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【短編小説】踏切

 自宅からスーパーまで徒歩5分。2分ほど歩くと、踏切がある。この踏切のせいで、スーパーがよりいっそう遠くに感じる。
 思ったよりも雨が降っている。

 優が帰ってこなかった。
 10月12日。特に何もない日。鍋をやろうと思った。白菜と豚肉のミルフィーユ鍋。下準備をしていると白菜が足りないことに気が付いた。
 私は優に白菜を買ってくるように頼んだ。40分ほど経過したが、優が帰ってくる気配が無かった。そういえば傘を持っていなかった。
 私は小さな折りたたみ傘を持って、優を探した。2人が入るにはあまりに小さい。家に2人用の傘は無かったから仕方がなかった。そもそも私は2人用の傘なんてものを知らない。
 踏切に差し掛かると、優がいた。線路を越えた先で蹲っていた。レジ袋に入った白菜を抱え、濡れた体を震わせている。
 私が名前を呼ぼうとした時、遮断機がゆっくりと動き始めた。優の震えが大きくなった。凍えているのではない。怯えているのだ。

 いつからか優は絶望していた。何か大きな事象が優の身に降りかかったわけではない。ゆるやかな絶望が優を包んだ。
 優は優しかった。芽生えた憎悪の刃を人に向けることができなかった。だから私が目を離すと、カッターナイフを自分の右腕に押し当てた。不自然な線が刻まれる度、私は優を叩いた。

 今から一ヶ月ほど前、事件は起きた。
 優の目の前で、人身事故が起こった。青年が発狂しながら線路に飛び込み、人間が肉塊に変わる一部始終を見てしまった。動転した優は、駅からなるべく離れるようにして走った。二駅分は走った。帰巣本能が優を家に帰した。そしてドアを開けた私に飛びついて泣き喚いた。
 夕食を食べると少し落ち着いたようだった。食後、シャワーに入ると言って席を立った。
 突然、脱衣所から優の苦しむ声が聞こえた。シャツに血痕と思しき赤い斑点が付着していた。私は洗剤を大量に入れたプラスチック製の洗い桶にシャツを入れて、血痕を手で擦った。それを見ながら、優は右腕の線を擦っていた。何度も擦った。しかし消えなかった。動きに落ち着きがなくなってきた優に、私は残り物のジャークチキンを与えた。

 それ以来、優は自傷行為をやめた。むしろ自分自身を過剰に守るようになった。自ら外出することをやめた。だから私は、積極的に優を部屋の外へと連れ出した。しかし電車に乗ることができなかった。強いトラウマを抱えてしまったのだ。いつもこの踏切から遠ざかるように歩いた。せいぜい行けて隣町のブックオフぐらいだったけど、私はそれで良かった。

 一人でスーパーに向かった優に、何も違和感を覚えなかった自分に苛立つ。スーパーへ行くには、この踏切を越えなければならない。目の前を通り過ぎる電車を見て、パニックに陥った優はどうすることもできずに、ただ、蹲っていた。それでも白菜だけは濡れないようにと、大事そうに抱えている。
 電車が通った。金切り声のような車輪の音が、私の耳にいやに張り付く。そして遮断機が上がる。気づけばもう、私は傘を差していなかった。
 優にゆっくりと歩み寄って言った。

「ありがと。」

 優は私を見上げて何か言ったが、地面を強く叩く雨粒の音がそれをかき消した。

「帰ろっか。」

 優は何も言わずに、ただ頷いた。
 私は優の手を握った。恐ろしく冷たかった。それから役割を失っていた小さな折りたたみ傘を、そっと白菜の上に被せて優に渡した。

「持ってて。」

 一歩ずつ、一歩ずつ、踏切の、その先の家を目指して、足を踏み出す。こんな土砂降りだというのに、私たちはゆっくりと歩く。私は優の手の微かな温もりを感じて、優は私の背中を見て、足が前に出る。転ぶ気がしない。
 それでも踏切の真ん中で、私の足は止まる。ちょうど良い倦怠感が私の足を止めてしまう。もう歩かなくて良いと、誰かが言っている。甲高い、耳障りな声。それは遮断機の音だった。ゆっくりと遮断桿が降りてくる。
 もういい。早く降りてこい。

「ごめん。白菜濡れたかも。」

 優が掠れた声で呟いた。
 動く。優の手を握り直して、再び歩き出す。この白菜が私たちに推進力を与えている。
 不意にヘッドライトの光を感じて、鼓動が早まる。慌てて駆け出して躓く。足に鋭い痛みが走る。挫いてしまった。しかし気づけば優は目の前にいて、私の手を力一杯引っ張る。

 警笛が真後ろで鳴っている。生きている。

 再び遮断桿が上がるにつれて、私の鼓動は正常に戻る。

「ありがとう。」

 優が私を負ぶると、ある事に気が付く。

「あ、ごめん。」

 白菜が袋から飛び出て、水たまりの上に転がっていた。

「買い直さないと――。」

「いや、大丈夫。」

 大丈夫。

「帰ろう。」

 雨足は弱まっていた。
 私たちは家に帰る。負けたくないから。家に向かって歩き続ける。

 意地でもミルフィーユ鍋作ってやる。

〜完〜

(1963字)


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