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科学との出会いをもとめて 第三章 環境


1 環境を守るものは誰か

 大気や水の汚染に対して、騒音に対して、道路に対して、鉄道に対して、あるいは日照に対して、住民運動は各地に執拗に展開されている。住民運動こそは、環境の保全もしくは奪回の闘争であり、生き残るための生死を賭けた戦いである。

 一昨年来、私は道路建設反対運動に参加している。この運動は革新都政のいわゆる都民参加の一例としてクローズアップされ、マスコミでもしばしば取り上げられてきた。

 問題の道路は放射三五、三六号線とよばれるものであって、国鉄池袋駅から北上する幅員四〇メートルの超大型道路である。都民のためという一応の名目が建設当局から示されているとはいえ、その性格は次の条件に適合するものとみられよう。

  • 表日本、裏日本を結ぶ道路が現状では少ないので、有事の際、人、物の輸送を能率的におこなうよう、なるべく最短距離の道を増設すべきである。

  • 道路と橋は、重量の重い大型戦車や重砲などの移動が円滑にできるよう幅を広げ、堅固なものをつくるべきである。また航空機が離着陸できるよう配慮すべきである。

上の条項は、国土総合開発計画の一環として、問題の道路計画の二年前の一九六三年三月二九日、参議院予算委員会の席上、防衛庁から経済企画庁に提出した要望書として防衛庁長官が確認したところのものである。

住民パワー

 今日の多くの住民運動の原点は公害にあるが、われわれの場合も例外ではない。われわれが目のかたきにしているものは、防衛庁の意向などではなく、公害であり環境破壊である。

 放射三六号線は悪名すでに高い環状七号線と交差する。環状七号線の計画が発表された当時、これは都民の利益としてPRされ納得されたところのものであった。しかし、少なくとも環七沿道の住民にとって、今日それは恐るべき公害源となりデメリットを発揮して期待を裏切っている。環七公害を肌で知る住民が、これを土台として新しい道路計画に反対するのは当然であろう。

 われわれが公害を問題にするときの、意識の構造は、イタイイタイ病、水俣病、カネミ油症など、公害病患者の実態に関する情報が背景となり、せきがでるとか目が痛いとかの肌で感じる情報が前面に押しだされる形となりやすい。そこでは被害者意識から公害をみることになる。

 加害者が、権力であり、または権力と結びついた企業であればむろんのこと、捕捉しかねる不特定者であっても、その立場は被害者より強い。われわれの場合に例をとれば、実質的道路計画者は国であって、権力そのものである。したがってわれわれの道路公害の訴えのごときものは、秦野章氏の言葉を借りれば弱いセンチメンタリズム以上のものではなく、結論は初めからきまっていた。事実、問題の放射三五、三六号線は、車線数を縮小しはしても、幅員は原案通りに実現するものと、われわれは観念せざるをえなくなっている。公害被害者の立場をとるいわゆる住民パワーは、力の論理の世界では弱者たらざるをえない。ここでわれわれは、光栄ある住民運動に勝利をもたらすための有効な方法を学ぶ必要に迫られる。

住民運動の武器

 公害は、巨視的に見れば《自然》の造反であって、《真理の締付け》がその実体である。真理とは何かと問われるならば、ごまかしを許さぬ諸関係とでも答えよう。センチメンタリズムは吹けば飛ぶかもしれないが、例えば自動車の排ガスが鉛をふくんでいて、それが呼吸によって肺にはいり、地物に付着していて手指から口にはいる事実は、吹けば飛ぶ現象ではない。体内に取りこまれた鉛は酵素阻害などによって、生理現象を狂わせる毒物であることを免かれるわけにゆかない。

 それらは自然科学上の諸関係であって、権力でも甘言でもごまかせる性質のものではないのである。ここには、排ガスの加害者、被害者の区別を超越する真理が存在する。

 この真理は肌で感じとれはしない。蓄積濃度がある水準をオーバーしたとき症状をあらわすものであろう。それも、他の汚染物質との協同効果があれば、強められるばかりではなく、さまざまに変貌するにちがいない。排ガス中に少しぐらい鉛があったって騒ぐことはないというような発想は、真理の重みを知る者にとっては無縁なのである。

 住民運動といっても環境保護運動といってもいいが、どっちにしてもこの運動の強力な武器が真理であることを、ここで確認しなければなるまい。

 真理が権力によっても曲げられないとすれば、そして環境の保護も破壊も真理のなかでおこなわれるとすれば、どんな立場にとっても真理は最大の説得力をもつであろう。したがって、とかく弱者である住民が、真理を武器とすることを忘れては話にならない。住民運動が真理の旗のもとに立ち上がるとき、初めて環境破壊に対する歯止めの契機が捕えられるのである。

 ここで考慮すべき点は、無知に対して真理が通用しないことである。ロベール・ギランのいうとおり、無知こそは悪の根源であって、無知のなかで環境は荒廃してゆく。少なくとも、多数者である大衆の無知は不幸の始まりである。

情報の操作

 真理の重みがいかに大きくても、研究者でない大衆がそれを入手する道は情報媒体あるのみといってよかろう。そのマスメディアの最大のものはテレビでなければ新聞である。

 光化学スモッグによる被害が初めて日本に発生したのは一九六九年八月、東京においてであった。このとき、校庭で運動していた女子高校生がさまざまな症状をあらわし、ひどい者は医者にかかるしまつとなった。

 NHKテレビはニュースとしてこれを取材する一方、学術的な色彩をもつ番組を企画した。当時、通産省の某試験所に唯一つしかなかったオキシダント発生装置を使って、植物に対する被害を見せようとしたわけである。その試験所は、このような装置をいちはやく所有していた先見をPRする意図もあってか、この企画に協力を申し出た。NHKは解説者を物色して東大農学部講師千葉修氏に白羽の矢をたてた。

 同氏はその装置を使って、オキシダントに弱いもの強いもの数種の植物に四時間の照射を試みた。この予備実験の結果は、幸か不幸か、テレビの画面に明瞭にあらわれるほどの被害を示さなかったのである。そこで千葉氏は、照射時間の二時間延長を実験担当者に依頼し、その資料にもとづいて本番の放映をすることにした。

 当日スタジオ入りして、この植物病理学者は驚いた。異変は皆無に近いのである。ただしてみると、所長の懇請によって照射時間が二時間短縮されたことがわかった。自動車業界には、国立試験所の所長の首を飛ばすにたりる力があったのである。自動車のエンジンに起因するオキシダントに障害作用のあることが露見しては、商売にさしさわりがあるということであろう。

 真理が本来ごまかしのきかぬはずのものであるのに、それをあえてする勢力が体制にあるということである。ごまかせないものをごまかす横車を、住民は監視しなければならぬ。われわれは、真理の締付けのもとに生きる生活者であって、オキシダントを大量に吸えばまちがいなく卒倒する存在なのである。

 このようなごまかしは情報の操作とよばれてよい。この場合、操作系統は業界―所長―実験担当者ということになり、NHKは知らぬが仏でもあろうし、被害者でもあろう。

 そうかといって、NHKがつねに被害者であるはずがない。かつて一九六六年、NHKは防衛問題をめぐる世論調査を実施した。そして同年三月二〇日の放送に際しては、アメリカとの同盟支持二七%、非武装中立支持四二%などの数字を伏せてしまったのである。

対話集会の機能

 われわれの放射三五、三六号道路対策住民協議会は、都の理事者とのあいだに数回の対話集会をもつことができた。これは、地域の小学校に三〇〇余名の住民が集まった対話集会の出来事である。

 地域小学校を会場とする対話集会は順次に数ヵ所でもたれた。われわれの会の有志数名が、前日に開催された隣接地区の集会に出席して、その情況をだれかれに報告した。われわれの地区での集会を有効ならしめるためである。その内容のなかに、アフターバーナーの開発によってオキシダントは大幅に減少するから、自動車公害の心配はやがてなくなるという趣旨の話が都公害局から開陳されたという部分があって、この点に疑義があるからただしてほしいという要望が私に向けられた。

 この種の会合での席上、住民側からの冒頭の発言者が、道路建設促進の意見の所有者であり、住民運動体からはみ出した少数者であると、相場はきまっているが、この場合も型通りであった。その促進主義者の一人は、自動車公害は早晩なくなる性質のものであって、無公害車の開発を待って道路建設にとりかかるようなことになっては後手にまわるから、さっそくそれに着手すべきであると述べた。その背景にすけて見える科学技術に対しての盲目的信頼が無知からくるといっては言葉がすぎるかもしれないが、こういう無知がどことなくはびこっている現状に、私は恐怖を禁じえない。環境破壊のテンポがいささかもスローダウンしないのは、こういう信頼すべからざるものへの信頼からきているのではあるまいか。大衆がその無知によって権力の悪に加担しうることを、われわれは銘記し警戒しなければならない。

くるま公害の多面性

 今日、大型道路はすべて自動車のためにある。自動車が公害源であるために、道路は公害源となる。そうであればこそ、一般に大型道路反対運動が環境を守る運動たりうるのである。

 くるま公害はオキシダントだけではない。まずやはり排ガスであろう。

 排ガス中の汚染物質と目されるものは、炭化水素、一酸化炭素、二酸化窒素、一酸化窒素、酸化鉛などであろう。炭化水素は発ガン物質を含んでいる。一酸化炭素は赤血球酸素運搬作用の阻害のほか、神経繊維の脱髄、動脈壁へのコレステロール沈着などのいたずらをする。二酸化窒素はオキシダントの原因物質であるばかりでなく、それ自身も呼吸器粘膜に対して有害である。一酸化窒素はオキシダント検出装置に働いて、ありもしない光化学スモッグの存在を報知して悪評をこうむった物質であるが、それ自身の害作用はあまり大きくないといわれる。

 ディーゼル車の排ガス中には亜硫酸ガスが含まれているが、これが呼吸器に対して有害なことは四日市や川崎で実証ずみであろう。

 これら排ガスの有害成分は、エンジンの構造や燃焼条件の改良によって減らすことができる。しかし、ゼロにすることは事実上不可能といってよい。したがって、無公害車ができたからといって、自動車数の増加があれば、汚染物質の総量がへるとはかぎらないことになる。この点も、都公害局員との一問一答のなかで、私が確認した事項の一つであった。いわゆる無公害車は環境保全のための極め手でも何でもないのである。

