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【創作】匿名の後見人 第1章

⑴馬車はどこへ行く
 夜明けまえ、大通りのはずれに二頭立ての馬車が止まった。
 紋章つきの扉がひらくと、中からモントフォード家の嫡男、アーサー・グレイヴズ・モントフォード子爵が出てきた。アーサーは乗りつけた二頭立ての馬車を帰して、ベルモント男爵家の三男オスカー・ベルモントが用意した、地味な仕立ての馬車に乗り換えた。
 二人を乗せた馬車は、大通りを抜けて街道へ出た。馬車が街道をそれてわき道へ入ろうとしたとき、アーサーがオスカーに向かって口を開いた。
 「そろそろどこにいくか話してもいいんじゃないか?」
 馬車に乗り込むときには暗かった空が、しだいに明るくなってきた。
「着いてからのお楽しみ、といいたいところだが、君のなりは目立ちすぎる」
 オスカーはアーサーの問いをはぐらかした代わりに、アーサーの衣服に対して無遠慮な視線を投げかけた。
「いわれたとおり狩猟用の外套を着てきたよ」
 アーサーは丸い山高帽のつばに手をかけて、不服そうに声をあげた。
「ああ、ひと目見て上等だとわかる。君は何を着てもお似合いだよ。いいかいアーサー、だまって俺の外套に着替えるんだ」
 オスカーは有無を言わせぬ口調でそう言うと、すぐさま外套を脱いだ。
「そのきどった山高帽も、俺のハンチング帽と交換だ。早くはやく」
「気に入らないな」
 アーサーはオスカーの外套を手にしたまま動かなかった。
 そうしているあいだにも馬車は細いわき道を駆けていく。
「いいかい、子爵様? 場所には相応な服装ってものがあるんだよ」
 オスカーが外を気にしながら言った。しかしアーサーは動かなかった。
「だったら君はその場所にふさわしい人間ってことかい?」
「ああ、君よりは心得てる。ほら、行きたくなってきただろ?」
「馬鹿げたドレスコードだ。少なくとも女がらみじゃないってことはわかる」
「そう、男だらけだ」
 オスカーが笑う。アーサーは一瞬あっけにとられた。
「まさか、これから? あるのかい?」
 興奮気味に目を見開いたアーサーを見て、オスカーが満足そうにうなずいた。
「ああ、もう始まってる頃合いだ。だが、ちょうどいい」
「なんだ。そうといってくれれば、僕だってもっとマシな服を着てきたよ」
 アーサーはいそいで自分の外套を脱ぎ、オスカーの外套を着た。つづけてアーサーがハンチング帽をかぶろうと頭をかたむけたとき、オスカーが髪に手を伸ばしてきた。
「いつもながら整いすぎだ」
 オスカーの手がアーサーの髪をぐしゃぐしゃと乱した。いつもうしろになでつけているブロンドの髪が無造作に額におりてくる。オスカーが「よし」と満足げに笑った。
「おい」
 アーサーは乱れた髪を片手で押さえた。
「このほうがいい。君はただでさえ目立つ」
 そう言ってオスカーがうなずいた。
 そのとき馬車が林の手前で止まった。オスカーは御者に一時間ほど待っているように言いつけて馬車を離れた。
 薄暗がりの中には、二人が乗ってきた馬車とおなじような、地味で目立たない二頭立ての馬車がそこかしこに止まっていた。

