自己主張は寂しさの裏返しだった。。。
思考するということは悪いことではない。
思考したことを誰かに話すことも悪いことではない。
しかし、意見が違った時、私は自己主張を繰り返してきたような気がするのだ。
それは、私の考えをわかってほしいという意味合いもあったけれど、私をわかってほしいという意味が色濃かった気がするのだ。
私をわかってほしい。
そこまで強く懇願したのはなぜだったのだろうと思った時、私は人生で常に寂しさと向かい合ってきたからだと思うのだ。
私の家庭環境は幼い頃から複雑だった。
実の母がいて、育ての父がいて、血のつながらない姉が二人いて、そんな環境の中で、一番年下だった私が皆の仲をつなぐ役目を担うことになってしまっていた。
実母は義姉達とよく衝突していたし。
実母は旦那さんである(私の育ての)父ともよく衝突をしていた。
ほとんどは母の気の強さ、プライドの高さが原因であったと思われる。
母は感情が高ぶると言葉を選ばない人だった。
辛辣な言葉を投げかける。
自分が正しいと思えばこそ、出る言葉なのかもしれないが。
人は自分が間違っていたとしても、辛辣な言葉を投げかけられれば、反発心の方が増してしまう。
ましてや、母は元教師ならではの性分を悪い方に発揮してしまい、説教癖があった為、姉達も父もほぼ無言の反発を繰り返していた。
そういう時、一番年下の私が仲立ちをせざるを得なくなる。
お姉ちゃんだって、こういう風に考えていたんだと思うよ。。。
お父さんに対して、そんな言葉はないんじゃないかな。。。
私はそうやって間に入って、なんとか皆が仲良く暮らせないかを思案していた。
気付けば、私は、私自身のことを後回しにしていた。
自分で自分を可愛がることよりも、誰かがご機嫌でいてくれますように。。。そんなことを願ってばかりになっていた。
それは一見、私自身の優しさのように感じられるかもしれないが、自分で自分を可愛がれなかった私は、常に孤独と寂しさを抱えていくようになってしまった。
そんな私が真に人に優しくできるわけがない。
優しさのつもりで発言したものの、意見の違いから誤解を受けたりすると、私は必死で自己主張という名の言い訳をしてきた。
自分の寂しさに気付けていたなら、もっと素直に相手の話を聞き、自分の話をまろやかに届けることができただろうに。
今更、過去のことを悔いても仕方がない。
今の私が思うことは、少しでも自分を可愛がってあげて、自分の寂しさを癒してあげたいということだ。
寂しさを癒せる自分だから、誰かに寄り添うことができるのだと思うからだ。
愛は自己主張ばかりでは得られないということを、私は身をもって知った。
しかし愛は自分を癒せるようになった時、何倍にもなって返ってくることも身をもって知った。
生きることは愛なんだなと、そんな当たり前のことを感じている自分を、前よりも愛せるようになったみたいだ。
さて、今日も生きるとしよう
