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川田谷五郎の功績と「大森細工」の継承 川田商店 (六郷特別出張所) Part 2 #28

※本記事は
 Otapedia 公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
 公開しています。
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・前段

  川田谷五郎が生み出した
  「麦稈真田」は、
  やがて地域産業を支える
  重要な基盤となりました。
  本稿では、
  その功績がいかに広がり、
  後継者たちへと受け継がれていったかを、
  「大森細工」の系譜とともに辿ります。

  ※Wikipedia麦わら帽子では、
   「日本初の麦わら帽子」
   1872年川田谷五郎と
   表記されている一方、
   
   他史料では、
   1877年 (明治10年)
   第一回内国博覧会において、
   初めて「麦稈製夏帽 (麦わら帽子)」を
   出品されたと記されており、
   史料間で相違が見られます。


④ 六郷の新名物:
  谷五郎の「麦稈真田」の誕生

 1872年 (明治5年)
  谷五郎はある日、
  横浜で外国人が被っている軽やかな
  夏帽子から発想を得て、
  研究苦心の末、
  大森細工の伝統を踏まえて、
  新しい帽子材料の開発に成功しました。

  その精巧な形状が、
  木綿真田紐に酷似していたので、
  「麦稈真田 (ばっかんさなだ)」と
  名付けられました。

  この麦稈真田は、
  その後の麦わら帽子の主要材料となり、
  六郷の地に
  新たな新しい名物をもたらし、
  殖産産業の一つとして、
  麦稈真田業誕生しました。
 
  ※麦わらを4回折り合わせ
   菱形の編目を作り、
   それを表面にきれいに連ねて、
   ふっくらと丸みのある形に
   仕上げるのが特徴であることから、
   「しあわせ (4あわせ)」に転じて
   縁起物としても注目を集めました。

大森細工
出典 麦わら細工の輝き

⑤ 谷五郎世界へ挑む:
  麦稈真田日本の重要輸出品へ

 1874年 (明治7年) 
  貿易商ジョン・モリスが、
  推薦文と共にその標本を、
  本国アメリカに送ったところ、
  たちまち3,000本注文
  舞い込みました。
  翌年・翌々年も同様の
  注文を受けました。

  以降、品質の改良を重ね、
  海外輸出に力を注ぎました。
  その評判は、
  関東一円にも広まりました。
  
  こうして麦稈真田は、
  当時の主要輸出品であった
  生糸肩を並べる製品へと
  成長しました。


⑥ 内国勧業博覧会での飛躍:
  谷五郎明治天皇に拝謁

 1877年 (明治10年)
  第一回内国勧業博覧会に、
  大森村島田十郎兵衛が、
  初の「麦稈製夏帽 (麦わら帽子)」を
  出品したとする記述があります。
  この際、谷五郎の「麦稈真田」が、
  使用されたかどうかは不明であり、
  史料間で相違が見られます。
  ※情報のブレ (2025年6月19日追記)

 1881年 (明治14年)
  第2回内国勧業博覧会
  出品された際、
  廃材とみなされていた
  麦わら再評価され、
  それが国内各地へと
  広がるきっかけになりました。
  また会期中に
  明治天皇拝謁し、
  光栄も賜りました。
  
  ※開催期間
   1881年 (明治14年)
   3月1日~6月30日

   開催場所 東京上野公園
   入場者数 823,094


⑦ 事業の拡大 絶え間ない挑戦で
  生まれた技術革新

 1883年 (明治16年)
  麦稈真田の編み方均一にし、
  生産体制を確立するため、
  羽田
矢口川崎工場新設し、
  さらなる研究を進めました。

  これは、現在の大田区における
  初めて近代的な工場生産の始まり
  
だったと言えるでしょう。
  
これにより、
  国内外での普及輸出を推進しました。

 1885年 (明治18年)
  谷五郎は農商務省の命令で59種の標本を、
  アメリカ・イギリス・フランス
  ・イタリア・スイスなどに送ります。
  ※農商務省とは、現代で言う
   農林水産省と経済産業省
    (追記2025年6月19日)

