清さん軍事郵便③
昭和101年/平成38年/令和8年
家に残されていた軍事郵便を公開・文字起こししています。
残されていた清さんからの4通のハガキには、おそらく兄 乃武一さんが記したと思われるナンバリングがされているので、その順番通りに紹介しています。今回は3番目のハガキ・軍事郵便です。

【文字起こし】
お手紙受取りました 小生も
元気にやってゐ ます 皆さんお元
気なたより嬉しく思います
早いものです 今日で乗船してより一ヶ月
になりました 時計は必要を感じて
ませんから送って頂く事はありません
(黒塗:熱帯の海に出撃)大洋上の檜舞台に出躍〔躍出〕の日もそう遠く
はないでせう 其の時には御期待
に副ふべく頑張る覚悟です
近所の皆様に宜敷くと今日はこれにて
何れ又御便りします さようなら
文面から分かる事実の整理
執筆・投函された時期:【昭和19年(1944年)1月下旬〜2月上旬頃】
「乗船してより一ヶ月」……1通目のハガキ(12月15日投函)で「12月28日卒業、直後に海上の第一線(駆逐艦・岸波)へ赴く」とありました。そこからちょうど1ヶ月後ということになるため、このハガキが書かれたのは昭和19年の1月末から2月上旬。
南方への「出航直前」という歴史的背景……駆逐艦「岸波」の行動記録をたどると、竣工後の1月は国内(呉や横須賀)で戦闘訓練を行っており、2月後半にいよいよ最初の南方への大規模な船団護衛任務(トラック島・パラオ方面)のために日本を離れます。つまりこのハガキは、「もうすぐ日本の地を離れ、南方へ旅立つ、まさにその直前」に国内の基地から出されたものです。
2番目と3番目、本当の時系列
兄 乃武一さんによって、戦後、ハガキに振られた番号「1〜4」。しかし、清さんが実際にペンを走らせた順番は、「3番目(2月) → 2番目(夏)」だったと考えるのが自然です。
本記事の3番目のハガキは、出航前の慌ただしさの中で書かれたのかもしれません。そして、まだ本当の戦場を知らない時。だから、国のために戦うという教育通りの 「御期待に副うべく頑張る覚悟」という言葉があり、未来を疑っていないからこそ「又御便りします」という約束が口をついて出たのではないでしょうか。
しかし、2番目のハガキ(実質3通目:夏頃)には、そういう言葉はなく、ただ母親や叔父 叔母 近所の人たちへの気づかいばかりでした。この頃は、半年間にわたり、南方の主要海域を転戦。空襲、魚雷、目の前で沈んでいく味方艦と、おびただしい死者を目撃した直後(お兄様のメモにある「敵機23機と交戦、爆雷攻撃」の時期)です。
清さんは、本物の戦争がどれほど凄惨なものか、身をもって知ってしまいました。自分が明日生きている保証などどこにもない。その極限状態を経験した後の清さんには、もはや本記事のハガキのような「御期待に副うべく」という高揚した言葉は言えなかったのでしょう。
そして、何より「また手紙を書く」という約束が、どれほど残酷で、守れない可能性の高いものになってしまうかを、19歳の彼は肌で理解したからこその変化だったのかもしれません。
約束の代わりに選んだ「気づかい」
だからこそ、夏に書かれたハガキ(2番目)では、自分のことや未来の約束を一切語らなくなってしまった。
その代わりに、完璧な定型文の鎧をまとい、「お母さん、叔父さん、叔母さん、近所の人たち、どうかみんな無事で、体に気をつけて生きていてくれ」という、ただそれだけの祈りと気づかいで文面を埋め尽くしたのだと推測されます。
「安易な約束ができないほどのリアルを知ってしまった」
この2番・3番目のハガキは、文字も荒れ、文体も激変しています。すべてが清さんの「成長」ではなく「戦場による心の変貌」を物語っているようで、言葉にできない重みがあります。
【読者のみなさまへのお願い】 本記事に掲載している写真や史料の画像は、歴史的記録の紹介と個人の追悼を目的としています。画像の無断転載、保存、加工、生成AIの学習への利用、および実在の人物をモデルにしたフィクション(小説・二次創作など)の素材としての利用は固くお断りいたします。
当記事を書くにあたり、当時の専門用語や歴史的背景については、AI(Gemini)のサポートを受けながら、ネット上の情報と照らし合わせて調べています(後日、その調べる過程の会話ログも記事として公開予定です)。
私は歴史の専門家ではないため、もし記述に誤りや、新しい事実をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄で教えていただけますと幸いです。清さんの足跡を、みなさんと一緒に正しく紐解いていければと思っています。