 発ガン物質としては、自動車のブレーキライニングからでてくる石綿の粉塵がある。いわゆる無公害車には、この汚染物質には目をつぶる慣例になっている。

 オクタン価を高めるためにガソリンに添加される四エチル鉛の変形である粉塵も問題である。自動車排ガスの粉塵はサブミクロンエアロゾルとよばれる極超微粒子で、大気中を一日に一センチメートル程度しか下降しないものさえある。一〇〇メートルの高度に吹きあげられたものは、三〇年たたなければ地上に落下しない計算になる。このような浮遊塵の六〇%は自動車、航空機に起因するといわれる。これの日光をさえぎる作用のために、日本の年平均気温は過去一〇年間に一度の低下をみせた。現在地球をおおう浮遊塵の量は五〇〇万トンである。これが五、〇〇〇万トンになれば、全植物は寒冷のために枯死するといわれる。とにかく、全世界はすでに異常気候におびやかされつつあるのである。

 タンカー及び海底油田からの石油の漏洩は年間四〇〇~一、〇〇〇万トンと推定されるが、これによる海洋汚染が海産物にあたえる影響は甚大なものとなろう。この責任の大半は、結局は大型道路の負うべきものと考えてよい。

 無公害車といえば電気自動車を想像する向きもある。しかしその充電のために発電所はそれだけ余分の燃料をたかなければならず、バッテリー用の鉛の精練からくる鉛公害及び砒素公害の増大は不可避であって、電気自動車を無公害車とするのはごまかしに近い。

住民運動方法論

 最近、私どもの町会事務所で開かれたミニ対話集会で、都建設局のスポークスマンは道路計画の根本理念を述べた。この土台となるのは、昭和六〇年には自動車数が現在の二倍の四、〇〇〇万台にのぼるという数字である。都建設局員の半数が建設省出向者であるとすれば、これは国の道路政策として受け取るべきであろう。

 ここでも私は一つの問題をぶつけた。石油資源の枯渇が、およそ三〇年後とされていることからすれば、一九九〇年代には自動車の運命は尽きるかもしれないではないか。昭和六〇年といえばあと一〇年たらずの年月を残すのみであって、今日程度の価額で燃料を入手することはできず、四、〇〇〇万台の自動車を走らせるのは不可能ではないか。とするならば、自動車のための道路計画は問いなおされなければならないのではないか。

 以上が私の問題提起であった。これに対して都の理事者は、資源については何も知らないと答えたのである。一九八〇年代からエネルギー高価額時代が始まるという警告は新聞にも発表されたところであるのに、これが道路計画にさえ反映していないことがここで明らかになった。無知のなかで政治がおこなわれているのである。

 住民運動におけるあらゆる機会は啓蒙の機会でなければならぬと私は考える。行政当局も住民も、ごまかしのきかぬ真理をふまえることを怠れば、環境の締付けの前に屈服せざるをえない。真理に対する無知は人類の運命を危くする。

 エコノミックアニマルの国では、真理をかつぎまわる人間は子ども扱いにされる。金儲けに徹底しない人間は一人前ではないのである。このような大人の国は人類を滅亡に導く体制を選択する。住民運動の本質は、この体制に対する戦いでなければならない。そこにすなわち、生き残る体制の探究がある。

 住民運動の第一課は真理についての啓蒙である。真理の手によって無知の動きを封じこめることである。問題の道路から遠くはなれている私が住民運動に参加しているのはまさにその理由による。

 住民運動の第二課は、行政のかかとに食いつくことである。当局の研究、諸計画の内容、予算などを調査して、当局の怠慢や無責任をあばくことである。

 住民運動の第三課は消費の抑制を軸とする消費者運動である。マイカーも過剰包装も新幹線も、資源の枯渇に、環境の破壊に直結する。真理によらずに環境を守ることはできず、真理の締付けのもとに生きるのが住民であってみれば、住民集団である自治体が真理によって武装するために学者首長を選ぶようなことは、生き残るための知恵というものではあるまいか。

環境衛生 一九七二年三月

2 自動車が海を呑むとき

公害問題の死角

 公害ということばが情報化社会に氾濫している。公害についてわれわれは知りすぎているかのような錯覚におちいりはしないかという心配がでてきた。

 東京都練馬区のある町に私は住んでいる。この町の町会事務所に七〇歳を少し越えたほどの男性が事務をとっている。道路反対の住民運動に参加している関係もあって、町会事務所に出入しているうちに、私はこの人を知ったのだが、気の毒なことに、その手が休みなくふるえている。黒板のチョークの字がおどって生徒にひやかされると、その人は淋しく笑った。高校教師をしているのだった。聞けば、この人は酒好きで、この病状がアルコールからきたと信じこんでいる。

 私は公害を疑った。理由はといえば、夏の初めのある日、この人が「スミチオン」と記した石油缶から、異臭を放つ液体を容器に移す場面を思いだしたということだ。このハエ退治の有機リン剤からきた神経障害ではあるまいか、と私は想像をたくましうする。この意見を述べるとその人は、そうかもしれないと顔をくもらせた。手や首のふるえは、農薬を扱うようになってからのことだともいった。

 もう一つ話がある。一九歳になる友人の娘さんが腎臓病で入院、わずか一ヵ月ほどで死んだ。この人は学校を一日も欠席したことのない健康優良折紙付きの生徒だったという。両親も本人も、死ぬなどとは思いもよらなかった。異例のことと勝手に想像した友人が知り合いにこの話をしたところ、二六歳の女性が、同じような病気をわずらって、三ヵ月の入院で死んだ例があると聞かされた。

 私はここでも公害を疑う。農薬でも重金属でも、解毒しそこなった汚染物質はとかく肝臓や腎臓にひっかかる。騒音のようなストレスは副腎をつうじて腎臓をおびやかすだろう。そういうデータがあれば、腎臓障害を公害に結びつける私の想像に一理を認めて頂けるのではあるまいか。

 東邦亜鉛安中精練所付近の死亡者を解剖してみたところ、腎臓にカドミウム汚染があったといっていた。死因が腎臓障害であるかどうかはわからないということ、この人たちの尿にはカドミウム汚染の反応が見られなかったということ、尿検査の方法を改めなければならないということなどが付け加えられた。

 公害ということばの氾濫のなかで、公害は常識化し、われわれは公害について一応は知っているつもりになりやすい。だが、公害はヌエみたいな怪物である。それはわれわれの意識の間隙を容易にすりぬけてゆく。一般人の前に正直に正体をあらわすのは、せいぜいオキシダントぐらいのものだろう。それならば目にしみるから、誰にもわかる。

 先日の新聞に、腎臓病患者の食事に関する記事があった。タンパク質は腎臓に負担をかけるから、あまりとらない方がよいが、そうかといって、慢性ともなれば多少は必要だから、脂肪の多い肉を食えというような趣旨だったと覚えている。草食動物の脂肪組織に農薬が濃縮されていることは常識であって、それをわざわざ食えといわれては、患者も浮かばれない。その農薬は腎臓をいっそう悪くするだろう。

 先日、テレビが偏食の問題を扱った。ある母親が、「うちの子は好き嫌いが多いけれど、レバーをよく食べます」といったところ、同席の栄養研究家か何かが、「それなら結構です」と答えた。この公害時代に、肝臓は汚染物質のゴミ箱である。われわれ人間も、肝臓が公害にやられることを心配しなければならない。それなのに、わざわざ肝臓を食うことは、見当ちがいというだけではすまされない愚行というべきである。

 公害という字やことばをわれわれはよく承知している。しかし、その実態のつかめないことはもどかしい。体内に侵入した汚染物質のありかが、Ⅹ線か何かで検出できたらさぞ便利であろう。しかし、あまりの汚染にびっくりして、神経質な人はそれだけで病気になるにちがいない。われわれ日本人で、有機塩素や有機水銀や重金属を体内にためこんでいない人はひとりもないからだ。その量は外国人の数十倍もある。

 こんなふうに考えてくると、公害問題に死角はつきもので、われわれはいつのまにか死角のなかに、少なくとも意識の死角のなかにいるようなことになる。そしてわれわれは、死角のなかで病気になり、そして倒れるという寸法にもなろう。

 先年、米国ニュージャージー州ホボーケンにあるスティブンス研究所で公害に関するシンポジウムが開催された。席上、スイスのジャック・ピカールはショッキングな発言をした。彼は自殺的な汚染の責任は技術者にあるとし、人類が二一世紀まで生き延びられるかどうかは真剣に疑わしいと述べたのである。それは、いま生まれた赤ん坊が三〇歳までは生きられないという警告であった。この人は例のバチスカーフをつくって深海を探検したジャンの子息で、二代目海洋学者である。

塩水クサビ現象の実験手品

 一九七一年は、公害問題花盛りの年であった。公害事件が法廷で争われて世間を騒がせた。阿賀野川が昭和電工鹿瀬工場の排水で汚染され、いわゆる新潟水俣病が多数の犠牲者をだした事件が新潟地裁に上告された。原告は、阿賀野川の魚を食卓にのせたことから被害をうけた沿岸住民諸君である。この阿賀野川事件の内容や裁判の経過などについてはマスコミがすでに繰り返し報道したところであって、それをここで取り扱うつもりはない。この公害論争で見逃された死角について論じたいのである。

 テレビでも放映され、新聞にも紹介されたところであるが、昭電側は飽くまでこの有機水銀中毒が鹿瀬工場の責任でないという主張を貫徹するために大掛りな実験をおこなった。阿賀野川およびその河口付近の海を、その底の形をもふくめて、二、〇〇〇分の一の模型であらわしたのである。テレビの画面で見たところ、それはガラス張りの巨大な水槽であって、水の動態をじかに目で捕えることを狙う装置として、十分な説得力をもつものと見えた。しかしそれが、純粋に学術的な研究のための装置であったのか、自分に有利な証拠を第三者に見せるための装置であったのか、私にはわからない。当事者の沈黙があれば、これは永遠の謎であろう。

 いずれにせよ、公害問題の死角についての重大な具体例を、ここに見ることができる。

 まずこの実験装置は実物の相似模型であって、いわゆるシミュレーションのカテゴリーに属する。模型阿賀野川の水に流れをおこすと、模型新潟港の塩水が川の流れに逆って、模型阿賀野川の川底にクサビ状に侵入することが、この実験によって確認された。これがいわゆる《塩水クサビ現象》である。