 1891年 (明治24年) 8月
 
 広島兵庫香川など、
  後発地域との競争が激化します。
  そこで、長男廣太郎と共に、
  今でも海水浴場などで、
  使われている帽子の材料に適した形の、
  新たな技術「経木真田」を開発しました。
  ※『大森麦稈細工沿革略記』廣太郎著書より

武蔵国荏原橘樹
麦稈真田改良之証
明治31年6月1日発行
川田廣太郎の名前も確認できる。
出典 麦わら細工の輝き

⑧ 緑綬褒章に輝く:谷五郎の多大な功績

 1899年 (明治32年) 5月1日
  
谷五郎は、長年にわたる技術革新と、
  真田業発展の貢献が認められ、
  緑綬褒章栄誉に輝きました。
  「心ヲ殖産ニ傾ケ意ヲ貿易ニ注ぎ、
  地方固有ノ麦稈細工ヲ応用シテ
  草茎帽子地ニ供センコトヲ企図シ、
  刻苦研精初メテ麦稈真田紐ヲ案出シ・・・・
  今ヤ輸出重要品ノ、一二算セラルゝニ至リ、
  細民子女ノ生業ニ稗益ヲ与フル少ナカラズ、
  洵ニ実業ニ精励シ衆民ノ模範タル者」

 1903年 (明治36年) 
  この頃谷五郎は、
  娘のむらと結婚した、
  川田諒次に事業を託しました。
  遺志を継いだ諒次はこの年、
  若干26歳の若さで、
  麦稈及経木真田同業組合組合長
  推挙されました。


⑨ 日本での褒章に続き
  世界でも評価を受けた麦稈真田

 1904年 (明治37年) 
  アメリカ
セントルイス万国博覧会に出品、
  金メダルを授与する快挙。

   ※ルイジアナ買収100周年を記念し、
    アメリカ合衆国
    ミズーリ州セントルイスにて、
    60か国が参加し、
    4月30日~12月1日まで開催された。
    来場者数は、
    1,969万人であった。
    また同年には、
    セントルイスオリンピック
    同時に開催されるなど、
    記念すべき年でもあった。

   ○豆知識 この博覧会において
       アイスティーが誕生した?
       という説がある。


⑩ 偉大な功労者の旅立ちと迫りくる影

 1907年 (明治40年) 7月
  東京勧業博覧会にて
  経木真田が褒章を受けました。
  ※受賞者は川田諒次となっており、
   後継者に託された事実が読み取れます。
    (2025年6月19日追記)

東京勧業博覧会受賞人名録
出典 大田区史・下巻

 1911年 (明治44年) 10月20日
  真田業界に多大な貢献をした、
  川田谷五郎が71年の生涯を閉じました。

 1911年 (明治44年)
  同じころ、
  六郷村の高橋喜三郎
  荏原郡物産共進会に、
  麦わら細工を出品し、
  東京府知事阿部浩から、
  銀杯表彰状を受けます。
  
  ※共進会とは、産業の振興を図るため、
   産物や製品を集めて展覧し、
   その優劣を品評する会。(競進会)
   明治初年代より
   各地で開催されていました。
  
  ※1916年を頂点に、
   麦わら細工の生産量は、
   低下の一途を辿り始めます。

  大正時代に入ると経木真田から
  さらに麻真田事業
  変化せざるを得ませんでした。
  (追記2025年6月19日)


⑪ 川田商店の存在意義と真田業の衰退

 昭和に入り、
 産業構造の変化と、
 新たな素材の登場により、
 麦稈及び経木真田産業は、
 その役割を終えようとしていました。

 また、
 昭和元年の地図には「川田〇〇製造所
 の文字は確認できるものの、
 しかし、「川田商店」の名前は、
 そこにはありませんでした。
 これは、なんらかの変遷があったことを、
 示唆していますが、
 その詳細な記事は見つかっておりません。

川田〇〇製造所とある
川田商店の文字は見当たらない
出典「大東京職業別明細図之内 東京府」
(昭和元年)