⑵林の中の違法試合
 御者がオスカーにランタンを手渡した。オスカーはランタンの灯りを林に向かってかかげると「行こう」とアーサーをうながした。
 真っ暗な林の切れ間に、大勢の人々の通った跡が残っていた。くりかえし踏まれた地面には水が浮いてきていて、二人の革靴を濡らした。
 歩いていると、すぐに林の合間から松明の光が見えてきた。人の声も聞こえてくる。人の声というには奇妙な、叫びだった。二人の足の動きが早くなった。二人は林を抜け、ひらけた平地に出た。平地の先にゆるやかな斜面があり、眼下に人混みが見える。
 アーサーは足を止めて人混みを見回していたが、急に「オスカー!」と声を上げた。
「おい、こっちだこっち」
 オスカーがアーサーの肩をたたいた。松明の近くまで来ると、叫び声がいっそうやかましくなった。松明の横に立っていた男に、オスカーが二人分の入場料をわたした。
「こっちだ。はぐれるなよ」
 オスカーが振り向いて言った。アーサーは周囲の人々に気を取られながら、オスカーのあとをついていった。人だかりのうしろを左へ左へと歩きながらも、顔は人垣の中央に見える平地に向いていた。
 平地には四方に杭が打ち込まれて、太いロープが二段に張ってある。その周囲は間近まで人々がひしめき合い、興奮した顔に取り巻かれている。
 人々の興奮は、ロープにかこまれた平地の中にいる二人の男に向けられていた。二人は半裸で向き合い、互いに拳をかまえている。バンデージを巻いただけの拳だ。
「素手じゃないか!」
 アーサーは声を弾ませた。
「だから連れてきたんだ。旧式の荒っぽい試合を観たいって言ってたろう。素手は素手だが、カウントは新ルールの取り決めだから、進行が早い」
「大丈夫なのかい?」
「うん? うまくやってると思うがね。もし警察が来たら、そのときは君、俺にかまわず逃げろよ」
 オスカーは冗談ともつかない口ぶりで言った。二人はその場に足を止め、リングで殴り合っている男たちに目を向けた。四方を照らす松明の煙がリングの中まで漂っていた。白くけぶるリングに、金髪の大男と黒髪の男が向き合っている。
 しばらくしてオスカーが急に左右を見回した。アーサーが「どうした?」と尋ねると、オスカーは「ちょっと待っててくれ」と言って、人混みをかき分けながら前に進んでいった。オスカーはリングサイドにいた男と一言三言なにか言い交わしてから、アーサーのとなりに戻ってきた。オスカーはアーサーと目が合うと、首を振って「なんてこった!」と吐き捨てるように言った。
「チャンピオンは欠席だ」
「目当ての試合が流れたのか?」
「ちがう。代わりに若いヤツが出てる。どうりでヤジがひどいはずだ」
 アーサーは殴り合う二人のボクサーにあらためて目を向けた。五ラウンドが終わって、ボクサーはそれぞれのコーナーに戻っていた。松明に近いコーナーで、黒髪のボクサーの汗に濡れた背中が見えた。黒髪のボクサーは若いが、痩せて貧相な身体をしていた。
 六ラウンドが始まった。金髪の大男は大ぶりなパンチを繰り出して、相手を追いつめようとするが、黒髪の男は足を使って拳を避けている。
「おもしろい動きをするね」
 アーサーは黒髪のボクサーの動きに目をとめた。オスカーが同意してうなずいた。
「ああ、ちょこまかと逃げるから勝負がつかない。そういや君のボクシングに似てる。リングをちょこまかと逃げ回って、上級生をぶっ倒したときにはスカッとしたよ」
「つっ立ってるやつを殴るのは簡単だ」
 黒髪のボクサーが身体を揺らして、大男の重い拳を避けた。彼は繰りだされた腕をかいくぐって一発、大男のみぞおちにあてた。しかし、金髪の大男はびくともしない。
「あんなパンチじゃ倒れんよ」
 オスカーが眉間にしわを寄せた。
「動きはいいんだが」
 黒髪のボクサーの顔は腫れていなかった。足を使って、相手のパンチを巧みにかわしていた。彼がパンチを避けると、観客が「逃げんじゃないよ! 腰抜け!」「さっさとやっちまえ!」と叫んだ。
「金髪のほうはどうやら地元出身らしい」とオスカーがアーサーに耳打ちした。