 昭電側の主張は、新潟地震のさいに海岸沿いの倉庫が倒壊し、そこに積まれていた農薬が海に流れ、そして塩水クサビ現象によって阿賀野川を溯ったというのであった。

 この実験装置のアイディアはともかく、塩水クサビ現象を思いついたのは、新聞によれば横浜国大北川徹三教授である。それが昭電側の要請によるものかどうか、私は知らない。

 いずれにせよ、鹿瀬工場はこの実験によって、塩水クサビが河口から七センチ上流までのぼるのを確かめ、これは現地の七キロに相当すると発表した。新潟水俣病患者の多発した地点は、河口から七キロの上流だったのである。

 われわれは科学の重みを知らされてきた。実験が実証手段として王座にあることは、現代の常識である。とするならば、この実験の結果は反論の余地のない証言とみえた。昭電側の実験は、新潟水俣病が塩水クサビ現象によるものであって、工場排水ではないという昭電側の主張に対して、動かせない証拠で裏付けするものと見えた。

 新潟地裁でも、この実験のもつ意義は重視された。これが原告側に対して決定的ともいうべき打撃を与えたことは否めない。テレビの画面に映った実験担当者は自信にみちて得意満面であった。この打撃のもとでは、原告側の、もしも塩水クサビが川を溯れば、ニゴイなどの塩分を特に嫌う淡水魚は釣れなかったはずだという反論も、負け犬のような弱みを印象づけるにすぎなかった。新潟地震以前にもそれらしい患者が見られたという事実さえもが霞む有様であった。

 ここにわれわれは科学の重み、科学の実験の説得力の大きさを改めて思う。実験観察が真理を追究する最も有力な手段だと、小学校以来たたきこまれてきたことが、ここに結実し、鉄槌となって頭上にくだる。

 裁判の現実の場面でも、この昭電側の実験には絶大な威力があった。そして、原告側にこれに対する反対立証の必要がありはしないかということが問題になった。結局は、反対立証がいかなるものであれ、原告側には実験装置を工夫する才覚もなく、経済力もないという判定から、反対立証は不要、情況判断でゆくという方針が固まったのであった。

 せっかくの実験に対して、反対立証が不要という決定は、恐らく昭電側にしてみれば不服であったろう。それを抑えこんだことは、賢明といってよい。なぜなら、この実験はインチキだからである。そういって悪ければこれは、死角の中の実験だといっておこう。死角の中の実験は本来無意味である。

模型の法則と科学の幻想

 昭和電工鹿瀬工場の技術者が設計製作した模型実験装置は縮尺二、〇〇〇分の一にできていた。ここに七センチの塩水クサビが形成され、これを現地のスケールに換算して七キロとした理由を、私は知らない。しかし、この種の模型実験には、レイノルズの相似法則が適用されるということは知っている。この流体力学の主張するところはこうである。

 本物と模型とが、力学的に相似になるためには、両者のレイノルズ数が等しくなければならない。もし問題の装置のレイノルズ数が本物の阿賀野川のレイノルズ数に等しければ、模型に見られた七センチメートルの塩水クサビは、現場ではこれの二、〇〇〇倍の一四キロメートルになる。縮尺が二、〇〇〇分の一だからである。

 では、両者のレイノルズ数はどうであろうか。それにはまず、レイノルズ数の何たるかを知らなければならない。

 レイノルズ数とは、流速と比重と寸法との積を、粘性係数で割った数である。流速をv、比重をρ、寸法をL、粘性係数をηとするとき、レイノルズ数Rは、下の式であらわされる。これを見てわかることは、レイノルズ数は、流速が速くても、比重が大きくても、寸法が長くても大きく、粘性係数が大きければ小さいということである。

$$
R=\frac{vρL} {η}
$$

 阿賀野川模型実験で、どんな液体が使われたか、私は知らない。しかし、川の部分に淡水を使い、海の部分に塩水を使ったことは十分に想像できる。とするならば、川の部分についても海の部分についても、その流体の比重及び粘性係数は実験のそれに等しい。したがって、模型と本物とで、比重や粘性係数を比較する必要はないことになる。そこで、前記の式の中のρやηは不用になるから、下記のような簡単な式ができる。問題の実験の場合、上記の式でレイノルズ数の計算法があらわされると考えてよいのである。

$$
R=vL
$$

 まず、本物の阿賀野川の長さ一キロメートルの部分をとるとしよう。そうすれば、Lは1となり、Rイコールvとなる。vとは本物の阿賀野川のその部分の流速である。これに相当する模型では、Lは二、〇〇〇分の一キロメートルであって、流速を本物に等しくとれば、Rは二、〇〇〇分の一vとなる。すなわち、本物のRはv、模型のRは二、〇〇〇分のvとなり、両者のRは等しくない。

 この計算の意味するところはこうである。模型の阿賀野川の流速を本物のそれに等しくすれば、レイノルズ数がちがうから、数値の比例関係は成立しないということである。塩水クサビの寸法が模型で七センチメートルあったからといって、本物の川でその二、〇〇〇倍の一四キロメートルという計算にはならないということである。

 では、この装置のレイノルズ数を本物のそれに等しくする方法はないであろうか。

 この解答を与えるのも前記の式である。この式は、流速と水路の長さとの積がレイノルズ数になることを教えている。本物と模型とで計算した、流速と水路の長さとの積の値が等しければ、両者の数値関係が相似になり、模型の塩水クサビの長さ七センチメートルを二、〇〇〇倍すれば、本物の川における塩水クサビの長さがでることになる。

 そこで、流速と水路の長さとの積を等しくするためには、水路の長さが本物の二、〇〇〇分の一であることから、模型の流速は本物の二、〇〇〇倍でなければ、レイノルズの相似法則は成立しないことになる。

 流速二、〇〇〇倍でなければならぬ!

 私がテレビで見たかぎりにおいて、この模型の阿賀野川の流速は、本物の二、〇〇〇倍というような急流ではなかった。何よりもまずこのような流速をだすためには特別な装置が必要であるが、それもついてはいなかった。この水槽は、模型実験としての資格を欠いていたのである。

 テレビの説明を聞いて不可解に思ったことは、七センチメートルが七キロメートルに相当するというくだりであった。二、〇〇〇倍にせずに一、〇〇〇倍にした点であった。ここで内輪に見積る意図が、もしも七キロメートル上流に患者が発生した事実に符合させる目的にあったとすれば、これは科学に対する許すべからざる冒瀆である。

 ここに紹介した計算に対して、流速を二、〇〇〇倍になどとせずにすむ実験計画があったのではないかという問題の提起があってよい。例えば、流速をせいぜい一〇倍位の実現可能な値にすることはできないかという問題である。それは原理的には不可能でなくても、現実的には不可能である。というのは、その一つの方法は、一〇分の一模型をつくることであるからである。それを実現するには、七〇〇メートルの水路をつくらなければならない。川の部分、海の部分を水以外の液体とし、それぞれの粘性係数を淡水および海水の二、〇〇〇分の一にすることも一つの方法である。しかし、そのような液体は存在しない。同じく水以外の液体を使い、それぞれの比重を淡水および海水の二、〇〇〇倍にすることも一つの方法である。しかし、このような液体も存在しない。

 そんな極端なことをいわずに、粘性係数と比重と両方からの歩み寄りがありはしないかという問題提起の余地もあろう。しかし、水銀という比重最大の液体を使ったとしても、それは水の一三・六九倍にすぎず、粘性係数が水の五〇分の一近い液体がなければならないことになる。このような液体は存在しないのである。要するに、この実験は実現困難な性質のものであった。われわれの問題はそのことを誰が知っていたかということである。

無知の死角への挑戦

 昭和電工苦心の実験装置を、私はテレビでしか見ていない。その実験結果についてもここに記したこと以上のデータをもたない。しかし、この実験によって実証されたもののないことは十分に想像できる。もしこの虚構性を昭電側が知っていたとすれば、これは詐欺の性格をもつであろう。知らなかったとすれば、無知として見逃さざるをえまい。原告側や裁判官が流体力学を知らなかったことをとがめることはできないが、厳しくいえば、これは手落ちである。もしも裁判官がこの実験に対する反対立証を要求していたとすれば、これは無知との渡り合いとなって、本質的には茶番以上のお笑いとなったことであろう。

 この裁判がすんで数ヵ月後に、河口から五〇キロメートルの上流に新潟水俣病患者の出たことが新聞に報道された。これこそは塩水クサビ説に対する反対立証として決定的なものといってよい。《科学》はここに脆くも破れ去ったかに見えるが、真実がそうでないことは、私がこれまで述べたところから明らかであろう。科学の権威は仮面としても通用するだけの力をもつということである。

 私は、『ル・モンド』紙の極東総支配人ロベール・ギラン氏がかつていった、「無知こそは悪の根源である」という名言を想起する。無知は悪のための死角を用意するからである。昭電実験は無知の死角の中で企図されたものであろう。そして、その死角の中で公害問題が空転することを、新潟水俣病裁判に見ることができるのである。

 ここでわれわれは、公害との戦いが無知との戦いとしての性格をもつことを知らなければなるまい。加害者が無知の死角のなかに被害者を追いこむことが、意図的であるにせよないにせよ、今後も繰り返されるところであろう。この死角が公知されないために、公害関係の学者に、企業や企業と直結する権力が紐をつけることは十分に想像できる。

 われわれは、公害問題の死角に誘導されることを厳に警戒せねばならぬ。新聞の投書に「公害教育に熱心な教師は教頭になれない」という抗議を見たことがある。《公害教育》ということばを使ってはならないと、教育委員会の指導主事は、研究授業のさいに注意している。公害被害者にとって、形勢はますます不利のようである。国民全部が新潟水俣病犠牲者の状況に追いつめられないとはいえない、と私は思う。

革新都政死角の一つ

 もう一つの例をとろう。

 冒頭に触れたように、私はかねてから住民運動に参加している。これは、放射三五、三六号線という名の、東京の池袋めがけて外から入ってくる超大型道路の計画に対し、それを公害源として排除する目的の住民運動であって、美濃部都知事はそれを革新都政の試金石と呼んでいた。この道路問題をめぐって、対話集会や公聴会的集会など、さまざまな会合がもたれている。