⑫機械化の波

1928年 (昭和3年) 
ブラザー工業
麦わら帽子製造用環縫ミシン』を
販売したことで、
麦わら帽子の大量生産が可能となった。

これにより、
六郷で発祥した麦稈真田による
手工芸的生産
次第に競争力を失い、
衰退へと向かっていった。
 2025年12月8日追記


⑬ 真田業界の終焉

 1931年 (昭和6年)
 六郷町長代田朝義は、 
 「1.麦稈 経木及麻真田 右該当無之報告候也」
 と、
 東京府知事に報告書を提出しました。 
 こうして、60年間続いた、
 六郷地域での真田業の終焉が告げられました。
  ※代田朝義 六郷信用組合長→城南信用金庫
       
大田区長を務める


⑭ 川田商店のその後

 詳細な記述は見つからず、
 消息不明です。
 
 現在雑色駅周辺には、
 川田姓は数多く存在します。
  
 取材を試みましたが、
 谷五郎の直系子孫を示す人物は、
 確認できませんでした。


⑮ 伝統を紡ぐ者 - 確かに引き継がれたバトン

 現代では、
 大森麦わら細工の会が設立され、
 歴史を継承しています。
 (残念ながらHPは2007年以降
  更新されていない模様) 

 真田業は終わりを迎えたましたが、
 伝統の大森細工
 後世に引き継ぐ者がおりました。
 前出の高橋喜三郎氏の孫、
 高橋雄喜次氏です。

 彼が、戦後早々に作った数々の作品が、
 没後の1999年 (平成11年) 9月に開かれた、
 大田区立郷土博物館の特別展、
 「麦わら細工の輝き」に展示されると、
 人々に感動を与え、
 有終の美を飾りました。
 高橋雄喜次氏は、
 大田区内最後の
 大森細工職人
とされています。

 別史料によると、
 
大森細工最後の職人は、
 
その卓越した伝統技術継承するため、
 修善寺麦わら細工職人
 初代辻氏託しました

 
途絶えかけた伝統技術は、
 大田区から修善寺へと舞台を移したものの、
 確実に後世へと受け継がれました。
 ※大森細工最後の職人とは、
  氏名の記載はないものの、
  高橋雄喜次氏である可能性が高い。

 現在『大森細工』を操る職人は、
 世界でもこの辻親子のお二人だそうです。

 彼らはその技術を生かして、
 富士浅間神社への奉納や、
 ウクライナ支援のための寄付活動など、
 国内にとどまらず、
 グローバルな社会貢献を行い、
 未来への懸け橋として活動を行っています。

大森細工を継承した辻親子
民藝麦わらの店 晨〜あした〜     
大森麦わら細工セット 300円
出典 大田区立郷土博物館  

⑯ 最後に

Otapedia
川田谷五郎氏
以下の称号で顕彰します
麦稈真田の父
第一回の東京府議会議員
荏原郡選出に当選したことによる
大田区東京都都議会議員の父
功績と数多くの称号により
大田区準特別顕彰区民
と位置づけます。

大田区最後の
大森細工とされている
高橋雄喜次氏
大田区無名の偉人

また
大森細工を継承した
修善寺の辻親子
大森細工真の継承者

麦稈真田経木真田大森細工
大田区無名の産業

大森細工を通じて
社会貢献活動を行い
技術継承拠点となっている
民藝麦わらの店 晨〜あした〜
大田区無名の組織・集団
として登録します。

川田谷五郎氏は
1899年 (明治32年) 5月1日
緑綬褒章を授与されています。

大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動

私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。

彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡
未来へと伝えていきます。

これらの呼称は
Otapedia独自」の記録上の呼称であり
大田区公式の認定ではありません」。

出典
 1.『大森麦稈細工沿革略記』川田廣太郎著書
 2.「大東京職業別明細図之内 東京府」
 3. 大田区ホームページ:大田区立郷土博物
 4.麦わら細工の輝き 大田区郷土博物館
 5. 民藝麦わらの店 晨〜あした〜
 6. 大田区史 下巻
 7. Wikipedia 麦わら帽子
 8. 六郷わがまち 第25号 平成12年12月1日 発行
  大森細工 高橋雄喜次 
※ヘッダー写真 

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