⑶ビリーか? ナックルか?
 アーサーは黒髪のボクサーの敏捷さが気に入った。子供の頃に習った足の動きに似ている。アーサーにボクシングの手ほどきをした男は、巧みな足運びをしていた。
「君、どっちに賭けたんだい?」
 アーサーはオスカーに尋ねた。
「チャンピオンに賭けるつもりだったが、賭けなくて正解だったな」
「まだ間に合う?」
 アーサーが問いかけると、オスカーが驚いたようにアーサーの顔を見返した。
「賭けるのか? 待ってろ」
 オスカーが後ろを向いて手を振ると、すぐに若い男がやってきた。
「七対一だ。ビリーかい? ナックルかい?」
 若い男が早口でまくし立てた。
「黒髪に賭けるよ」
 そう言ってアーサーが二ポンドを出すと、若い男は代わりに炭のついた紙切れを渡した。
「よし、ナックル! 旦那、あんたは? 賭けるのか、賭けないのか?」
 若い男はオスカーにたずねた。
「やれやれ、ここはひとつ君に乗っかろう。俺も、黒髪の……ナックルだ」
 オスカーは十ポンドを若い男に渡した。男はにっと口角を上げて、皮袋の紐をゆるめた。男が皮袋の口に手をあてて十ポンドを滑り落とすと、中から鈍い音が響いた。
「へい、毎度あり! ナックル!」
 若い男はオスカーに炭を塗った紙切れを突き出した。
「さあ、どうだい! まだ受けるよ!」
 若い男は声を張り上げながら去っていった。
「いいのかい?」
 アーサーがオスカーにたずねた。
「いいんだ。君の見立てを信じるよ。ボクシングに関しちゃ、君のほうがくわしい」
「買いかぶりすぎだ」
 二人の視線は自然とリングに向いた。二人が賭けた黒髪のボクサー、ナックルが足を滑らせてダウンした。割れんばかりの歓声がおこる。
「おいおい」
 とオスカーが声を上げるが、周囲の歓声にかき消された。
 ナックルはすぐに立ち上がった。観客が不満の声を上げる。
「やれやれ、持ちこたえてくれよ」
 オスカーがため息まじりにつぶやいた。
 地元のチャンピオン、大男のビリーが長い腕を振り回してナックルを追う。ビリーのパンチがナックルの頭をかすめた。ナックルはまたしてもダウンした。
「おいおい、どうした」
 オスカーが顔をしかめる。
「地面がぬかるんでるんだ。まともな靴でなきゃ滑る」
 ナックルの足運びを見つめながらアーサーが答える。
「俺はそんなことをきいてるんじゃない」
「足を使うボクシングスタイルがあだになったな」
 アーサーはナックルから目を離さずに言った。
 ナックルの足の踏み込みが浅くなっている。軽いパンチを当てながら、逃げをくりかえしていたナックルが、ビリーのパンチに捕まった。悲鳴のような歓声が上がる。
 とうとう両者の殴り合いがはげしくなった。ナックルは身体を揺らして、パンチの重心をずらす。至近距離で確実にパンチを当てる。足が動かなくなったのか、ここで勝負を決めろとセコンドが指示したのか、ナックルは逃げ回るのをやめた。

⑷赤いアザの記憶
 向き合うとナックルのパンチは正確だった。大男ビリーの腕をかいくぐって、二発、三発とパンチを当てる。
「なんだ、威勢がいいじゃないか」
 オスカーが目を見張った。観客の歓声はいよいよ極まって、「ビリー! ブッチャー・ビリー! ビリー! やっちまえ!」と悲鳴のようにくりかえしている。
 ビリーが倒れた。ナックルは踏みとどまった。レフリーはカウントしない。ナックルのセコンドの赤毛男が拳を振り上げて抗議する。ナックルは大きく肩を上下させながら自分のコーナーに戻る。
 ようやくカウントを始めたレフリーを尻目に、ナックルはセコンドの赤毛男に自分のバンデージを示した。赤毛男がほどけかけたバンデージを巻き直していると、むき出しになったナックルの手の甲に赤いアザが見えた。
 そのアザはアーサーの目に鮮やかに飛び込んできた。血のように赤い手の甲のアザを、アーサーはある少年の手に見た記憶がある。ナックルのアザと同様に、左手の甲にあった。
 かつてアーサーが修道院付きの養護施設に預けられていた頃のことだった。
 まさか、とアーサーはナックルの顔を食い入るように見つめた。似ている。アーサーはそう思ったが、一方で手の甲に赤いアザのある男などいくらでもいるだろうと自分に言い聞かせた。
「オスカー、あの黒髪の、ナックルってボクサーについて、なにか知ってるかい?」
「いいや、初めて見る顔だ。地方巡業か、違法試合が多いのかもしれないな」
「このあと会えないか?」
「なに? あいつと? 君が? やめておけ」
「確かめたいことがあるんだ」
 アーサーが言いかけたちょうどそのとき、リングでビリーがあおむけに倒れた。あたり一帯が悲鳴に包まれた。あおむけに倒れたビリーがひじを動かし、ひざを折り曲げて、立ち上がるそぶりを見せるが、立てない。ナックルが自分のコーナーに戻った。
 レフリーの動きは相変わらず緩慢だった。
「……スリー、……フォー、……ファイブ」
 レフリーが間延びしたカウントを取る。しかし時間かせぎのもったいぶったカウントも、どうやら通用しないと観客に伝わってきた。罵声と悲鳴が入り乱れるなか、レフリーはとうとうテンカウントを数えた。
 アーサーのとなりで、オスカーが大声をあげた。
「おい! やったぞ! ナックルのやつ、やりやがった!」
 オスカーは声をあげて笑いながら、手でアーサーの肩をつかみ強く揺さぶって「やった、やったぞ」とくりかえした。
「アーサー、配当金を受け取ってさっさとずらかろう。騒ぎに巻き込まれたらやっかいだ」
 そう言って、オスカーはアーサーの背中をたたいた。アーサーはオスカーにうながされるまま、出口へと急いだ。リングの上ではレフリーがナックルの腕をつかんで持ち上げ、彼が勝者だと示していた。

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