 都の理事者と地域住民との対話大集会が小学校で開催されたときのことであった。いろいろないきさつもあって、その席上で私は、公害局の人を一問一答式に問いつめる破目に陥った。じつはこの集会の直前にもたれた隣接地区での同様な会合の席上、排ガス再燃焼装置の開発によって自動車公害は大幅に切りさげられるので、道路即公害ということにはならないという趣旨の説明が、都公害局当事者からなされたことをわれわれは知っていた。いわゆる《無公害車》の幻想が新しい死角をつくろうとしていたのである。

 この道路建設には若干の促進論者がいる。その大部分が地主であることは当然であろう。彼らは「科学技術の進歩は必ずや公害を絶滅するだろう」と主張する。無公害車が開発されてから道路を建設するというのは後手にまわることだから、先き取りして道路をつくれというのがその論旨である。

 当時光化学スモッグがやかましい問題になっていた。都公害局はそこに焦点をしぼって排ガス再燃装置アフターバーナーの開発を考え、この集会でもそれを説明した。

 まず、光化学スモッグの実体であるオキシダントについて、そのアウトラインを述べよう。オキシダントは総酸化物とよばれるとおり、単一な物質ではない。大気中に含まれて酸化作用を現わす物質の総称である。そしてその物質は三種ある。オゾン、パン、アルデヒドがそれである。オゾンは酸素の酸化物であって、酸素原子三個だけからできているが、パンやアルデヒドは、炭化水素すなわち石油の成分を含んでいる。ということは、石油の種類によって、パンやアルデヒドの分子がちがい、性質がちがうということである。そして現在までの情報によれば、オキシダントのうち目にしみる成分はアルデヒドということになっている。そのアルデヒドの含む炭化水素の種類によって、目に対する刺激に強弱のあることは当然想像されてよい。

      ↓紫外線
二酸化窒素 → オゾン → パン
            → アルデヒド

 いずれにせよ、オキシダント問題で重要なポイントは、その発生機構である。そしてそれは、上の図式と考えてよかろう。まず二酸化窒素の発生があって、そこに紫外線がくるとこれが分解し、空気の中の酸素に作用してオゾンをつくる。このオゾンが排ガス中の炭化水素、一酸化炭素、窒素酸化物などと反応して、パンやアルデヒドをつくるという順序である。したがって、二酸化窒素さえなければ、紫外線があろうとなかろうと、オキシダントは発生しようがないのである。そのことは、二酸化窒素がでてくれば紫外線のエネルギーを吸収してオキシダントが発生する可能性があるということである。二酸化窒素が上昇気流に乗って上空で紫外線をうけて分解し、それのつくったオゾンが下降気流に乗って地表におり、オキシダント三成分をつくることもありえよう。樹木のような低温の地物のある校庭などにオキシダント事件が多発するのは、そこに下降気流がおこるためとして説明できよう。

 ところで、問題のアフターバーナーであるが、これは排ガスの炭化水素の量を一〇分の一程度にへらす効果をもつとされる。このことは直ちに、パンやアルデヒドの量を一〇分の一程度におさえることを意味する。それならば、オキシダントをへらす目的に、アフターバーナーは貢献するといってよかろう。

 しかし、これもまた死角をつくることになるのである。というのは、アフターバーナーを取り付けたとしても、二酸化窒素の発生がおさえられず、アルデヒドの大幅減少の結果、目にしみることからくるオキシダントの実感が失われるにもかかわらず、オキシダントそのものはほとんどへらないという点である。

 オキシダントが、オゾン、パン、アルデヒドの三者から構成されることはすでに述べた。このうちオゾンは九〇%以上を占め、しかもその障害作用においては抜群なのである。目にしみないからオキシダントの心配はないと思っているところにオゾンの襲撃があれば、これこそまさに死角というものであろう。オキシダント検出に用いられる装置が、三成分に個別に反応するのではなく、無差別に全成分の総和を捕えるという原理であることも、死角づくりに一役買っている。

 パン、アルデヒドの障害作用は、植物についてはかなり調査研究があって、その深刻さが知られている。しかし、人体にいかなる害をおよぼすかという点で、くわしいことはわかっていない。その強烈な化学作用が、結膜、咽喉、鼻腔などの粘膜に炎症をおこすことは常識でわかる。

 動物実験によれば、オゾンの害は、肺における水腫形成ないし出血、赤血球の酸素運搬作用の阻害などである。

無公害車を信じるな

 アフターバーナーによって排ガス中の炭化水素をへらし、二酸化窒素をふりまく自動車に対して無公害車の名を与えるのは不当であろう。しかし、アフターバーナーを取り付けるといえば、いかにも無公害の方向に大きく前進したという印象が強い。結局、公害局が都知事を初めとして建設局から都民までもたぶらかすことになりはしないかと、私は対話集会でいった。そしてまた、アフターバーナーを設置しても、オキシダントの九〇%程度は残ることを主張する一方、排ガスの汚染物質が減少したとしても、自動車数の増加によって遠くない将来に帳消しになることを承認させたのであった。

 京大においては燃料に水やアルコールを添加することによって、排ガス中の炭化水素、一酸化炭素、二酸化窒素をへらすことに成功した。大西研究所ではシリンダーヘッドの改良によって、炭化水素、一酸化炭素をへらす方法を開発した。このようにして、自動車排ガス中の汚染物質は減少の方向に向かうことが予想できる。しかしこのメリットが、自動車数の増加があれば帳消しになることは明らかであって、それゆえにこそ、われわれは道路建設に反対しているのである。

 先般、新潟港外でリベリアのタンカーが座礁して五、〇〇〇トン余の原油が海面から海岸までを汚染した。この被害は甚大なものであって、残留効果は今後数年におよぶことが予想され、漁民を初め、多くの人を不安に陥しいれた。この石油がわが国に運ばれる理由を考えれば、その目的の半分以上、恐らく六〇%は自動車のためである。自動車が海を汚したといった過言ではない。自動車のエンジンが仮りに無公害であったとしても、それは海を汚染する。現在、年間世界の海にこぼれる石油は四〇〇万トンから一、〇〇〇万トンと推定されているのである。ここに死角を見ないかぎり、自動車公害問題を論じても尻がぬけてしまう。

 公害問題の死角は《知識の死角》にほかならない。グローバルに問題をたてなければ、そしてあらゆる知識を動員しなければ、公害は死角に逃げこむのである。無公害車の開発を、死角の中の公害のエスカレーションと見るだけの視野がなければ、われわれはピカールの警告に耳を貸さなかったことになる。都の公害局にかぎらず、公害関係の行政機関にこのことの認識を求めたい。

 ガソリン自動車の引退を願って電気自動車をという空気がある。このバッテリーの充電のために発電所はそれだけ余分に燃料をたかなければならず、バッテリー製造のために鉛の需要が高まり、鉛およびそれに不純物として含まれる砒素による大気汚染が予想されることを思えば、電気自動車もまた新たな死角をつくる公害源である。悪くいえば、われわれは死角に逃げこんで公害問題をごまかしているのだ。《無公害車》などは存在しないと考えるがよい。

総公害と滅亡への事実

 公害問題を考えるとき、われわれは、死角をつくらないようにつとめることが必要である。阿賀野川事件のように、全く人為的に死角が用意されることもありうると考えれば、すべての死角を離脱することは容易でない。それはすなわち、公害から抜け出して人類が生き延びることが容易でないことを意味している。

 そこで私は《総公害》の概念を提唱したい。総公害とは、公害被害者にとっての公害の総和である。われわれは多くの公害の被害者である。そして、われわれの一人一人が公害を免かれれば、人類の滅亡は避けられると考えるとき、被害者としてわれわれが受け取る公害の総和に目を向けることこそが重要という見方から、《総公害》ということばを、私は思いついたのである。

 幹線道路沿いに住む人の場合を例にとろう。自動車の騒音や振動は、まず午前五時頃からやってくる。安眠妨害まちがいない。それは、騒音公害、振動公害である。電話、テレビ、会話などの声は、騒音で終日じゃまされる。これはストレスとして副腎を攻撃し、消化器障害、心臓障害として表面化するはずだ。

 この人に加わる公害は騒音だけではない。排ガス公害が攻めよせる。一酸化炭素、炭化水素、一酸化窒素、二酸化窒素、亜硫酸ガス、酸化鉛などがその成分である。このほか、ブレーキライニングからくるアスベストの粒子もある。それらはその時点に家の前を走る自動車からのものであるが、この人の呼吸する空気には、ほかの汚染物質もある。酸化鉛などの酸化物の微粉には農薬が吸着している。農薬はPCBと共に気体の形でも大気中にある。

 大気中にはしばしばオキシダントが発生する。それは定型的にはオゾン、パン、アルデヒドの三者であるが、その最初の物質である二酸化窒素だけの場合もある。夜のオキシダントの主成分はそれだといわれている。紫外線で分解されないまま上空にあがっていた二酸化窒素が、下降気流で地表におりてくるのである。

 とにかくわれわれの吸気はこのように多種多様な汚染物質を含んでいる。そしてその大部分はわれわれの感覚の死角から忍びよってくる。これを呼吸器の粘膜がもろに受けるのである。粘膜は、各種汚染物質の総攻撃を持ちこたえなければならない。ぜんそくがおこれば、これらの協同効果の結果であろうが、それを私は総公害といいたいのである。

 四日市市のぜんそく患者九名が、第一石油コンビナート六社を相手取って損害賠償を要求する訴訟は、まもなく結審になる見込みである。会社側は、米国バージニア州ヘイズルトン研究所の実験結果を採用して、四日市と同程度の濃度の亜硫酸ガスを呼吸したカニクイザルに異常がなかったことをあげた。一方、原告側は米国ワシントン小児科病院のロバート・スネル氏の人体実験を採用する。被験者は男性四、女性五で、いずれも健康な壮年者であった。これに一五分間ずつ、〇・五ppm、一ppm、五ppmの亜硫酸ガスを吸わせたのである。実験の前後に、最大呼気流出量を測定して、その比を肺機能低下の尺度とした。これが一〇〇%なら、亜硫酸ガスがほかの障害はともかく、少なくとも肺機能に対しては障害がないとみる。

 結果はこうであった。〇・五ppmの場合、九名中五名が平均四%の肺機能低下を見せた。一ppmでは八名が平均七%であった。そして、五ppmになると、全員が平均一三%の肺機能低下を見せた。

