年)
日本最大の
牛鍋チェーン店であった
「いろは」の経営者木村荘平が
一族郎党40名余を
引き連れて参拝した。
この参拝がきっかけとなり、
最初の講社「イロハ講」が成立。
穴守稲荷は
ここから急速に信仰圏を拡大し、
参詣者が増加していく。
温泉の発見
1896年 (明治29年)
鈴木新田の和泉茂八が
鈴木新田字東崎661にある
井戸から天然ガスと
鉱泉が湧出した。
同9月23日
成分を検査したところ
ナトリウム冷鉱泉であることが認められ
「泉館」を開業。
続いて
要館・羽田館・西本館が相次いで創業。
こうした温泉宿の成立により、
穴守稲荷神社周辺は
保養地としての性格を強め、
東京近郊の一大観光地へと
変貌していった。
穴守稲荷神社の隆盛
明治30年代にはいると
その賑わいは
川崎大師と肩を並べるほどとなった。
穴守道・稲荷道の開通
1899年 (明治32年)
日本橋小網町の
塩問屋「きぬかはや」をはじめとする信徒らが
大鳥居駅付近から海老取川までの
長さ1000間幅2間におよぶ
土地と工事費用を奉納し、
通称「穴守道」「稲荷道」とよばれる
新道が開通した。
この新道には店が立ち並び
参詣者の主要動線となって、
穴守稲荷の賑わいをさらに押し上げた。
入口には
参詣道の象徴として
「鳥居」が建立され
これが後の「大鳥居」駅の
駅名の由来となっている。
京浜急行開業前の未成線計画
山谷(現・大森町)駅を経由して
路線が計画されたが、
最終的には
直線距離の短い蒲田が選ばれ、
山谷案は実現しなかった。
計画は次のように
申請・変更が重ねられている。
①山谷~鈴木新田
1899年 (明治32年) 4月12日申請
②大森停車場~山谷~鈴木新田
1899年 (明治32年) 4月28日変更
③大森停車場~山谷~稲荷橋・中村
1900年 (明治33年) 2月14日変更。
いずれも
穴守稲荷への参詣需要を見込んだ
構想であったと思われる。
蒲田駅設置の請願
1899年 (明治32年)
穴守神社信徒惣代および
羽田村人民惣代らは、
既に出ていた
蒲田駅の設置を求める請願に
便乗するかたちで請願を行った。
穴守稲荷への参詣需要が高まり、
地域の交通改善を求める
大きな力となっていたことが読み取れる。
鴨場の設置
1900年 (明治33年)
黒田候爵家の鴨場が
赤坂から移転し
羽田鴨場が設置された。
これに続き
要館や横浜の実業家・渡辺良平が所有する
鴨場も設けられ、
羽田一帯は
鴨猟の場としても発展していく。
周辺の料亭では
鴨料理が名物となった。
四方面径四尺の干支附大時計台
1901年 (明治34年)
中央新聞社が主催した
「府下羽田穴守境内」が
1位335,934票を獲得。
その賞品として
境内に総高46尺6寸の
「四方面径四尺の干支附大時計台」が
中央新聞社より奉納され、
11月8日に落成式が行われた。
この大時計台は、
当時の穴守稲荷が
“東京近郊屈指の行楽地”として
評価された象徴となった。

出典:穴守稲荷神社
穴守線の開業(現・空港線)
京浜電気鉄道は、
穴守稲荷神社への参詣輸送を目的とした
日本初の参詣路線を計画した。
1902年 (明治35年) 3月
蒲田駅から羽田(海老取川手前)間の
工事に着手
同6月28日
穴守線は開業した。
これにより、
穴守稲荷への参詣は
飛躍的に便利となり、
羽田一帯は行楽地としての地位を
さらに確かなものにしていく。
この背景には、
すでに京浜電気鉄道が
川崎大師への参詣輸送で
成功を収めていたことがある。
その成功体験が、
穴守稲荷への路線計画を
後押ししたと考えられる。
羽田駅が海老取川を渡れなかった理由
穴守線(現・空港線)の開業当初、
終点の羽田駅は海老取川の手前に置かれ、
川を越えて穴守稲荷神社の近くまで
線路を延ばすことはできなかった。
その背景には、
次のような事情があったと考えられている。
市街地の形成 —
当時穴守稲荷神社周辺は
すでに店舗や家屋が密集しており、
新たに鉄道用地を確保することが
難しかった。
人力車稼業の反対 —
参詣客を運んでいた人力車業者にとって、
鉄道が神社近くまで延びることは
死活問題であり、
強い反対があったとされる。
こうした事情が重なり、
穴守線は海老取川を渡らず、
川手前の羽田駅を終点とする形で開業した。
その後の穴守線の賑わい
その後穴守線沿線には、
稲荷橋開通(1903)
羽田運動場(1909)
羽田穴守海水浴場(1911)
穴守駅開業(1913)
日本飛行学校(1916)
羽田競馬場 初代(東糀谷)(1927)
東京飛行場(羽田空港)(1931)
羽田競馬場 2代目(鈴木御台場)(1932)
が昭和初期までの
代表的な施設です。
現在の空港線
新空港線(蒲蒲線)が計画されており
東急多摩川線から
空港方面へ延伸される予定である。
参詣路線・穴守線として始まった路線は、
時代とともに姿を変えながら、
いまは羽田と世界を結ぶ
重要な交通軸となっている。
おわりに
新空港線の計画には
さまざまな意見がありますが、
この路線が
大田区と羽田空港を結ぶ
新たな交通軸として整備され、
地域の発展につながることを
期待したい。
Otapediaは、
穴守線を
「大田区無名の呼称」
として
穴守線が開通した
6月28日を
「大田区記憶の日」
として記録します。
大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動
私たちは、
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。
彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡を
未来へと伝えていきます。
これらの呼称は
「Otapedia独自の呼称」であり
「大田区公式の認定ではありません」。

出典
1. Wikipedia『京急空港線』
2. Wikipedia『穴守稲荷神社』
3. Wikipedia『京急本線』
4. Wikipedia『京浜急行電鉄』
5.『京急電鉄 明治・大正・昭和の歴史と沿線』宮田 憲誠著
6.『東京羽田 穴守稲荷神社』(Google フォト)
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