 四日市の場合、亜硫酸ガスの最高濃度は二・七ppmであって、それが長時間にわたっている。呼気流出量の減少は気管支収縮のためであって、これが長時間つづけば、単なる収縮が病変に転じ、ぜんそくにもなりうる。

 ワシントン小児科病院に見たような個人差は、日常われわれの経験するところであるが、それは何に起因するのであろうか。

 Aの気管支の粘膜をはがし、Bの気管支に移植を試みたと仮定しよう。これは拒否反応に会って壊死に陥るはずである。このことは気管支粘膜を構成する細胞の壁のタンパク質分子のアミノ酸配列の個体差を意味する。人間とカニクイザルとの差は、人間の個体差よりさらに大きかろう。動物実験が塩水クサビ的死角を生む可能性のあることは断言してよい。このささやかな人体実験においてさえ、その結果は他人に妥協しなかったではないか。タンパク質の個体差は、亜硫酸ガスによる障害の個体差となって当然であろう。

 同一個人についても、粘膜の機能はビタミンAの欠乏によって低下する。それも亜硫酸ガス障害の個体差となるにちがいない。

 総公害の観点からすれば、この場合、気管支粘膜に影響するすべての要素を考慮することが要求される。窒素酸化物からベンツピレン、PCBにいたるまでの多種多様な汚染物質の濃度を無視して単一物質のppmをいうことは、公害源の大部分を死角に追いやることにほかならぬ。

 個々人の体内の公害をわれわれは知る由もない。質も量もすべては不可知の死角にもぐりこんでいる。不可知からにせよ無知からにせよ、死角をつくりながらの公害論議が不毛であること、われわれ一人一人は、単一の公害要素ではなく、総公害の矢おもてに立たされている事実を銘記すべきである。

現代の眼 一九七二年二月

3 奇怪至極な公害行政

 私の住む町に中規模の工場がある。そこでは半年ほどまえまでの約二〇年、塩化ビニールの粉末に鉛の粉末を混合する作業をつづけていた。その従業員に鉛中毒患者がいたことからこの事実が明るみにでて、いわゆる住民運動がはじまった。口火を切ったのは、鉛のせいかどうかわからないが、とにかく工場の近くに住む体調の悪い主婦である。

 鉛公害をなくす会が結成されて二回目の会合から、この婦人は脱落した。ここに第一の怪がある。

 汚染状態をつまびらかにするために、公害をなくす会は自主的に工場の周辺の土壌や堆積物を採取して分析を依頼した。その結果、車の排ガスによるとは考えられない程度の汚染が、あちこちで発見された。地域にこの事実を周知させかつ鉛中毒についての知識をえる目的で学習会が計画された。すると、開催当日定刻寸前になって予定の会場が閉鎖された。これが第二の怪である。

 数ヵ月後の第二回学習会も同じようにしてつぶされ、講師二人が、にわかに変更された会場にたどりつくことができなかった。

 定石どおり区議会への陳情となり、その結果、汚染の調査が実施された。結局、工場内に汚染はなく、「工場より排出した粉塵中の鉛、カドミが周囲の環境へ特に影響したことは断定できない」という区当局の公式見解となった。工場の立ち入りにあたっては、日時、場所、方法が通知されたのであって、濃厚汚染のあるべきはずはなかったのだ。しかもこの調査によって工場に近接する住宅供給公社住宅の屋上で、一、九〇〇ppmという鉛の異常高値が発見されているのである。区当局の見解は第三の怪というべきだろう。

 なおこの前後をつうじて区議会は、公害をなくす会のニュースの発行の中止を要求しつづけた。ニュースなくして事情を知りようのない住民の利益のために、われわれはその発行を強行した。公害情報伝達の手段を奪おうとする区議会の態度は第四の怪であった。

 工場の近所には鉛中毒患者が多発し、専門医による治療が奏功しつつあったので、われわれは保健所に対し、公害検診および治療の要請書を提出した。やがて予算措置ができたというので実施内容をたずねたところ、都内に鉛汚染地域はないので肺機能検査を主とするが、付帯的に若干名を対象として鉛の検査をしてもよいという回答であった。第五の怪はこの食いちがいである。

 彼らの採用する尿中鉛の検査法では、国際的に認められたコプロポルフィリンではなく目下研究段階にあるデルタALAアラを対象とするという。第六の怪はこれである。鉛汚染なしとの判定を下される公算は大きいだろう。われわれがこの検診を拒否せざるをえなかったのはそのためである。

 私個人についていえば、同工場の西方二二〇メートル余の地点に住んでいて、つい先日、毛髪やツメに異常高濃度の鉛が発見された。私は左足親指の伸筋脱力、右膝蓋腱反射の減退を発見された。家内は膝関節痛のほか、赤血球も白血球も数が少なく、やたらに風邪をひく。血圧は上が七五、下が五〇である。私の血圧は上が二二〇、下が一三〇であった。いずれも鉛中毒の症状であって、われわれは目下通院治療中である。

 公害行政の奇怪至極なパターンを、われわれはいまも身をもって味わいつつある。

 ちなみに、宅の屋根裏につもったほこりを検査したところ、二九、五〇〇ppmの鉛が検出された。

東京タイムズ 一九七四年四月二十九日

4 公害病患者を救う道

 破壊が急速に進行する環境のもとで、いわゆる公害病と疑われる患者は各地に続出しつつある。法律上の認定はともかく、ある病状がはたして公害病のものか否かの問題が、これまで何回となく繰り返されてきた。近くは有明海の第三水俣病のケースにそれを見る。ここでは特定の二人の患者について、その運動失調を老人性のものとする新潟大椿教授と、有機水銀によるとする熊本大武内教授との対立の形となり、結局はシロということで〝政治的〟におさまりがつけられた。

 汚染大気を呼吸し、汚染食品を食っているわれわれ日本人は多様な物質によって汚染され、多少の差はあっても公害病の素因を抱えている。どんな病気にも汚染物質が一役買っていると見るのが正しい。症状が一般に典型性を欠き、従来の病名に対応しなくなってきた。公害時代の医学者は頭の切り替えの必要に迫られている、との認識が必要である。前記二人の患者の場合、争点は運動失調の内容にしぼられた。これで決着がつかず、武内教授側が眼科領域の異常を新たな資料として提出したのに対し、椿教授がそれを斥けてシロを貫徹した経緯は、公害病の論理、とくに方法論の欠落の悲劇を思わせる。

 運動失調は老化からもおこり有機水銀からもおこる。その患者の運動中枢に有機水銀の蓄積ゼロのはずはないと考えれば原因を老化一本に限定するのはおかしい。単純な老化から発症するはずの運動失調が、一ヵ月でも一ヵ年でも早められたかもしれぬことを疑うのが生体の論理であろう。この生体の論理が公害病の論理の基礎でなければなるまい。いや、これのみが公害病患者を救う道である。運動失調のほかに、視野狭窄、構音障害、知覚障害、聴覚障害の四症状がそろうのを待って初めて水俣病と診断するなどは、公害時代をわきまえぬもののしわざであろう。

 公害病の方法論は光化学スモッグの場合に一層複雑な形でためされようとしている。いわゆる東京スモッグの主犯物質は何かという問題が二年越しの争点となっている。アクロレインだ、シアンだ、硝酸メチルだと、論議はえんえんとつづく。生体の論理からの当然の帰結は総物質による複合汚染ということでなければならぬのに、多くの医学者がこれと反対の方向を志向するのはどうしたことか。

 東京型光化学スモッグの場合、ハイオクガソリン添加物としての四エチル鉛の一部を芳香族炭化水素に切り替えたことから、成分も症状もロサンゼルス型とちがって複雑化した。光化学スモッグの中心校石神井南中学校で飼育したマウスの肝臓には壊死による欠損部が発見された。古典的な病気には見られないこの所見は複合汚染による公害病の象徴といえよう。

 公害病を含むすべての病気の発症や悪化に汚染物質が参加する可能性を考えれば、特定の物質にも特定の企業にも全責任をおしつけるのは強引にすぎる。それにもかかわらず、限定された地域に特定物質の濃厚汚染があり、それが特定企業に結び付く場合、患者、非患者を問わずその企業に全面的な責任をとらせるのが公害病の論理である。なぜならばそれは公害をなくす方向への寄与の論理でなければならないからである。光化学スモッグのように特定の企業にシリをもってゆけない公害病の論理もまた公害をなくす方向を志向するものでなければならない。

東京タイムズ 一九七三年九月二日

5 住民運動の強みと弱み

 ゴミ戦争といい日照権闘争といい、およそ住民運動のテーマとなるものはすべてが環境破壊に、公害にかかわっているといってよい。私の参加している放射三五、三六号道路対策住民協議会、練馬公害をなくす会、小竹町旭丘公害をなくす会も例外ではない。環境破壊が経済成長の落とし子であることからすれば、住民運動が行政に対する直接民主主義的チェックシステムとしての性格をもつことは理の当然であろう。同時にまた政権担当政党が住民運動と対立する傾向の強いことも理の当然であろう。

 一方、住民なるものが一党に偏することはありえない。住民運動の原則は超党派でなければならぬ。だが実際問題としてここに政党色がもちこまれることはまれでない。これは分裂もしくは火消しの効果をもつものであって、住民運動の不幸はここからはじまる。前記住民協の場合に自民党が道路建設促進派を結集しようとしたのも、練馬の会の場合に公明党が参加しないのも、小竹町旭丘の場合に被害者から脱落者が出たのも偶然ではなく、この意味での不幸とみてよかろう。

 住民運動は相手方の目には脅威的存在として映ることがあるようだ。しかしどの運動体の会合をみても、何分の一かの出席率にすぎず、いわゆる住民パワーを自覚しうる瞬間はほとんどない。会合が昼間ならば主力は女性、夜間ならば主力は男性に移るという生態は、住民運動が盛りあがりにくいことの大きな要因となっている。住民運動はささやかなきっかけで形骸化する可能性をもつ脆弱なしろものといって過言でない。住民運動の相手方は、行政当局にせよ企業代表者にせよ、職務の一端として住民に当たることができるのに対し、住民は職場なり家庭なりを犠牲にして手弁当で活動しなければならないわけだ。

 住民運動の出発点は基本的人権の主張にある。健康にして文化的な生活とは何ぞやという難問はあるが、これを拡大解釈しては水増し人権となって、他者からエゴとみえることになる。水増しをはかれば他者の人権とぶつかるからだ。人権は衝突の悲劇を回避するための縮小を頭において相互に擁護すべきものだ。ゴミ戦争もこの原則によって解決しなければならない。基本的人権とかかわりない企業体や大地主が住民運動まがいの動きをみせるなどはもってのほかである。

 基本的人権は本来イギリスの民事裁判が守ってきた個々人の権利の総括として明確化した概念だ。これは人間の英知の発掘した真理といってよい。そのような意味において、住民運動は人権擁護運動の性格をもっている。住民運動の武器はこれら一連の〝真理〟以外には何もないと覚悟するがよい。それゆえにこそ、自治体の首長として真理をわきまえる人物が歓迎される理由があるのだ。

 小竹町旭丘の会は鉛公害の発生源と目される企業を相手取っている。この経営者が区議会多数派を動かした結果、汚染調査のデータの処理において行政当局の見解に偏向があらわれたことは住民の憤激を買った。ここに隣接する都営住宅屋上の堆積物に一、九三〇ppmの鉛が検出され、鉛中毒のためにピアノのひけなくなった小学生がいるのにシロとの判定をとりつけた会社は、従業員の認定患者に対する労災保険の負担金打ち切りを策した。真理という絶対の強みをもつはずの武器が通用しない土壌がここにあるとすれば、住民運動の前途はけわしいといわざるをえない。

東京タイムズ 一九七三十月二十三日

6 革新自治体行政への黒い圧力

 革新自治体において公害問題はいかに扱われているだろうか。これは革新を志向する人びとの関心事であるにちがいあるまい。

 公害発生源が固定している場合、被害者は当然のこととして住民であり、ここに地方自治体が介入する場面がでてくるはずだ。

 私の住む東京・練馬のある町に、二〇年来鉛を排出してきた工場がある。そこで鉛中毒にやられた一従業員が騒ぎだしたことから、住民は初めてここに公害発生源のあることを知った。うかつといえばうかつだが、公害問題の露頭はおおむねかくの如きものであろう。

 行政は住民の突き上げによって腰をあげるわけだから、後手にまわらざるをえない。

 われわれの住民運動は、同工場に半年ほどパートで勤務した経歴のある一主婦が重い中毒症状をあらわしたことから始まった。

 学習会が再度つぶされたこと、講演を引き受けたはずの区公害対策課長がそれをことわったことなど暗いかげりは当初からつきまとっていた。万事が住民の意向をじゅうりんする方向にあった。

 われわれ住民は鉛中毒に関する権威者の指導、ならびに鉛中毒患者会の支援のもとに、あるいは会合をもち、あるいはニュースを発行する一方、工場周辺の被害調査を自主的におこなった。原子吸光分析法を採用する専門の業者に委託したものであった。

 このデータは、一、二〇〇ppmという異常高値の鉛汚染をふくむものであったのに、区当局はこれを真剣に受けとめなかったのである。実情の把握を不可欠と考える住民の陳情にもとづいて、都公害局、区公害対策課、練馬保健所の三者機関は実地調査にふみきらざるをえなくなった。

 このとき当局は、問題の工場に対しては立ち入りの日時、個所、方法を明示し、住民に対しては一切を秘密にしたのであった。結果は、工場の内外に汚染はなく、環境破壊は証明できないという趣旨のものとなった。工場に隣接する住宅供給公社住宅の屋上堆積物に一、九三〇ppmの鉛を検出したにもかかわらずである。しかもまた、鉛中毒との診断をうけて治療のために通院しつづける住民が多数いるにもかかわらずである。

 都衛生研究所の見解によれば、例の柳町交差点付近をもふくめて都内に鉛中毒患者は存在せず、また鉛中毒の安全な治療法も存在しない。

 問題の工場周辺の住民は、あらためて保健所にむかって集団検診を要請した。保健所の上部機関である都衛生局は、住民が自主検診の経験をつうじて信頼する方法をしりぞけ、別個の方法を強行しようとして譲らない。都の方法によるならば、中毒患者ゼロとの判断に到達することは必至という予想から、住民は再度にわたって集団検診を拒否してきた。

 この事件の全経過をつうじて、都当局も区当局も一度として住民の側に立ったためしがない。最近また重症患者が発生した事実を見ている住民は、この地域では基本的人権が明らかに侵害されているという認識のもとに、失望と憤激とを禁じえないのである。

 先般、重症言語障害をおこしてオシのようになった患者に対し、タイプによる職業病であるとの解釈を工場側はしている。この婦人は過去はともかく、現在はタイピストを職業としてはいない家庭の主婦なのだ。

 この鉛中毒患者多発事件に対し、日本共産党の謀略であるとの説が流布されている。日共党員が鉛の粉末をふりまいて歩く現場を見たという証拠でもあればともかく、デッチあげ謀略説は卑劣であり幼稚である。現実に中毒患者が多数いるにもかかわらず、その公害が存在しないかのように見せかける小手先の細工は、結局は被害を大きくするだけであろう。

 この黒い圧力の主人公を、かつての自民党有力都議である工場主に擬する向きもあるが、万一それが真相であって、住民不在の行政がまかりとおる現在のパターンがそこからきているとするなら、公害撲滅のためには議会における保革逆転が必要という論理になる。とかく国民の意向を軽視する官僚の頭の切り換えも、その時までお預けということだろう。

東京タイムズ 一九七五年一月十四日

7 光化学スモッグといかに戦うか

無知、無関心が悪の根源

 公害に対する戦いは、無知との戦いの側面をもっている。無知との戦いを私は宣言したい。

 そこで私は総公害という概念に到達する。これは環境破壊の原因のほか公害の本質に対する無知、無関心、そこから派生する無為、無策、怠慢、隠蔽などの総括である。公害をなくす運動は総公害との戦い以外のものではない。この戦いでは公害源の告発もさることながら、公害に対する無知、無関心、事実の隠蔽、行政上の無為、無策、怠慢のすべてが告発される。

 公害には加害者があり被害者がある。被害者が同時に加害者という公害の特性を象徴するのが光化学スモッグを頂点とする車公害だ。車を乗りまわす人間が車公害の被害を免かれる道はない。この点についての無知、無関心が車公害を助長しているのである。

 被害者が被害を最小限にとどめたいと願うのは当然だ。光化学スモッグについていえば、それに起因する障害の予防や治療は切望されている。これに指示を与えようとしない医学者は無策、怠慢を責められてよかろう。

 練馬区石神井南中学校を中心として発生した光化学スモッグとの戦いを企図して結成された東京スモッグをなくす都民の集いの最有力メンバー高橋晄正氏の示す指示は、安静もしくは転地だという。転地は最高だろうが、おいそれと実行できることではない。前記石神井南中には家出をした生徒がいる。家出は転地の一形態として正当化される余地をもつとしたら何をかいわんやだ。

 光化学スモッグを特徴づける汚染物質の正体は未知である。オキシダントを主成分とするロサンゼルス型とは違うから東京型としておこうという発想は、ややもすればこれにべールをかぶせる効果をもってくる。

 光化学スモッグの正体の解明は科学の土俵上の作業である。だが科学の研究は資本の自己運動からエネルギーを補給されることなしに大規模に展開されるわけがない。要するに、光化学スモッグの研究などが現体制のなかで強力に推進されることを期待するのは、木によって魚を求めるのたぐいの幻想だ。てんでばらばらの諸説紛々たるゆえんはここにある。

 石神井南中が昨年光化学スモッグの直撃を受けた当時、自動車通勤の教師が一一人ほどいたそうだ。その連中に対して生徒たちが、自動車通勤をやめて欲しいと歎願したところ、これに応じた教師は一人にすぎず、他の諸君は、そんなことをいわれるなら転勤すると突っぱねたという。これも無知のいたすところとするならば、教師も公害の一要素であると、総公害論者は裁断しなければならなくなる。

 同中学の教師の間では、光化学スモッグにやられるのは、平素の鍛練の不足の結果という見解が支配的だ。光化学スモッグについては誰も何もわかっちゃいないではないかという通念への居直りが、精神主義の温床となったかっこうである。この教師たちが鍛練に執心のあまり、医師から安静の指示をうけている生徒が体育の授業に参加しなければ、容赦なくこれを〝一〟と評価する暴挙も無知からのものといえよう。この根底にある科学者の怠慢は、体制の必然とはいえ見逃してはなるまい。この精神主義者がバリバリの日教組員であることに父兄はあきれている。無知は保守反動の独占ではなかったのだ。

 石神井南中から遠くない大泉中も光化学スモッグ被害校として知られている。本年五月、練馬区教育委員会は区医師医療センターに委嘱して両校生徒の肺機能を検査した。その結果、石神井南中では七二七人中三三八人、大泉中では一、三一三人中六七〇人に肺機能の異常低下が発見された。全生徒の約半数に肺活量および換気能率の異常低下がみられたのだ。われわれがこの件を区当局にただしたのに対する回答は、肺機能検査は習熟していないと正確な数値がでにくいという弁明的なものであった。重要データが怠慢により葬られた形だ。これで教師諸君の精神主義はぐらつかずにすむことになる。

 大泉中では同じく本年五月末、三年生全員に視力検査を実施した。その結果、男子二六八人、女子二一七人、計四八五人中、四月から一ヵ月半の期間に視力の低下した者、男子一一九人、女子八八人、計二〇七人という数字がえられた。四二%という驚異的高率である。これは医師会や学校医によらず、養護教諭を中心とするPTAによる検査であった。都プロジェクトチームの一員であった三上理一郎氏に所見をただしたところ、この年代は視力の低下する時期にあたると一蹴された。学校医をつうじ校長の裁決を経なければすべての被害はあったことにならないのである。総公害の発生源はわれわれを取り巻いているといってよい。

平均的個人差の消去

 公害問題にはとかく暗いかげりがある。石南中の養護教諭は光化学スモッグによる被害を克明に保健所に届けた。貴校だけに被害が集中するのはおかしい、校長の印のない届は無効という理由で、これは受領されなかったという。同校校長が被害事実の隠蔽につとめた事実は、本年五月末の朝日新聞紙上で扱われた。被害の集中が知られたら報道関係がうるさくて教育の支障になるから校長は事実を隠蔽したがる、というのが区当局の説明であった。すべての事実が明るみにでたとき、初めてその根源を断つ道が発見できるのだ。

 石南中の生徒には家出をした者もいるが、集団万引をした者もいる。これを昨年度光化学スモッグの後遺症とみるのが正しかろう。それは人心の荒廃にまでおよんだのだ。経団連前会長石坂泰三氏の「自分は公害を感じたことがない」というような感覚は無知の所産として断罪されなければならぬ。公害がおおかたの日本人の心身をむしばんでいることは疑いもない事実である。

 学校当局の隠蔽は生徒の隠蔽を生んだ。石南中の卒業生は体調の悪いことをかくして高校に進学した。そのうちの一人は光化学スモッグ発生のないある日全身硬直で卒倒した。ここまできて初めて事実が事実としての重みをあらわしたことは、悲劇中の悲劇だ。

 光化学スモッグに関連するもろもろの症状を気のせいにする心因説を打ち出したのは都のプロジェクトチームであった。しかしこの説の火元が、父兄の不信の的である学校医にあったことを見逃してはなるまい。

 学校医から都のプロジェクトチームまでを一貫する心因説を鋭く批判したのは高橋晄正氏であった。氏は昨年九月、石南中の有志一〇一名に対して、肝臓の触診と尿タンパクの検査とを実施した。その結果、自覚症状の有無にかかわりなく、約四〇%の生徒に肝臓の異常が発見された。心因説を固持する校長の肝臓肥大は皮肉であった。

 結局、心因説は高橋晄正氏らの精力的な活動によって破られ、区教育委員会の通達も練馬公害をなくす会の申し入れによって改められた。そこまではよいとして、心因説にかわろうとするものが体質説である点に疑問をいだかざるをえない。

 体質といえば、予防接種などによる事故を体質の異常によるものと説明するさいに援用される概念である。医療行為が不測の事態を招いたとき、それを正当化する手段として〝体質〟があるかにみえる。医師にとってこの理論不在の体質論ほど便利な口実はあるまい。

 現在編集中の某大百科事典の責任者に「体質」の項の取り扱いについてたずねたことがある。すると、クレッチマーの体質論だといって彼は苦笑した。これは半世紀前のものであって、肥満型、細長型、闘士型と体型を三つに分類し、それらが俗にいう気質といかに対応するかを経験的かつ主観的に論じたものであって、なんら体質の本質に迫るものではない。この前近代的体質論以後の不毛のために、今日の百科事典がこのかびくさい代物を引っ張り出さざるをえないのだ。クレッチマーの体質論が現実に無力であることは、異常体質をいうときこれが片鱗をも見せない事実が何よりの証拠である。都プロジェクトチームがこの亡霊のごとき体質論のなかに光化学スモッグ症候群を沈没させるような空気を置き土産にするとしたら、その罪は軽くはあるまい。

 核酸DNAが遺伝情報の担い手であることが確認された一九五三年以降、体質論はDNAの上に構築されるべきであった。体質は当然遺伝情報に組み込まれていると考えるべきだが、遺伝情報の完全に同一なセットの所有者は一卵性双生児以外にないとすれば、個人間の相違は、遺伝情報の部分的差異に帰すべきものとなる。この相違は現象としては〝代謝の効率〟の差異の形をとり、ビタミンおよびミネラルの所要量の差異として表面化する性質のものである。

 右の体質論は私のものであって、著書『人間への挑戦』(本書シリーズ一三巻)のなかの〝体質論試論〟にくわしいのでここでは割愛する。

 この体質論を援用するならば光化学スモッグによる被害の個人差はまさに体質からくる。だがしかし、その個人差は消去する道があるということになる。そうかといって、この被害を完全に回避しうる体質の獲得が可能だなどという暴論への道をひらくものではない。いわゆる異常体質なるものの本質を、平均的な体質からの把握しうる偏差として認めることとすれば、それをカバーする手段がないではないといいたいのだ。体質論の確立を怠ったまま光化学スモッグによる障害を体質におしつけるのは泥沼への道以外のものではない。心因説から体質説への安易な変身は事柄をうやむやにするペテンに近い。

基本は人間尊重

 石南中を中心とする光化学スモッグ被害がオキシダント濃度の低いときにも発生することから、非オキシダント説があらわれた。シアン説、硝酸メチル説、アクロレイン説などがこれである。それら紛々たる諸説を並列するとき、心ある人はその説得力のなさに気づく。

 自然科学の伝統では単純化が美徳だった。単純化は法則把握の一方法であった。単純化の中で測定回数は有限たりうる。有限個の情報から法則に接近することができた。

 公害問題はこれではだめだ。複合汚染の様相いちじるしく、測定対象は無限に存在し、無限回の測定が要求される。それなしに説得力の発生しないことは、光化学スモッグに関する諸説の説得力のなさが証明している。

 無限回の測定は無限の時間を要求する。しかも無限個の測定値がなければ説得力があらわれないとなると、科学の支柱の一つであった実証主義は挫折する。公害問題は先取りを必須の条件とするが、無限個の情報を必要とする実証主義が先取りの論理たりえぬことは明白だ。実証による説得力を待つかぎり後手を覚悟せねばならぬ、われわれは勇敢に実証主義を脱皮せねばならぬ。

 そうかといって、科学精神の欠如の上にそれの超越はありえない。まず科学の方法を援用し、しかるのちにこれを止揚するのが順序であろう。しかも古典的な実証主義に捉われてはならないのである。

 無限回の測定を要する対象に有限回の測定で立ち向かい、そこから結論を導くのは洞察だ。洞察なくして公害問題は片付かない。洞察力こそは無限個の情報の処理を代行する。洞察力を欠く者は公害問題に取り組む人間としての資格を欠く。洞察力なしの学術論争は、加害者の時間稼ぎ、公害のエスカレーションというデメリットによって報復されよう。

 最近石神井地区に肺ガン患者が多発しつつあるが、いまや光化学スモッグ公害は重大な段階にさしかかった。光化学スモッグの前駆物質窒素酸化物の六九%が車からと知られた今日、自動車の徹底的な規制が要請される。同時に個々人は被害を最小限に食いとめるための自衛策を講じなくてはならぬ。

 光化学スモッグ症候群は不安神経症にあらわれるダコスタ症候群と大幅にかさなる。しかもそれは乳酸塩の静脈注射によって人為的に発症させられる。そこで、光化学スモッグによる乳酸の大量発生を想定してみたい。

 元来、体内の乳酸は酸素もしくはビタミンB1の欠乏を背景として発生する。血中にオゾンがあれば、赤血球のヘモグロビンの輸送してきた酸素が放出を阻害される現象もあり、排ガス中に存在する一酸化炭素がヘモグロビンの酸素輸送を阻害する現象もある。組織が光化学スモッグや排ガスのために酸欠状態に追い込まれることは明らかである。この状態回避のためにはビタミンEの酸素保持作用を利用するのが賢明であろう。

 光化学スモッグ後遺症として肝臓障害があれば乳酸脱水素酵素の血中濃度が上昇する。これが乳酸産生を高進させることを考えれば、被害の経験者にダコスタ症候群の発生しやすいことが十分に想像される。乳酸塩を静注するときカルシウム塩を添加すると症状の軽減がみられる。ダコスタ症候群予防のためにはカルシウムの積極的な摂取がものをいうはずだ。

 今年の日本内科学会の席上、内山照雄氏はオゾンが肺胞に与える影響についての動物実験の結果を報告した。細胞膜リポイド層中のリン脂質に過酸化がおこり、ATP分解酵素の産生が阻害されることが肺水腫の機序であるという。細胞膜の変性は、抗酸化作用を有するビタミンEおよびビタミンB2の投与によって予防もでき治療もできることがわかった。

 一方、アクロレインなどによる眼のチカチカについては粘膜の抵抗力の大小がかかわってくる。したがってこの症状に対してはビタミンAの効果を思わざるをえない。

 光化学スモッグ多発地帯の住民に高い比率でみられる肝臓障害に対しては、安静の指示も適切であるにちがいないが、高タンパク食、ビタミンB2の積極的摂取、減塩食などの指示も重要なはずだ。

 結局、ビタミンおよびミネラルの日常の摂取量が、光化学スモッグ発生時の異常な代謝に見合うか否かが、個人的被害の大きさを決定することになる。この背景に代謝の効率ありとするのが私の体質論であるが、ここには詳論を控える。

 公害をなくす戦いには、汚染源にむけた戦線と自己にむけた戦線との両面がある。加害者の告発に急なあまり個人的対策をなおざりにするのは人間尊重の態度ではない。個人的対策ゼロを前提としなければ汚染源にむけた戦いのエネルギーが結集できないようでは、人類の前途は暗いといわざるをえない。

東京タイムズ 一九七三年十月二十日

8 こわい排ガス

 牛込柳町交差点付近の鉛公害が問題になったのは、昭和三九年、東京オリンピックが車の洪水をもたらした時期にあたる。バス停の移転など緊急措置によって、同地点の大気にみられた鉛の異常高濃度は一応解消したかっこうとなり、柳町鉛公害問題は視野のなかで遠ざかりつつあった。その時点で肺ガン多発が指摘されたのは、当時の牛込保健所長大八木重郎氏の執拗な研究のたまものにほかならぬ。その成果は一一月七日から開催される東京都衛生局学会で発表されるという。

 大八木氏の調査によれば、オリンピック大会当時、同交差点付近に多発したのは肺気腫、気管支ぜん息であって、肺ガンの増加をみたのはその数年後である。そして前記措置によって交通渋滞が緩和されたのち、肺ガン患者は減少したという。

 大八木氏は牛込保健所管内を四〇ブロックに分け、昭和四三年から五年間の人口一五万人当たり肺ガン死亡率を求めた。柳町交差点を中心とする一〇〇メートル以内の区画では五九件、一〇〇~二〇〇メートルの区画では二五・五件、二〇〇~三〇〇メートルの区画では一三件という注目すべき数字がでた。これに準じて膵臓ガン、副腎ガンの死亡者も多発したという。

 いわゆる車公害は光化学スモッグに代表される形となった。しかしこれは紫外線なしにはありえない代物であって、排ガスそのものではない。柳町交差点の鉛も肺ガンも、光化学スモッグ以前の排ガスからきている。排ガス公害を光化学スモッグのべールでかくしては重大なミスをおかすだろう。

 柳町交差点付近の住民の現在の訴えのなかに握力の低下がある。筋肉機能障害は鉛中毒の主症状の一つであって、私の居住する地域で発見されたピアノの弾けなくなった少女の場合もまさにそれであった。物を握る力がだんだん弱くなることを自覚する人はためらわずに専門医の診断を受けるのがよい。鉛中毒はキレート剤の点滴によって副作用なしに劇的な回復をみることができるからである。

 氷川下セツルメント病院山田信夫氏によれば、自動車交通量の多い地域の住民は安静にしていても一日四〇マイクログラムの鉛を呼吸器から吸収するという。一方これの腎臓からの排出は一日二〇~三〇マイクログラムにすぎず、結局は平均一日一〇~二〇マイクログラムの鉛の蓄積が避けられない。牛込柳町といわず東京都民の大多数が体内の鉛蓄積量を毎日確実に増加しつつあるとみるのが至当であろう。握力の低下以外には不眠、腰痛、関節痛、貧血、ぜん息などになやむ人がいるのではあるまいか。幼児の場合には脳への侵入もありうるために知能低下の恐れがある。とりあえず毛髪や尿の検査で鉛汚染の程度をつきとめるべきではあるまいか。

 鉛中毒の症状は多種多様であるが肺ガンはそのリストにない。そこで指名手配されたのは三・四ベンツピレンだ。車のブレーキライニングから飛散する石綿の粉塵も発ガン物質として知られているので、これも無関係とはいいきれない。いずれにしても、鉛の蓄積で体調がおちたところに発ガン物質がつけこむという複合汚染の結果が肺ガンになったものと考えるのが正しかろう。骨髄に沈着した鉛がその造血機能を障害すれば、ガン細胞には有利になるはずである。

 三・四ベンツピレンは排ガスのみにあるのではない。紙巻タバコの煙にもあり石油タンパクにもある。大八木氏は喫煙についても調査して、柳町の住民がとくにへビースモーカーではないことをつきとめている。先頃石油タンパクの生産にストップがかけられたが、これは三・四ベンツピレン含有の疑いからのことであった。この不吉な物質は牛の肝臓にも含まれているが、経路はともかくそのみなもとは恐らく車の排ガスであろう。

 ガン細胞の発生には遺伝情報の読み取りの誤り(ミスリーディング)と何らかの形で関係するものがある。遺伝情報の担い手であるデオキシリボ核酸DNAの分子は繩梯子状であってステップとステップとの間に間隙がある。三・四ベンツピレン分子は、大きさといい扁平な形といい、その間隙に滑りこむのに適している。かくしてこれはミスリーディングの原因となり掛け値なしの発ガン物質となる。

 大八木氏は都内の肺ガン多発地域として柳町のほか、世田谷区玉川台一・二丁目、世田谷通り沿いの一地区、品川区の第二京浜沿いの一地区をあげている。いずれも交通渋滞の交差点と関係が深い。私の知るところによれば練馬区石神井南中学校付近にも多発地域がある。つぶさに調査すれば交通渋滞の頻発する地域の大部分は肺ガンの温床と判明するだろう。自動車道路網の拡充は肺ガン患者の増加に貢献することまちがいなしと覚悟すべきである。

東京タイムズ 一九七三年十一月三日

9 成績不振の学区の出来事

 私は東京の練馬に住んでいる。このあたりは一見文教地区のおもむきがあるが、立ち入ってみると小・中学生の成績が悪く、いざ高校進学となって父母をあわてさせる。学習指導のノンビリムードのせいにする人もいるが、学校から帰ればゴロゴロする子供が多い。

 練馬といえば光化学スモッグの本場だから、原因はそれだろうと早合点する向きもあるかもしれない。しかしそれはどうやら別個の問題のようだ。

 さて、この学区には塩化ビニールを扱う工場がある。そこでは過去二〇年にわたって鉛の粉じんをふりまいていた。ただし、この事実を住民は全く知っていない。

 この工場に半年ほどパートで働いたE夫人が悲惨な日々を送っているのをわれわれが知ったのは昨年のことだ。手足のぐあいが悪く、物はとりおとす、駅の階段からはころげおちる、それに腹部に激痛が走り、物忘れがひどくて失語症みたいになり、しばしば幻覚におそわれて廃人同様のありさまであった。

 彼女に私は、鉛の専門医を訪ねることをすすめた。その病院で治療をはじめたところ、症状はみるみる改善され人相も変わって、数ヵ月後には勤めができるまでになった。

 E夫人にはY子さんという小学六年生のひとり娘がいる。彼女も体調が悪く、昨年ついに指のもつれのためにピアノがひけなくなった。毛髪を調べたところ案のじょう鉛がでてきた。そこで病院通いがはじまったが、三回ほどの静脈注射でゴロゴロはなくなり、ピアノがひけ、腕力がめっぽう強くなった。そして、先生がびっくりするほど学校の成績がよくなった。

 私はかねてから、この地区の子供の不成績と鉛との関係を疑っていた。鉛は神経繊維の被覆である髄鞘に異変を与える関係上、若年者に知能障害をおこしやすいのである。

 汚染物質にとりまかれて生活せざるをえないとすれば、体調のささいな異常にも神経をとがらせるが、これも今日の知恵というものだろう。私どもの地区では、この原則にのっとって、鉛中毒容疑者をつぎつぎと病院に送りこみつつある。その工場から南方に約三〇〇メートルをへだてた地点にわずか四ヵ月居住した女性が意外な蓄積を示し、ほぼ全身の皮膚に知覚麻痺を生じた例もあった。

 私の家はその工場から西方に約二二〇メートルの距離にある。家内がやたらに風邪をひき、しばしば膝の関節がおかしいところから毛髪や爪を検査してもらった。すると標準値の三〇倍という数字が出た。私は一〇倍であったが、左足親指の伸筋の脱力が発見され、鉛中毒と診断された。昨年、右の膝蓋腱反射がほとんど消失していることを知ったが、これも鉛中毒の一症状とわかった。そして、スキー滑降中に枯木のように倒れる理由の説明がついた。

 大気中に鉛あり、食品中に有機水銀ありということで、私はかねてから重金属対策をたてていた。鉛汚染度の高い割に中毒症状が軽いのはそのおかげと信じている。それにしても、現実に典型的な証拠があっては放ってもおけず、蓄積した鉛をカルシウムと置換するキレート剤静注のために、私どもは毎週半日をつぶしている。大変なご時世になったものだ。

東京タイムズ 一九七四年四月三十日

10 動物実験の問題点

 やかましかったAF2問題の決着は意外に早くついた。この広範な用途をもつ殺菌剤の生理作用について疑いを発し、ついに官僚と企業とを降伏に追いこんだ市民の力を評価したい。汚染物の問題にかぎらず、物価の問題、政治資金の問題など、現代の難問にむかってかくのごとくに市民の力が発揮されんことを、このさい切に希望する。

 AF2是か非かの論争に終止符を打つ決め手は、その発ガン性にあった。ガンはこわい病気だからその原因になるような薬剤はご免こうむる、というのがここでの論理である。

 ご承知のとおり、発ガン性の追跡はもっぱら動物を対象としておこなわれる。人間での実験は、まちがいなく人道問題につらなるからだ。実験動物として好まれるのはマウスまたはラット、つまりネズミの類である。したがってそこには、ネズミに病気をおこす物質は人間にも病気をおこすという仮定が設定されている。ネズミにガンをつくる物質は人間に対しても発ガン性をあらわすと考えるわけだ。はたしてそれが正しいか、という問題についても、われわれはたまには反省の機会をもたなければなるまい。

 ネズミと人間とは一見して大いにちがう。ということは、その遺伝情報の担い手となる分子DNAに相違があるということだ。そしてまた、ガンがDNAの変異株だということも事実である。要するにネズミと人間との相違も、正常細胞とガン細胞との相違も、ともに遺伝情報にかかわっているのだ。

 一方、ネズミも人間も哺乳類に属する動物であって、前者は後者の先祖すじにあたる。したがって形態上の相違は大きくても、生理上の相違はさほど大きくはないと考えることができる。だからこそ人間の病気の研究に、ネズミが代役をつとめさせられるのだ。

 ガンという病気に対して、われわれ人間は少なくとも二種類の対抗手段をもっている。一つはガン細胞を攻撃するリンパ球であり、一つはガン細胞を特徴づける遺伝情報の解読を阻害するインターフェロンである。リンパ球の活性がそれの保有するビタミンCの濃度に左右され、インターフェロンの合成にビタミンCが不可欠であることが知られている。一方、ネズミにはビタミンC合成能力があり、人間にはそれがないことも知られている。われわれの祖先のサルは、突然変異によってビタミンC合成能力を喪失してしまったのだ。

 これら素朴な知識を援用するだけで、人間はネズミより発ガンしやすいと推論しなければならなくなる。じっさい下等動物は人間のようにやたらとガンにやられたりはしない。ネズミを材料として発ガン性を検討するにあたっては、この関係を考慮にいれる必要があるだろう。ついでにいえば人間の場合、ビタミンCを蓄積する傾向のある器官すなわち副腎、卵巣、眼球などは発ガンしにくいという事実もある。

 新聞の報道によれば、ネズミに発ガンさせるために投与したAF2の量は、食品から摂取される量に比較して格段に大きい。厚生省認定の使用基準の一七〇倍にも及ぶ量をネズミに与えての実験だから、従来の規制で十分だ、などの反論もあろう。その種の議論が重みをもちえないことは、ここでの論旨によって明瞭になるはずだ。ビタミンC合成能力を備えた動物に発ガンさせるためには、人間の場合と比較してけたちがいに大量の発ガン物質を与えなければならないという大原則があると考えてよい。

 ここに発ガン性を疑われる物質があって、それをネズミに投与して、発ガンを見なかったとしよう。その実験の結果から、その物質に発ガン性なしとの結論を導くケースは大いにありそうだ。その否定的判断がはたして信頼に値するかどうかという問題が、ここに提起されなければなるまい。本稿の論理からすれば、ネズミの動物実験では人間に対して発ガン性ありとの判定は可能でも、発ガン性なしとの判定は不可能と考えるのが妥当ということになろう。

 人類がガンの猛攻にさらされている事実は、われわれの祖先がビタミンC合成能力を喪失した歴史と対応できるはずだ。ソビエトの医療でガン患者にこのビタミンを大量投与している事実をここに想起せざるをえない。ガンがこわいというなら、動物実験をふくめて、ガンの論理について広い視野からの不断の検討を試みるべきであろう。

東京タイムズ 一九七四年九月三日



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